きょう1月26日は「SGIの日」 池田先生が記念提言を発表2022年1月26日

きょう26日の第47回「SGI(創価学会インタナショナル)の日」に寄せて、SGI会長である池田大作先生は「人類史の転換へ 平和と尊厳の大光」と題する記念提言を発表した。
今回の提言は、1983年の第8回「SGIの日」に発表された最初の提言から、通算で40回目となるもの。
提言ではまず、世界中が新型コロナウイルスの感染拡大とその影響に苦しむ状況の下で、健康や幸福とは何を意味するのかを巡って、大乗仏教の維摩経で説かれる「同苦」の精神に言及。経済学者のガルブレイス博士との対談を振り返りながら、“生きる喜び”を分かち合える社会を築く重要性を訴えている。
また、創価学会の戸田城聖第2代会長が70年前に提唱した「地球民族主義」の意義に触れ、今後の感染症対策も含めた国際協力を強化する「パンデミック条約」の早期制定とともに、コロナ危機からの再建において、若い世代が希望を育み、女性が尊厳を輝かせることのできる経済を創出することを呼びかけている。

続いて、日本と中国の国交正常化から50周年を迎えることを機に「気候危機の打開に向けた日中共同誓約」を策定することや、世界の青年が主役となって地球環境を総合的に守るための「国連ユース理事会」の創設を提案。また、新型コロナの影響で約16億人が教育の中断を余儀なくされた事態に警鐘を鳴らし、9月に国連で開催される教育変革サミットで、「子どもたちの幸福と教育のための行動計画」を採択するよう、訴えている。
最後に、核拡散防止条約(NPT)の第6条で定められた核軍縮義務を履行するための決議を国連安全保障理事会で採択することや、核兵器禁止条約の第1回締約国会合に、日本をはじめとする多くの国がオブザーバー参加することを呼びかけつつ、核時代に終止符を打つための方途について論じている。
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第47回SGI提言① 未曽有の危機を共に乗り越える2022年1月26日
時代の混迷を打ち破る
「正視眼」に基づく行動を
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)が宣言されてから、まもなく2年を迎えようとしています。
しかし、ウイルスの変異株による感染の再拡大が起こるなど、多くの国で依然として厳しい状況が続いています。
愛する家族や友人を亡くした悲しみ、また、仕事や生きがいを失った傷を抱えて、寄る辺もなく立ちすくんでいる人々は今も各国で後を絶たず、胸が痛んでなりません。
先の見えない日々が続く中、その影響は一過性では終わらず、「コロナ以前」と「コロナ後」で歴史の一線が引かれることになるのではないかと予測する見方もあります。
確かに、今回のパンデミックは未曽有の脅威であることは間違いないかもしれない。
しかし将来、歴史を分かつものが何だったのかを顧みた時に、それを物語るものを“甚大な被害の記録”だけで終わらせてはならないと言えましょう。
歴史の行方を根底で決定づけるのはウイルスの存在ではなく、あくまで私たち人間にほかならないと信じるからです。
想像もしなかった事態の連続で戸惑い、ネガティブな出来事に目が向きがちになりますが、危機の打開を目指すポジティブな動きを希望の光明として捉え、その輪を皆で広げていくことが大切になります。

脅威の様相は異なりますが、今から80年前(1942年11月)、第2次世界大戦という「危機の時代」に、創価学会の牧口常三郎初代会長は、混迷の闇を払うための鍵について論じていました(『牧口常三郎全集』第10巻、第三文明社を参照)。
目先のことにとらわれて他の存在を顧みない「近視眼」的な生き方でも、スローガンが先行して現実変革の行動が伴わない「遠視眼」的な生き方でもない。“何のため”“誰のため”との目的観を明確にして足元から行動を起こす「正視眼」的な生き方を、社会の基軸に据えるよう訴えたのです。
