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師弟凱歌の記憶 特別編「広布の言論戦へ 嵐の船出」

2020年08月24日 | 妙法

第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 特別編「広布の言論戦へ 嵐の船出」 2020年8月24日

  • 「聖教創刊原点の日」70年
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 8・24「聖教新聞創刊原点の日」満70年を記念し、「師弟凱歌の記憶」特別編として、本紙の創刊と発展を巡る師弟のドラマを追う。

 

「無冠」1969年(昭和44年)新年号に池田先生が寄せた詩「無冠の友よ」の自筆原稿(冒頭部分)。「おお 誇り高き 無冠の友よ/静寂の朝――/暁天をあおぎ 広布の便りを/携えて走る。今日も、明日も。/君等こそ、如来の使いの姿であり/真実の 民衆の王者だ。」
「無冠」1969年(昭和44年)新年号に池田先生が寄せた詩「無冠の友よ」の自筆原稿(冒頭部分)。「おお 誇り高き 無冠の友よ/静寂の朝――/暁天をあおぎ 広布の便りを/携えて走る。今日も、明日も。/君等こそ、如来の使いの姿であり/真実の 民衆の王者だ。」
 

 晴れの日も雨の日も、本紙を配達してくださる「無冠の友」の軽やかな足音とともに朝が明ける。
 
 “希望の頼り”を届ける尊き同志への尽きせぬ感謝を、池田先生はこう述べている。
 
 「私も妻も、毎朝、新聞が届けられる時間になると、よく二人で合掌して感謝している。『今ごろ、新聞が届いたかもしれないね。ありがとう』と。また、新聞を手に取るときも、『配達をされる無冠の友の皆さま、ありがとう』と。いつもそういう思いでいる」
 
 師と同志の祈りと努力によって、2万560号の歴史を紡いできた聖教新聞。今や「聖教電子版」を通じて、205カ国・地域で日々、同時に読まれる時代となった。
 
 池田先生はつづる。
 
 「恩師・戸田先生も、『大作、「日本中、世界中の人が読む聖教にしよう」と語り合った通りになったな』と、呵々大笑されているに違いない」

 

南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃のために戦ったネルソン・マンデラ氏を歓迎する池田先生(1990年10月、旧・聖教新聞本社で)。先生は聖教を舞台に、世界の指導者と平和への語らいを繰り広げてきた
南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃のために戦ったネルソン・マンデラ氏を歓迎する池田先生(1990年10月、旧・聖教新聞本社で)。先生は聖教を舞台に、世界の指導者と平和への語らいを繰り広げてきた
嵐の中で恩師が弟子にたくした創刊構想

 広宣流布のための機関紙を持つ構想は、創価の師弟が大試練の渦中にある時に生まれた。
 
 1950年(昭和25年)8月24日、戸田先生は東京・虎ノ門の喫茶店で、ある新聞記者と向き合っていた。その傍らには、22歳の池田先生がいた。折からの経済不況で、経営する信用組合の破綻が決定的になった。その噂を察知した記者が、スクープを物にしようと近づいてきたのである。
 
 この前日、池田先生は、訪ねてきた記者と会っていた。先生は訴えた。
 
 ――もとより、戸田先生は逃げも隠れもしない。だがいい加減なことを書かれてしまえば混乱し、清算事務も危機に陥ってしまう。
 
 理を尽くし、誠実に、長時間にわたって事情を説明した。また、敬愛する師の人間像についても語った。そして、翌24日、戸田先生を交えて会見することを約束したのだ。
 
 戸田先生は、悠然と記者に対した。事態打開の道筋を語り、必ず社会的な責任を果たすことを言明。無用な混乱を招かぬ為に、報道はしばらく控えてほしいと、率直に伝えた。
 
 記者は、困惑しながらも、意を決するように言った。「わかった。よし、待ちましょう……」。社会不安をあおるような記事が出ることはなかった。

 

 その帰り道、戸田先生は、歩きながら池田先生に言った。「これからは“文”の戦いだ」「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならない。大作、よく考えておいてくれ」
 
 この日夜、戸田先生は、事業のことが波及しないよう考慮し、学会の理事長辞任の意向を発表した。
 
 池田先生は、この日で入信満3年。棘の道を進む中で、師の言葉を余さず生命に刻んだ。
 
 この8月24日が、後に「聖教新聞創刊原点の日」として輝く、歴史的な一歩となる。

 

