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池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞くⅡ部〉第2回 地球を照らす創価の平和運動㊥

2020年05月20日 | 妙法

〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞くⅡ部〉第2回 地球を照らす創価の平和運動㊥  2020年5月14日

  • 〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
  • 「国連支援」も戸田先生の構想――
  • 弟子の道を貫く池田先生の行動
  • 〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
  • 「国連支援」も戸田先生の構想――
  • 弟子の道をつらぬく池田先生の行動
世界が創価の師弟の闘争を賞讃

 ◆大串 前回、池田先生が1975年(昭和50年)1月にニューヨークの国連本部を訪問され、国連事務総長に青年部が進めた「核廃絶一千万署名簿」を提出された話を伺いました。この折、先生は、「国連を守る世界市民の会」の創設を提唱されています。
  
 ◇原田 なぜ先生が国連支援を貫かれているのか。それは、戸田先生の遺言の一つでもあるからです。戸田先生は生前、語られていました。「国連は、20世紀の英知の結晶である。この希望の砦を、次の世紀へ断じて守り抜き、大きく育てていかねばならない」と。
 池田先生の行動は、こうした恩師の構想を実現するためのものでもありました。
 82年6月には、国連本部の総会議場のロビーで「核兵器――現代世界の脅威」展が開かれました。開催の背景には、その前年夏に行われた池田先生と国連の明石康事務次長(当時)との会見があります。お二人は意見交換を重ねる中で、国連本部での開催の着想を育まれたのです。

 

 
“核の脅威展”を170万人観賞

 ◆西方 同展は、第2回国連軍縮特別総会の開会に合わせて、学会と国連広報局、広島市、長崎市の共催で行われています。
  
 ◇原田 学会側は、当時の青年部を中心に、原案の作成に取り掛かりました。最大の難関は、その原案が国連の展示委員会の厳格な審査を通過するか否かでした。
 展示の意義の第一は、広島・長崎の被爆の実態を、国連で初めて展示できるということです。過去に、広島市と長崎市が“原爆写真展”の開催を国連に申し入れたことがありましたが、実現できませんでした。
 国連は、各国の利害の着地点を見つける「調整役」とならざるを得ない現実があるだけに、展示委員会でも各国への配慮は大変なものがありました。明石事務次長からは、「3分の2はカットされることを覚悟して、はじめから十分な量の準備を」と要請されるほどでした。
 学会は約3カ月間、多くの学者やジャーナリスト、平和運動家、国連関係者などから貴重な示唆を得ながら、万全を期して原案を作成しました。展示は3部構成で、広島・長崎の惨状だけでなく、核の脅威と軍縮を強く訴える内容となりました。
 学会の代表は原案を携えてニューヨークへ行き、明石事務次長に提出。そして約1カ月間、展示委員会からの修正を加え、再提出を繰り返しました。
 最終的には、“許可されないのではないか”と、一番懸念されていた広島・長崎の被爆の実態についての部分だけは、1カ所も削られることなく承認されたのです。

 

国連本部で開かれた“核の脅威展”を、当時のデクエヤル国連事務総長(左から2人目)が観賞(1982年6月)                
国連本部で開かれた“核の脅威展”を、当時のデクエヤル国連事務総長(左から2人目)が観賞(1982年6月)                
             

 ◆西方 “核の脅威展”は、第2回国連軍縮特別総会の期間中、約1カ月間、国連本部のロビーで行われました。当時のデクエヤル国連事務総長をはじめ、国連関係者やNGO関係者、総会に参加した各国大使ら、さらに20万人を超える世界の人々が見学に訪れ、大反響を呼んだと聞いています。
  
 ◇原田 当時、国連は強い緊張感に包まれていました。イギリスとアルゼンチンによるフォークランド紛争が勃発し、開会式の日も、安全保障理事会での協議が続いていたのです。
 そうした多忙を極める中、デクエヤル事務総長が訪れ、予定していた「5分」の見学時間が「30分」に延びるほど、丹念に展示を見学されました。そして、興奮した面持ちで語られたのです。
 「この展示を、総会期間中に集まる世界各国の大使、公使、外交官に全部、見せるようにしたい。充実した内容は、ぜひ何らかの形で小冊子にして配ってほしい。今回の展示に対する創価学会の貢献に感謝します!」と。
 なお、デクエヤル事務総長は、その2カ月後の8月に来日された折に池田先生と会見され、その後も交流を重ねられました。
  