この「正視眼」について、牧口会長は日常生活でも必要になると論じているように、それは本来、特別な識見や能力がなければ発揮できないものではありません。
現代でも、パンデミックという世界全体を巻き込んだ嵐にさらされる経験を通し、次のような実感が胸に迫った人は少なくないのではないでしょうか。
「自分たちの生活は多くの人々の支えと社会の営みがなければ成り立たず、人々とのつながりの中で人生の喜びは深まること」
「離れた場所を襲った脅威が、時を置かずして自分の地域にも及ぶように、世界の問題は相互に深くつながっていること」
「国は違っても、家族を突然亡くす悲しみや、生きがいを奪われる辛さは同じであり、悲劇の本質において変わりはないこと」
その意味で重要なのは、未曽有の脅威の中で深くかみしめた実感を、共に嵐を抜け出るための連帯の“紐帯”としていく点にあると言えましょう。
牧口会長が心肝に染めていた仏法の箴言に、「天晴れぬれば地明らかなり」(御書新版146ページ・御書全集254ページ)とあるように、世界を覆う暗雲を打ち破って、希望の未来への地平を照らす力が人間には具わっているはずです。
そこで今回は、コロナ危機をはじめ、世界を取り巻く多くの課題を乗り越え、人類の歴史の新章節を切り開くための要諦について、三つの角度から論じていきたい。
第47回SGI提言② 「社会のあり方」を紡ぎ直す2022年1月26日
新型コロナの危機がもたらした
「打撃の格差」と「回復の格差」
第一の柱は、コロナ危機が露わにした課題に正面から向き合い、21世紀の基盤とすべき「社会のあり方」を紡ぎ直すことです。
パンデミックは社会の各方面に打撃を及ぼしましたが、人々が置かれた状況によって、その大きさは異なるものとなりました。
以前から弱い立場にあった人々が、より深刻な状態に陥ったことに加えて、平穏な生活を送ることができていた人々であっても、個人では抱えきれない困難を背負うようになった人は決して少なくありません。
病気になった時に支えてくれる人が周囲にいるかどうか、感染防止のための厳しい制限があっても仕事を続ける道を確保できるかどうか、生活環境の急激な変化に自力で対応できる余裕があるかどうかなどの違いで、打撃の大きさに隔たりがあるからです。
社会の立て直しが急がれるものの、感染者数や経済指標といった統計的なデータだけに関心が向いてしまうと、大勢の人々が抱える困難が置き去りにされるという倫理的な死角が生じかねません。
懸念されるのは、その死角を放置したままでは、すでに存在している「打撃の格差」の上に、「回復の格差」が追い打ちをかける事態を招いてしまうことです。
ある地域に被害が集中する災害とは違って、コロナ危機では社会全体が被災しているだけに、“支援が必要な人たちが身を寄せ合う避難所”のような場所が、誰の目にもわかる形で現れるわけではないからです。
また、感染防止策の徹底を通して身体感覚に刻まれた“他者との接し方”に加えて、自分の身を自分で守らねばならない状況が続く中で、身近な出来事以外に関心が向きにくくなる“意識のロックダウン”ともいうべき傾向が広がりかねないことが懸念されます。

「打撃の格差」と「回復の格差」を解消する方途を探るために、ここで言及したいのは、国連のアントニオ・グテーレス事務総長が、世界保健機関(WHO)によるパンデミック宣言の4カ月後(2020年7月)に行った講演です。
人権と社会正義のために生涯を捧げた、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領の生誕日にあたって、その功績を偲ぶ記念講演の中で、グテーレス事務総長は世界を取り巻く状況について、“脅威”ではなく“打撃を受けた人々”に焦点を当てながら警鐘を鳴らしていました(国連広報センターのウェブサイト)。
「新型コロナウイルスは、貧困層や高齢者、障害者、持病がある人々をはじめ、社会的に最も弱い人々に最も大きなリスクを突き付けています」
その上で、新型コロナの危機は、「私たちが構築した社会の脆い骨格に生じた亀裂を映し出すX線のような存在」になったと指摘しつつ、グテーレス事務総長が提唱したのが「新時代のための新しい社会契約」の構築だったのです。