せい鶴見にえんじょう」のかげにあった闘争
戸田先生と池田先生の師弟の語らいによって生まれた聖教新聞。創刊号には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍った(小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)
戸田先生と池田先生の師弟の語らいによって生まれた聖教新聞。創刊号には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍った(小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)
 

 いざ事業が危機に陥ると、多くの人々が戸田先生のもとを去っていった。池田先生は、ただ一人になろうとも、活路を開くために戦い抜くと誓っていた。
 
 先生は、その決意を一首の歌に託して、戸田先生に贈った。
 
 「古の
   奇しき縁に
     仕へしを
   人は変れど
     われは変らじ」
 
 苦境の時代、池田先生が仕事で毎日のように訪れた地がある。神奈川の横浜市鶴見区だ。
 
 草創の広布を開いた柱の一つ「鶴見支部」の拠点もあった。先生は激務の間隙を縫うように、愛する同志を励ましていった。
 
 病床に伏す壮年の手を取って「苦難が多ければ多いほど、幸せも多いです」と御本尊への確信を語る一方、継ぎはぎだらけの“もんぺ”をまとった女性たちには“この信心で、貴婦人になっていきましょう”と明るく声を掛けた。
 
 誰もが貧しく、皆、生活闘争に真剣だった。
 
 先生自身、冬でもコートがなく、レインコートを着て鶴見に来ていた――ある友は、そんな様子を記録している。恩師の仕事の重責を担いつつ、広布開拓に死力を尽くす闘争が、同志の心に火を付けた。
 
 そんな秋霜烈日の50年(同25年)12月、東京・新橋駅近くの食堂で、戸田先生は再び池田先生に言った。「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
 
 その2カ月後には、「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」と――。

 

「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を期す」
 

 寒い冬を越えた51年(同26年)3月11日、複雑な手続きなどを全て処理し、戸田先生の信用組合は正式に解散。嵐の中に一筋の光が差し込んだ。
 
 相前後して、恩師のもとに池田先生らが集まり、機関紙発刊への企画会や打ち合わせが何度も開かれる。
 
 紙名を検討した際には、「文化新聞」「創価新聞」「世界新聞」、さらには「宇宙新聞」の案が出され、最終的に「聖教新聞」の名称が決まった。
 
 先生は、日記に記した。
 
 「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す。広宣流布への火蓋は遂にきられた。決戦に挑む態勢は準備完了」(3月17日)
 
 同年4月20日、待望の聖教新聞が創刊された。旬刊(10日に一度の発行)2ページ建て。発行部数は5000部だった。
 
 創刊号1面のトップ記事は、「信念とは何ぞや?」と題する戸田先生の論文。下段にもまた、戸田先生の小説『人間革命』が掲載された。
 
 2面には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍り、折伏・弘教をリードする鶴見支部の奮闘が紹介された。その記事に、池田先生の名は出てこない。しかし躍進の陰に、先生の激闘があったことを、支部の誰もが知っていた。

 

広布の伸展しんてんと共に
創刊まもない聖教新聞の編集室があった東京・新宿区の市ケ谷ビル(右端、小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)。戸田先生と池田先生がしばしば訪れた「市谷食堂」が近くにあった
創刊まもない聖教新聞の編集室があった東京・新宿区の市ケ谷ビル(右端、小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)。戸田先生と池田先生がしばしば訪れた「市谷食堂」が近くにあった
 