 ◆樺澤 この“核の脅威展”は、「世界軍縮キャンペーン」の採択に大きなインパクトを与えたと高い評価を得ました。
  
 ◇原田 キャンペーンの一環として、同展は第3回国連軍縮特別総会(88年5月31日開幕)まで世界を巡回しました。核保有国はもとより、イデオロギーや社会体制の異なる各国でも展示され、核軍縮・廃絶への世論を喚起したのです。
 96年(平成8年)6月からは、「冷戦後」の時代状況に即して内容を一新し、「核兵器――人類への脅威」展として再開。合わせて、世界24カ国39都市で170万人に観賞され、学会が平和意識の啓発に大きな役割を果たしていったのです。

 

仏法者として人道問題に尽くす
 

 ◆林 こうした活動を国連も高く評価し、池田先生に「国連平和賞」(83年)が贈られています。また先生は、「国連栄誉表彰」(88年)、「平和貢献・国連事務総長表彰」(89年)などを受けられています。
  
 ◇原田 89年には、スイスのジュネーブで国連難民高等弁務官事務所の「人道賞」も先生に贈られました。これは、先生のリーダーシップにより、学会が長年、難民救援活動を続けてきたことをたたえたものです。
 その折、先生は、あいさつの中で、「仏法者は即ち人道主義者でなければならない。ゆえに私は仏法者として、平和のために、人道問題のために尽くしていきたいと決意し、抽象論でなく、具体的に行動してきたつもりです」「現代世界の直面しているさまざまな問題解決へ更に力を尽くしていく所存です」と述べられました。
 また受賞後には、「今回の『人道賞』は、私個人に与えられたものではない。これは、学会の平和委員会の活動と連動し、青年部が仏法者として進めてきた献身的な人道活動の結実であり、私どもの活動に対する一つの世界的な評価と受けとめたい」とも語ってくださっています。
  
 ◆大串 先生は“世界最古の総合大学”と呼ばれるイタリア・ボローニャ大学での講演(94年)でも、国連の存在が極めて重要であると強調されました。
  
 ◇原田 「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題する記念講演の中で先生は、国連を軸にした新たなグローバルな秩序形成のため、それを担う「世界市民」の輩出が重要であることなどを訴えられました。
 2年後の96年6月には、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われた「世界青年平和文化祭」に出席され、当時、国連児童基金(ユニセフ)の執行理事会議長だったチョウドリご夫妻と出会い、交流が始まります。
 そして2006年、先生は、国連事務次長になられたチョウドリ氏に「世界が期待する国連たれ――地球平和の基軸・国連の大使命に活力を」と題する国連提言を手渡されたのです。
 提言では、「戦争の文化」から「平和の文化」へと転換しゆく、グローバルな「対話の場」としての国連の大使命を強調され、核軍縮・廃絶、青年の参加、世界の諸大学とのネットワークの形成などをテーマに具体的な諸改革を提唱。そして、核軍縮を巡る停滞を打開するために、「核廃絶へ向けての世界の民衆の行動の10年」を制定することを呼び掛けられたのです。
 この提言をもとにSGIでは、戸田先生の「原水爆禁止宣言」50周年となる07年9月から「核兵器廃絶への民衆行動の10年」を開始しました。

 

ICANの母体となったIPPNWのラウン会長と再会を喜び合う池田先生(1989年3月、旧聖教新聞本社で)
ICANの母体となったIPPNWのラウン会長と再会を喜び合う池田先生(1989年3月、旧聖教新聞本社で)
 
草の根レベルの取り組みさらに

 ◆西方 17年にノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)とSGIとの交流も、その頃から始まります。ICANの母体であるIPPNW(核戦争防止国際医師会議)と学会の親交が背景にあったからです。そのIPPNWを共同創設し、1985年にノーベル平和賞を受賞したバーナード・ラウン会長と池田先生の初めての出会いは、モスクワでの“核の脅威展”(87年5月)であったと伺っています。
  