事務総長は講演の結びで、そのビジョンの手がかりとなるものとして、かつてマンデラ氏が南アフリカ共和国の人々に呼びかけた次の言葉を紹介していました。
「我が国の人々の意識に、自分たちがお互いのために、また、他者の存在があるゆえに、その他者を通じて、この世界で生かされているのだという、人間としての連帯感を改めて植え付けることが、私たちの時代の課題の一つだ」と。
私もマンデラ氏と二度お会いしたことがありますが、在りし日の“春風のような温顔”が浮かんでくる言葉だと思えてなりません。

近代以降の政治思想の底流をなしてきた社会契約説が抱える限界について、私も2015年の提言で、アメリカの政治哲学者のマーサ・ヌスバウム博士による問題提起を踏まえながら論じたことがあります。
『正義のフロンティア』(神島裕子訳、法政大学出版局)と題する著書で博士が指摘したのは、ロックやホッブズに端を発する社会契約説が、「能力においてほぼ平等で、生産的な経済活動に従事しうる男性」だけを、その主体として想定する形で構想されていた点でした。
その結果、互いの存在が利益を生むという「相互有利性」に重心が置かれ、女性や子どもや高齢者が当初から対象にされなかっただけでなく、障がいのある人に対する社会的包摂も遅々として進んでこなかった、と。
残念ながら今回のコロナ危機においても、こうした伝統的な考え方の影響が色濃く残っていると言わざるを得ません。
パンデミックの対応で設けられた各国の意思決定の場に、参加できた女性の割合は低く、対策についても大半がジェンダーへの配慮がなかったことが指摘されています。
子どもたちも置き去りにされがちで、教育の機会を著しく失ったほか、親を亡くしたり、家族が失業したりして、十分な養育を受けられなくなったケースも少なくありません。
また高齢者に関し、緊急事態下で対応が優先されずに必要な支援が得られなかったり、長期にわたる孤独に耐えねばならなかったりしてきた現実があります。
障がいのある人々についても、平時から容易ではなかった医療や情報へのアクセスをはじめ、さまざまな面で困難が増しており、一人一人の思いに寄り添いながら、改善を図ることが急務となっているのです。
こうした実態と正面から向き合い、「相互有利性」を第一に考える思想から脱却する時を迎えているのではないでしょうか。

病の影響が世界に及ぶ中で
健康とは何を意味するのか
そのパラダイム転換を考えるにあたって、私が重ねて着目したのが、グテーレス事務総長が昨年6月の「世界難民の日」に寄せて述べていた言葉でした。
「私たち全員が必要なケアを受けられるとき、私たちはともに癒しを得るのです」との言葉です(国連広報センターのウェブサイト)。
紛争や迫害、また気候変動に伴う被害などから逃れるために、住み慣れた場所から離れることを余儀なくされた人々は、世界で約8240万人を超えており、各国による社会的な保護から最も疎外された環境に置かれています。
国連難民高等弁務官を長年務めた経歴も持つグテーレス事務総長が、コロナ危機によってさらに悪化した難民と避難民の人々の窮状に思いを寄せて訴えた言葉だけに、ひときわ胸に響いてならなかったからです。
またその言葉には、私どもSGIが掲げる「自他共の尊厳と幸福」を目指す生き方とも通じるものを感じてなりません。
大乗仏教の維摩経では、その生命感覚と世界観が説話を通じて示されています。
――ある時、さまざまな境遇の人々に分け隔てなく接することで慕われていた、維摩詰という釈尊の弟子が病気を患った。
それを知った釈尊の意を受けて、文殊が維摩詰のもとを訪れることになり、他の弟子たちを含めた大勢の人々も同行した。
釈尊からの見舞いの言葉を伝えた後で、文殊が、どうして病気になったのか、患ってから久しいのか、どうすれば治るのかについて尋ねたところ、維摩詰はこう答えた。
「一切衆生が病んでいるので、そのゆえにわたしも病むのです」と。
維摩詰は、その言葉の真意を伝えるべく、身近な譬えを用いて話を続けた。