 5月3日、戸田先生が学会の第2代会長に就任。同月末、聖教新聞の編集室は新宿・百人町から、市ケ谷駅近くのビルに移転する。
 
 机を二つ並べれば埋まるような狭い部屋。取材のためのカメラは旧式のものが1台あるだけ――そんな小さな一室で生まれた新聞が広布の原動力になった。
 
 戸田先生自ら、「寸鉄」などに筆を振るった。
 
 池田先生も書いた。人物紹介の記事。偉人に学ぶ啓発的な記事……。
 
 2年後には週刊に。さらに4ページ、6ページ、8ページ建てと紙面を増やし、広布の伸展と共に、聖教新聞も発展の一途をたどったのである。
 
 池田先生が第3代会長に就任すると、そのスピードは加速。5000部で始まった聖教新聞は、創刊わずか10年後には100万部を超えている。

 5月3日、戸田先生が学会の第2代会長に就任。同月末、聖教新聞の編集室は新宿・百人町から、市ケ谷駅近くのビルに移転する。
 
 
 池田先生が第3代会長に就任すると、そのスピードは加速。5000部で始まった聖教新聞は、創刊わずか10年後には100万部を超えている。

「一万号 ついに登れり 聖教山 万歳」――1990年(平成2年)7月19日付で本紙が1万号を迎えた際に池田先生が贈った句。「聖教の皆様 本当に御苦労様です。 合掌」との言葉と共に
「一万号 ついに登れり 聖教山 万歳」――1990年(平成2年)7月19日付で本紙が1万号を迎えた際に池田先生が贈った句。「聖教の皆様 本当に御苦労様です。 合掌」との言葉と共に
 

 聖教新聞は、わが愛する同志への手紙――池田先生はこの思いで、小説『人間革命』などの原稿執筆に当たりつつ、全てのスタッフ、関係者に厳愛の指導、励ましを送り続けてきた。
 
 広告、印刷、輸送、さらには通信員、販売店、無冠の友(配達員)などへの、先生のこまやかな激励が絶えることはなかった。
 
 新聞は「総合力」の結晶である。執筆から印刷、そして配達まで、膨大な作業が日々続く。誰一人として欠けても、読者には届かない。その厳しい事実を先生は熟知していた。
 
 家計を支えるため、小学6年次から3年間、新聞配達をした。
 
 終戦直後、18歳の頃には印刷会社に身を置いた。営業に回って受注を取り、印刷現場では活字を一字一字拾って、刷り上がりの校正作業まで携わったという。
 
 49年(同24年)1月からは戸田先生が経営する日本正学館の一員となり、少年雑誌『冒険少年』『少年日本』の若き編集長として奮闘。作家や挿絵画家のもとに足を運び、締め切りと格闘した。時には、「山本伸一郎」のペンネームで少年少女のために自ら健筆を振るった。
 
 活字メディアで発信する責任の大きさも、目立たぬ陰の辛苦も、先生自身が、ひしひしと体感してきたことである。

 

 
民衆城を守る“武器”として

 聖教新聞は、民衆に勇気と希望を送る「人間の機関紙」である。一方で、民衆を虐げる言動とは断固戦う“武器”とも“弾丸”ともなる。
 
 1981年(昭和56年)12月、先生は大分へ。約300人の友と、竹田市の岡城址で記念撮影を行った。大分は、宗門僧が謀略の限りを尽くした第1次宗門事件の震源地の一つであり、最も苦しんだ地域の一つが竹田だった。
 
 池田先生は撮影後、熊本に向かう車中で提案した。“写真は、できるだけ大きく! 2面から3面にわたって掲載しよう。写真が真ん中で切れてもいい”――その言葉に、紙面のレイアウトを担当する記者は驚いた。
 
 12月14日付の本紙。2ページにまたがる特大の記念写真が紙面に掲載され、感激が広がった。
 
 宗門僧の過酷な非難・中傷に耐え抜き、戦い、勝利した仏子たちを、庶民の英雄たちを、最大に賞讃し、宣揚したかったのだ。先生の熱情が、新聞制作の枠をも飛び越えた。その後、同様の記念撮影は、熊本、神奈川などでも行われ、“民衆の大勝利宣言”となる写真が紙面を飾った。先生は、聖教紙上で共戦の同志を鼓舞しながら、新時代を開くべく、反転攻勢の大波を起こしていったのである。

 

明春の創刊70年へ共戦のを!
東京・信濃町の「創価学会 世界聖教会館」。2019年11月18日にオープンした
東京・信濃町の「創価学会 世界聖教会館」。2019年11月18日にオープンした
 

 昨年11月に「世界聖教会館」がオープンした。池田先生ご夫妻は先立って9月、10月と2度訪問。勤行・唱題して、聖教新聞の世界的発展と無冠の友の無事故・幸福を祈念した。
 
 同会館の「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には、こうある。「広宣流布とは言論戦である。仏法の真実と正義を叫ぶ、雄渾なる言葉の力なくして、創価の前進はない」
 
 不二の師弟が、嵐の渦中で聖教新聞の創刊を構想して70年。明年4月20日には創刊70周年となる。
 
 聖教新聞は、永久に師弟共戦の師子吼を放つ。
 
 世界宗教へと飛翔する創価学会の誇り高き機関紙として、人間主義の論調を世界中に発信しゆく。

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