 ◇原田 その通りです。そして2回目の出会いが89年3月、ラウン会長が先生のもとを訪れ、核兵器廃絶に向けた努力を約し合い、さらに深い友情が結ばれました。
 この年の10月には、もう一人の共同創設者のミハイル・クジン会長(ソ連)とも大阪で会談されています。
 その後、SGIは国連本部で「戦争と平和」展をIPPNWと共同で開催。さらにSGIの代表がIPPNWの世界大会に参加し、池田先生が同大会にメッセージを贈るなど、両団体は核兵器のない世界を目指すパートナーとして、長年にわたり協力を重ねてきました。
 2007年にICANが発足後、学会本部を訪れた当時のティルマン・ラフ議長から国際パートナーとしての協力要請があり、SGIとICANの歩みが始まりました。
 「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の一環として、ICANの協力を得て制作された「核兵器なき世界への連帯――勇気と希望の選択」展は、19カ国81都市を巡回。15年には、ICANとSGI等の協力で、「核兵器廃絶のための世界青年サミット」が広島で開かれ、翌年には、サミットに参加した代表らにより、核兵器廃絶を求める青年の国際ネットワーク「アンプリファイ」が誕生するなど、草の根レベルでの平和運動が加速していきました。
 ICANのベアトリス・フィン事務局長がノーベル賞受賞直後に総本部を訪問された時には、私も歓迎させていただきました。受賞を祝福すると、フィン事務局長は、「祝意の言葉をいただき、ありがとうございます。ですが、皆さんもICANですから、私からも“おめでとうございます”と申し上げたいと思います」と語られ、SGIが果たしてきた役割の大きさを強調されていました。
 全ては、池田先生が長年にわたり結んでこられた友情と信頼のたまものなのです。
 元国連軍縮担当上級代表のドゥアルテ氏は、こうたたえています。「SGIは、核兵器を廃絶するために世界各地で展開する多彩な取り組みにおいて、青年に発言権を与え、参加意識を持たせるための、実際的で極めて効果的な方法を見つけてこられました。それゆえ私は、核兵器のない平和な世界のために多大な努力を続けてこられたSGIの池田大作会長を賞讃させていただきたい」と。
 今や世界の識者が創価の平和運動を高く評価し、期待する時代になりました。戸田先生から池田先生へと受け継がれた師弟不二の平和闘争の魂をしっかり継承していきたいと思います。

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池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞くⅡ部〉第3回

2020年05月20日 | 妙法

〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞くⅡ部〉第3回 地球を照らす創価の平和運動㊦  2020年5月18日

〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
 
世界の知性と1600回の語らい 32回の学術講演
 
開かれた対話で分断から調和へ
 

 ◆樺澤 池田先生はこれまで、1600回を超える世界の識者との宗教間対話、文明間対話をされ、平和の連帯を築いてこられました。その対話の一つ一つが、私たち弟子にとって人間外交の教科書そのものです。
  
 ◇原田 池田先生は、一貫して「一民間人」、また人間主義の「仏法者」の立場で、対話を重ねてこられました。
 その発端となったのは、1967年(昭和42年)10月、「ヨーロッパ統合の父」と呼ばれたクーデンホーフ=カレルギー伯爵との語らいです。お二人の対談集は、『文明・西と東』として出版されています。
 そして69年には、20世紀最大の歴史学者トインビー博士から会談を望む手紙が寄せられ、72年に先生がロンドンの博士の自宅を訪問。対談は翌年も行われ、延べ10日間、40時間に及びました。多岐にわたった語らいは対談集『21世紀への対話』として結実。現在、29言語に翻訳・出版され、世界の大学等の教材としても使用されています。
  
 ◆西方 トインビー博士は、先生に世界の知性との対話を期待されたと伺っています。
  
 ◇原田 対談の最後に、先生が個人的な助言を求めると、博士は“私が忠告するなど差し出がましいことです。私は学問の世界の人間であり、あなたは行動の人です。あなたが主張された中道こそ、今後、歩むべき道です”と語られました。
 そして先生の同行者に、ローマクラブのペッチェイ博士ら世界最高峰の知性の名前を記したメモを渡され、こう伝言されます。「あなたが、世界に対話の旋風を巻き起こしていくことを、私は、強く念願しています」
 そこには、対話によって世界を結んでほしいとの、博士の強い思いが感じられてなりません。この博士の心に応えるように、先生は、それらの方々とも対話を重ねられていくのです。

 

40言語以上に翻訳されている池田先生と世界の知性との対談集。これまでに発刊された数は、約80点に及ぶ
40言語以上に翻訳されている池田先生と世界の知性との対談集。これまでに発刊された数は、約80点に及ぶ
 