「ある長者にただ一人の子があったとして、その子が病にかかれば父母もまた病み、もしも子の病がなおったならば、父母の病もまたなおるようなものです」
菩薩としての生き方を自分が貫く中で、他の人々に対して抱いてきた心情も、それと同じようなものであり、「衆生が病むときは、すなわち菩薩も病み、衆生の病がなおれば、菩薩の病もまたなおるのです」――と(中村元『現代語訳 大乗仏典3』東京書籍を引用・参照)。
実際のところ、維摩詰は特定の病気を患っていたわけではありませんでした。
多くの人が苦しみを抱えている時、状況の改善がみられないままでは、自分の胸の痛みも完全に消えることはないとの「同苦」の思いを、“病”という姿をもって現じさせたものにほかならなかったのです。
維摩詰にとって、人々の窮状に「同苦」することは、重荷や負担のようなものでは決してなく、“自分が本当の自分であり続けるための証し”であったと言えましょう。
そこには、他の人々が直面する窮状からまったく離れて、自分だけの安穏などは存在しないとの生命感覚が脈打っています。
この仏法の視座を、現在のコロナ危機の状況に照らしてみるならば、世界中で多くの人々が病気とその影響に伴う甚大な被害で立ちすくんでいる時に“健康で幸福に生きるとは何を意味するのか”という問いにも、つながってくるのではないでしょうか。
試練の荒波を共に乗り越え
生きる喜びを分かち合う社会を
この問いに思いをはせる時、経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイス博士が、かつて私との対談で述べていた言葉が脳裏に蘇ってきます(『人間主義の大世紀を』潮出版社)。
博士は、大恐慌や第2次世界大戦をはじめ、東西冷戦など多くの危機の現場に身を置き、人々が被った傷痕を目の当たりにしてきた体験を胸に刻み、経済のみならず、社会のあり方を問い続けてきた碩学でした。
その博士に、21世紀をどのような時代にしていくべきかについて尋ねたところ、次のように答えておられたのです。
「それは、ごく短い言葉で言い表せます。すなわち、“人々が『この世界で生きていくのが楽しい』と言える時代”です」と。
対談では、この時代展望を巡る対話に加えて、仏法の思想においても、“人間は生きる喜びをかみしめるために、この世に生まれてくる”との「衆生所遊楽」の世界観が説かれていることを語り合いました。
当時(2003年)から歳月を経て、ガルブレイス博士の言葉を振り返る時、改めて共感の思いを深くしてなりません。
いかなる試練も共に乗り越え、“生きる喜び”を分かち合える社会を築くことが、まさに求められている――と。

2030年に向けて国連が推進している持続可能な開発目標(SDGs)が採択されてから、本年で7年を迎えます。
コロナ危機で停滞したSDGsの取り組みを立て直し、力強く加速させるためには、SDGsを貫く“誰も置き去りにしない”との理念を肉付けする形で、「皆で“生きる喜び”を分かち合える社会」の建設というビジョンを重ね合わせていくことが、望ましいのではないでしょうか。
“誰も置き去りにしない”との理念は、災害直後のような状況の下では、自ずと人々の間で共有されていくものですが、復興が進むにつれて、いつのまにか立ち消えてしまいがちなことが懸念されます。
また、パンデミックや気候変動のように問題の規模が大きすぎる場合には、脅威ばかりに目を向けてしまうと、“誰も置き去りにしない”ことの大切さは認識できても、思いが続かない面があると言えましょう。
その意味で焦点とすべきは、脅威に直面して誰かが倒れそうになった時に、“支える手”が周囲にあることではないでしょうか。

そこで着目したいのは、冒頭で触れた「正視眼」について論じた講演で牧口初代会長が述べていた言葉です。
牧口会長は、社会で人間が真に為すべき「大善」とは何かを巡って、こう強調していました(前掲『牧口常三郎全集』第10巻を引用・参照。現代表記に改めた)。