「そこに人間がいるからです」

 ◆西方 トインビー博士は、日ソや中ソなどの間で対話が進むことも望まれていましたね。
  
 ◇原田 当時、先生もまた日ソ関係を憂慮されるとともに、中国とソ連が対立していることも大変に心配されていました。そして、74年の5月に中国を、9月にソ連を相次ぎ初訪問されます。「宗教者がなぜ宗教否定の国へ行くのか」と、冷笑する声もありました。しかし、先生は厳然と言われました。「そこに人間がいるからです」と。
 ソ連訪問は、モスクワ大学の招聘でした。当初、ソ連指導部の全てが歓迎したわけではありません。先生は68年に日中国交正常化を提言され、日中友好の実現に尽力してきたからです。
 「池田会長はソ連の敵なのか、味方なのか」――ソ連側は判断に迷っていたのでしょう。当時の対日関係の実質的な責任者であり、ソ連共産党・国際部の幹部だったコワレンコ氏が、先生の宿泊するホテルの部屋を訪れた時のことです。日中平和友好条約についての話に及ぶと、「そうは言っても池田会長!」と、氏が声を荒らげて机をたたき、さらに、「ソ連は日本を壊滅させる力がある。何なら、もう一回戦争しましょうか」と言い放ったのです。
 氏は日本側から“恫喝外交”の「強面」としても知られていました。普通の日本人なら、ここで怖じ気づくところです。しかし先生は「手は痛くありませんか?」と、すかさず笑顔で切り返され、一歩も引かずに平和への信念を語り抜かれたのです。
 まさに「立正安国論」の「主人咲み止めて曰く」(御書24ページ)の姿そのものであります。
 コワレンコ氏は、そうした先生とのやり取りを通して、“この人は本当に信頼できる”と思ったのでしょう。氏が、74年の先生とコスイギン首相との会見実現のために奔走したことは、有名な史実です。

 

元ソ連大統領「池田会長は民間外交の第一人者」
 

 ◆西方 先生は、その後もソ連の指導者との会談を重ねられました。
  
 ◇原田 81年5月、チーホノフ首相に先生は、「スイスなどよき地を選んで、アメリカ大統領、そして中国首脳、日本の首脳と徹底した話し合いを行ってくだされば、世界中の人びとが、どれほど安堵できるでしょうか」と呼び掛けられたこともありました。
 モスクワでのゴルバチョフ大統領との初会見は、90年(平成2年)7月。実はこの頃、戦後45年になるというのに、ソ連の国家元首が一度も訪日していないという異常事態が続いていました。そうした中、ゴルバチョフ大統領が先生との会見で、初訪日の意向を表明したのです。このことは即刻、日本中、世界中にビッグニュースとして伝えられました。まさに、この会見から、日ソ友好の新たな歴史が開かれたのです。約束通り、その翌年4月にゴルバチョフ大統領が訪日し、先生とも再会されました。
 モスクワ大学のサドーヴニチィ総長は、「振り返るに、歴史が、池田先生のご決断の正しさを見事に証明しています」と述懐されています。
 ゴルバチョフ大統領も、「池田会長は、民間外交の第一人者です。それゆえ、私たちも、すぐに信頼関係を築き、心を開いて対話することができました。すぐに、分かり合えることができたのです。池田会長は、開かれた対話の精神を持たれ、その貢献には、絶大なるものがあります」と。
 当時は第2次宗門事件の嵐が吹き荒れる中でした。しかし先生は、そんなものは悠然と見下ろし、広宣流布即世界平和の大道を威風堂々と切り開かれていったのです。
 <ゴルバチョフ氏との交流については、学会公式ホームページ「SOKAnet」の第3代会長就任60周年を記念する特設ページ「映像で見る池田先生の行動と軌跡」でも視聴できます>

 

 ◆大串 池田先生は、ノーベル化学賞と平和賞を受賞されているアメリカのポーリング博士とも対談集『「生命の世紀」への探求』を編まれています。
  
 ◇原田 ポーリング博士と先生が初会談されたのは、87年2月。まもなく86歳になる博士がサンフランシスコの自宅から約800キロの道のりを越え、当時の創価大学ロサンゼルス分校に駆け付けてくださいました。
 博士は「池田会長とお近づきになれるのは、私にとって大きな喜びなのです。特に世界平和を達成するために大変な努力をされている方とお会いできたのを喜んでおります。その努力が実るよう、私にできることは、何でも喜んで協力させていただきます」と述べられました。
 博士は、先生が93年にアメリカのクレアモント・マッケナ大学で「新しき統合原理を求めて」と題して講演された折にも、講評者として登壇されています。その際、「この講演は私の主張を代弁してくださったと申し上げてもよいほどです。とりわけ私が感銘を深くしたのはSGI会長が十界論を紹介され、他者への献身に根差した菩薩の境涯について語られた部分でありました」「菩薩の行動にこそ人間としての美しき証しがあり、分断を超えて共感を結びゆくカギもあります」と訴えられていました。
 こうして先生と博士は、平和のために、深く交流を結ばれていったのです。

 

世界最高峰の知性の学府・ハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して2度目の講演を行う池田先生。「生も歓喜、死も歓喜」との生命観は大きな反響を呼んだ(1993年9月)
世界最高峰の知性の学府・ハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して2度目の講演を行う池田先生。「生も歓喜、死も歓喜」との生命観は大きな反響を呼んだ(1993年9月)
 

 ◆林 池田先生は、海外の大学・学術機関等で32回の講演をされ、仏法の平和思想を世界に発信してこられました。91年9月には、アメリカのハーバード大学で「ソフト・パワーの時代と哲学――新たな日米関係を開くために」と題して講演。93年9月にも、同大学で2度目の講演をされています。
  
 ◇原田 2度目の講演は、同大学の文化人類学部と応用神学部の合同招聘によるもので、「21世紀文明と大乗仏教」と題して行われました。
 先生は、20世紀は科学技術を中心に発展したが、「戦争と革命の世紀」と呼ばれるほど、史上かつてない犠牲者を出してしまったと述べられ、こうした悲劇は、人間の幸不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残したと指摘されました。
 そして、21世紀は「生死観、生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろう」との観点から、「生も歓喜、死も歓喜」との大乗仏教に流れ通う生死観を紹介されます。そうした哲理が21世紀文明に貢献しうるであろうと強調され、あらゆる差異を超えて、人々を分断から調和へと導く「開かれた対話」の重要性を訴えられた感動の講演でした。
 約40分間にわたる講演が終わると同時に、会場内には深い感嘆のため息とともに、大きな拍手が、しばし鳴りやむことはありませんでした。
 聴講した各分野の教授から、「SGI会長こそ、日本に、また世界に、未来へのビジョンを示し続けている希有な存在であることを知るべきです」など、多くの賛辞が寄せられました。

 

師匠の行動を受け継ぐ誓い新た
 

 ◆大串 この年には、人類が直面する諸課題に対して、仏法の人間主義の視点から解決の方途を探求する平和研究機関「池田国際対話センター」(旧・ボストン21世紀センター)が誕生しています。
  
 ◇原田 もう一つ私が忘れられないのは、97年10月のインドでの記念講演です。
 先生がニューデリーの国際空港に到着された時、多くの要人が出迎えました。その一人、ラジブ・ガンジー現代問題研究所のフセイン副議長(当時)が先生に、こう語り掛けました。
 「ここは釈尊を生んだ地です。精神の大国であるインドにSGI会長が来られた。私たちは聖者を迎えたような気持ちです。先生のことは著作を通して、よく存じております」
 先生は副議長などの発言から、「精神の大国」「青年の大国」として発展する息吹を感じられ、日本で準備された記念講演原稿を大幅に添削、加筆されたのです。大統領や首相との会見や日印友好文化祭の出席をはじめ、息つく暇もないほどのスケジュールの合間を縫っての作業でした。
 そして迎えた「『ニュー・ヒューマニズム』の世紀へ」と題する記念講演は、深い哲学的な洞察の上から、非暴力の精神の重要性に触れつつ、「21世紀はアメリカ、中国、インドの3国が主軸となる」「2国が中心だと、どうしても対立の方向に行ってしまう。3国があってこそ、常に話し合い、連携をとりながら、平和の方向へと全体の軌道をもっていける」という、先見性にあふれたものでした。
 講演が終わるや、雷鳴のような拍手と喝采が沸き起こり、あいさつに立ったフセイン副議長は、大感動の面持ちで宣言されました。
 「“アジアの光”である釈尊は、たしかに、このインドに生まれました。しかし、そのまばゆい光は日本に受け継がれ、池田博士が、それを一段と燦たる大光へと輝かせたのであります」と。
 いよいよ新世紀へ、「仏法西還」の大いなる遠征が開始された歴史的瞬間であると思いました。
 私は昨年9月にインドを訪問しましたが、発展を遂げている様子に22年前の先生の講演が、どれほど深い意味を持つものであったかと、感動を禁じ得ませんでした。
 私どもは池田門下生として、創価の師弟に流れ通う平和への信念と行動を受け継ぎ、人道の世紀を開きゆく誓いを新たにしていきたいと思います。