「今までの考え方からすると、国家社会に大きな事をしないと大善でないと思っているが、物の大小ではない」。そうではなく、たとえ一杯の水を差し伸べただけであったとしても、それで命が助かったならば、大金にも代え難いのではないか、と。
そこには、「価値は物ではなくて関係である」との牧口会長の信念が脈打っています。
さまざまな脅威を克服する“万能な共通解”は存在しないだけに、大切になるのは、困難を抱える人のために自らが“支える手”となって、共に助かったと喜び合える関係を深めることであると思うのです。
仏法の精髄が説かれた法華経にも、「寒き者の火を得たるが如く」「渡りに船を得たるが如く」「暗に灯を得たるが如く」(妙法蓮華経並開結597ページ)との譬えがあります。
試練の荒波に巻き込まれて、もうだめだと一時はあきらめかけながらも、助けを得て船に乗り、安心できる場所までたどり着いた時に湧き上がってくる思い――。
その心の底からの安堵と喜びにも似た、“生きていて本当に良かった”との実感を、皆で分かち合える社会の建設こそ、私たちが目指すべき道であると訴えたいのです。
第47回SGI提言③ 地球大に開かれた「連帯意識」を2022年1月26日
脅威の克服へ国際協力を強化
次に第二の柱として提起したいのは、地球大に開かれた「連帯意識」の重要性です。
今回のパンデミックのように、各国が一致して深刻な脅威として受け止めた危機は、あまり前例がないといわれます。
しかし国際協力は十分には進まず、ワクチンの追加接種を進める国がある一方で、昨年末までに国民の4割が接種を終えた国はWHOの加盟国(194カ国)の半数にとどまっており、ワクチンの世界的な供給における著しい格差が浮き彫りになっています。
なかでもアフリカ諸国でワクチンが入手できない状況が続いており、接種を終えた人は全人口の約8%にすぎないのです。
ワクチンの到着を待つ人々が多くの国に残されている中で、“国際協力の空白地帯”を早急に解消することが求められます。
この現状を前にして、心ある人々の胸に去来するであろう思いと重なるような言葉を、かつて、科学者のアルバート・アインシュタイン博士が投げかけていたことがありました。
第2次世界大戦後、アメリカとソ連による冷戦が表面化して緊張が走った時(1947年)、世界が分断ではなく連帯の道を進むように訴えていた言葉です(『晩年に想う』中村誠太郎・南部陽一郎・市井三郎訳、講談社)。
博士は、中世のヨーロッパで多数の人命を奪い、「黒死病」の名で恐れられたペストに言及し、「例えば黒死病の流行が全世界を脅やかしているような場合なら、話は別になる」のではないかとして、こう力説しました。
「このような場合には、良心的な人々と専門家とが一致して黒死病と闘うための賢明な計画を作成するでしょう。とるべき手段について彼らの意見が一致すれば、彼らは各政府にたいしてその計画を委ねるでしょう」
「各国政府はこれについて重大な異議をさしはさむことなく、採るべき手段について迅速に意見の一致をみるでしょう。各国政府はよもや、この問題を解決する場合に、自国だけが黒死病の害を免れて他国は黒死病によって多数の民が斃されるというような手段をとろうと考えることはないでしょう」と。

翻って現在、博士が想定したような感染症と闘うための「賢明な計画」と「採るべき手段」については、WHOのパンデミック宣言の翌月(2020年4月)に、「ACTアクセラレーター」と呼ばれる新型コロナ対策の国際的な協力体制が発足しました。その中にあるCOVAXファシリティー〈注1〉の枠組みを通し、途上国へのワクチンの公平な分配を目指す活動が進められています。
以来、これまで144カ国・地域に、合計で10億回分を超えるワクチンが供給されてきました。
ただし、資金協力の遅れやワクチンの確保競争などの影響で、COVAXが当初に計画していた「20億回分の供給」には、まだ遠く及ばない状況にあり、COVAXへのさらなる支援強化が求められます。
昨年10月、イタリアのローマで開催されたG20サミット(主要20カ国・地域首脳会議)では、途上国へのワクチンや医療製品の供給を促進することが合意されました。