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小説「新・人間革命」に学ぶ 第19巻 御書編  2020年5月20日

2020年05月20日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第19巻 御書編  2020年5月20日

  • 連載〈世界広布の大道〉
絵・間瀬健治
 
絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第19巻の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」と併せて、識者の声を紹介する。挿絵は内田健一郎。

御本尊は生命映す「明鏡」
 
【御文】

 此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(御書1244ページ、日女御前御返事)
  

【通解】

 この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える、その胸中の肉団にいらっしゃるのである。
  

  

【小説の場面から】
 

 〈1974年(昭和49年)の「立宗宣言の日」にあたる4月28日、山本伸一は、北陸の同志に、御本尊の意義について語る〉
  
 仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
  
 そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための「明鏡」こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。(中略)
  
 人間の生命を根本尊敬する日蓮仏法こそ、まさに人間尊重の宗教の究極といってよい。そして、ここにこそ、新しきヒューマニズムの源泉があるのだ。
  
 誰もが、平和を叫ぶ。誰もが、生命の尊厳を口にする。
  
 しかし、その尊いはずの生命が、国家の名において、イデオロギーによって、民族・宗教の違いによって、そして、人間の憎悪や嫉妬、侮蔑の心によって、いともたやすく踏みにじられ、犠牲にされてきた。
  
 いかに生命が尊いといっても、「根本尊敬」という考えに至らなければ、生命も手段化されてしまう。(中略)
 人間の生命に「仏」が具わり、“本尊”であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい。(「宝塔」の章、300~301ページ)
  

   

皆が使命深き地涌の菩薩
 
【御文】

 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり(御書1360ページ、諸法実相抄)
   

 
【通解】

 末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女は問わない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ、唱えることのできない題目なのである。
  

   

【小説の場面から】
 

 〈1974年(昭和49年)2月、山本伸一は、沖縄の友に広布の使命への自覚について訴える〉
  
 「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩です。(中略)私たちは、どんな宿業に悩んでいようが、本来、地涌の菩薩なんです。
  
 宿業も、末法に出現して広宣流布するために、自ら願って背負ってきたものなんです。でも、誰を見ても、経済苦や病苦など、苦しみばかりが目立ち、地涌の菩薩のようには見えないかもしれない。事実、みんな、日々悩み、悶々としている。
  
 しかし、広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こす時、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と涌現するんです。
  
 不幸や悩みに負けている仏などいません。苦悩は必ず歓喜に変わり、境涯は大きく開かれ、人間革命がなされていく。そして、そこに宿命の転換があるんです」(中略)
  
 法華経の会座において、末法の広宣流布を託されたのが地涌の菩薩である。そして、その上首・上行菩薩の姿を現じられたのが御本仏である日蓮大聖人である。
  
 したがって、私たちは広宣流布の使命に生きる時、地涌の菩薩であるその本来の生命が現れ、大聖人の御生命が、四菩薩の四徳、四大が顕現されるのである。それによって、境涯革命、人間革命、宿命の転換がなされていくのだ。(「宝塔」の章、333~335ページ)
  

 

ここにフォーカス 「」の一念

 「虹の舞」の章で、山本伸一が「利他」の精神を語る場面が描かれています。
  
 彼は、「創価学会の運動の根本をなすもの」は、どこまでも相手のことを思いやる「利他」の一念であり、「この利他の心を人びとの胸中に打ち立てることこそ、平和建設のポイント」と訴えます。
  
 そして、「自分の利益ばかり考える生き方」は、「世の中をかき乱してしまうことになる」と指摘します。
  
 近年、さまざまな分野で、「レジリエンス」という概念が用いられています。「回復力」「抵抗力」のことで、「困難を乗り越える力」を意味します。
  
 心理学でも研究が進んでおり、「レジリエンス」を発揮する要素の一つとして、「信仰に基づく利他の行為」が挙げられています。「利他」の実践は、人生の苦境を勝ち越える要諦でもあるのです。
  
 コロナ禍によって今、人間観や人生観が見つめ直されています。
  
 仏法の哲理は、他者の生きる力を引き出すことによって、自身の小さな殻が破られ、生きる力が増していくことを教えています。“自分さえよければ”という「利己主義」から、自他共の幸福をめざす生き方への転換を促しているのです。

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