G20のハイレベル独立パネルが報告書で強調したように、世界全体からみれば、パンデミックのリスクを軽減するための必要な能力や資源が不足しているわけでも、新型コロナに効果的に対応するための科学的なノウハウや資金がないわけでもありません。
アインシュタイン博士が感染症のケースを想定して挙げていたような、「賢明な計画」と「採るべき手段」が、COVAXの活動や、G20の方針などによって明確化された今、パンデミックを克服するための最後の鍵を握るのは、自国だけでなく他国の人々を脅威から守るという、地球大に開かれた「連帯意識」の確立ではないでしょうか。

歴史を振り返れば、WHOが創設されるきっかけとなったのは、国連憲章の制定のために1945年4月から6月まで開催された、サンフランシスコ会議での議論でした。
当初、保健衛生問題は議題にのぼる予定はなかったものの、その重要性を指摘する声があがりました。
その結果、国連憲章の第55条で、国際協力を促進すべき分野の一つとして「保健」が明記されたほか、第57条が規定する専門機関の中に「保健分野」の機関が含まれることになったのです。
設立に向けて1946年に行われた会議では、第2次世界大戦での敵味方の違いを超えて、各国が参集することが望ましいとの提案を受け、日本やドイツやイタリアなどからも代表がオブザーバーとして参加しました。
また、当時の情勢下で画期的な意義をもったのは、新しい専門機関のあり方を検討する際に、通常の加盟国とは別に「準加盟国」の資格を設けることで、植民地支配の状態が解消されないままで独立が果たせずにいた多くの地域にも参加の道を開いた点です。
新しい専門機関の名称についても、国連加盟国だけを想定したような「国連」という文字ではなく、「世界」という文字が冠されることが決まり、1948年4月に正式に発足をみたのがWHOだったのです。
戸田第2代会長が提唱した
「地球民族主義」の先見性
私は以前(1993年3月)、サンフランシスコ会議が開催された会場を訪れたことがあります。
その際に行ったスピーチで、SGIとして国連支援に取り組んできた思いについて、創価学会の戸田城聖第2代会長の信念に触れながら、こう述べました。
「実は、私の恩師・戸田第2代会長は、この国連憲章の誕生と相前後して出獄し、創価学会の再建に着手いたしました。
恩師は、日本の軍国主義による2年間の投獄に屈することなく、新たな人間主義の民衆運動を開始したのであります。
それは国連憲章の理念と深く強く一致しております。まさしく戦争の流転の歴史を、根源的に転換せんとする熱願の発露でありました。私どもは、この恩師の精神を原点として、生命と平和の哲理に目覚めた民衆の連帯を全世界に広げてきたのであります。
国連の支援も恩師の遺訓でありました。国連は20世紀の英知の結晶である。この希望の砦を、次の世紀へ断じて守り、育てていかねばならない――と」
このように、戦時中の教訓を踏まえて戸田会長が熱願としていたのは、一国の進むべき道の転換にとどまらず、世界全体の進むべき道の転換にほかなりませんでした。
そして、その信念を凝縮する形で戸田会長が70年前(1952年2月)に提唱したのが、「地球民族主義」の思想だったのです。
当時、朝鮮戦争などで国際社会の緊張が急激に高まる中にあって、人類が悲劇の流転史から抜け出すための要諦として「地球民族主義」を掲げ、その言葉に“どの国の民衆も、絶対に犠牲になってはならない。世界の民衆が、ともに喜び、繁栄していかねばならない”との思いを託したのです。
パンデミックが続く今、改めてWHOの創設の経緯を顧みた時に、その名称に冠された「世界」の文字に込められた意義が、戸田会長の「地球民族主義」の思想とも重なり合う形で胸に迫ってきます。

昨年、国連総会で181カ国の支持を得て採択された政治宣言でも、グローバルな連帯の重要性が次のように示されていました。
「我々は、国籍や場所を問わず、いかなる差別もすることなく、すべての人々、特に脆弱な状況にある人々を新型コロナウイルス感染症から守る必要性について平等に配慮し、連帯と国際協力を強化することを約束する」
本来、パンデミックの対応で焦点とすべきは、国家単位での危機の脱出ではなく、脅威を共に乗り越えることであるはずです。
昨年の提言でも強調しましたが、自国の感染者数の増加といった“マイナス”の面ばかりに着目すると、他国との連携よりも、自国の状況だけに関心が傾きがちになってしまう。
そうではなく、世界に同時に襲いかかった脅威に対して、「どれだけの命を共に救っていくのか」という“プラス”の面に目を向けて、いずれの国もその一点に照準を合わせることが、難局を打開する突破口になるはずです。
仏法にも、「人のために、夜、火をともせば(照らされて)人が明るいだけではなく、自分自身も明るくなる。それゆえ、人の色つやを増せば自分の色つやも増し、人の力を増せば自分の力も勝り、人の寿命を延ばせば自分の寿命も延びるのである」(御書新版2150ページ、趣意。※新規収録の御文)との教えが説かれています。
このような自他共に広がる「プラスの連関性」を足場として、協力と支援の明かりを灯す国が増えれば、脅威の闇を消し去る方向につながっていくのではないでしょうか。私はそこに、地球大に開かれた「連帯意識」を確立する道があると考えるのです。
その意味で肝要なのは、政治宣言で認識が共有されていたように、“国籍や場所を問わず、いかなる差別もなく平等に命を守る”との精神であると言えましょう。
時代状況は異なりますが、仏典においても、人々の命を救う上でその一点を外してはならないとのメッセージが、ある医師の信念の行動を通して描かれています。
――釈尊在世のインドにおいて、マガダ国にジーバカ(耆婆)という名の青年がいた。
タクシャシラーという別の国に名医がいることを知ったジーバカは、その国まで足を運び、医術のすべてを修得した。
「多くの人々のために身につけた医術を生かそう」と帰国したものの、ある時、国王の病気を治したことを機に重宝されるようになり、「これから後は国中の者たちの治療に当たる必要はない」と、限られた人の健康だけを守るように命じられてしまった。
それでも、マガダ国の首都で病気を患った人がいた時には、国王の許可のもと、その人の家に向かって治療にあたった。
カウシャーンビーという国で暮らす子どもが病気になった時にも、急いでかけつけて手術を行ったほか、頭痛に悩まされていた別の国の王を助けた時には、高額の報酬でその国に留まるよう誘われたが断った。
その後もジーバカは多くの病人を救い、人々から尊敬された――と(中村元・増谷文雄監修『仏教説話大系』第11巻、すずき出版を引用・参照)。
このように他国で医術を学んだ彼は、自国の限られた人だけでなく、市井の人々をはじめ、別の国の人々にも医術を施しました。
ジーバカという名前には、サンスクリット語で“生命”という意味もありますが、まさに彼はその名のままに、国や場所の違いを問わず、いかなる差別もせずに、多くの命を分け隔てなく救っていったのです。
釈尊在世の時代に尊い行動を貫いたジーバカについて、13世紀の日本で仏法を説き広めた日蓮大聖人は、「その世のたから(宝)」(御書新版1962ページ・御書全集1479ページ)と、たたえていました。
現代においても、コロナ危機が続く中で多くの医療関係者の方々が、連日、献身的な行動を重ねておられることに、感謝の思いが尽きません。
まさに、世の宝というほかなく、その医療従事者を全面的に支えながら、“国籍や場所を問わず、いかなる差別もなく平等に命を守る”との精神を礎にした、グローバルな保健協力を強化する必要があります。

新たな感染症に共同で備える
パンデミック条約を制定
この点に関し、私は昨年の提言で、新型コロナ対策での協調行動の柱となり、今後の感染症の脅威にも十分に対応していけるような、「パンデミックに関する国際指針」を採択することを提唱しました。
WHOの総会特別会合で先月、今後のパンデミックに備えた国際ルールを策定するために、全加盟国に開かれた政府間交渉の機関を設ける決議が、全会一致で採択されました。
新型コロナへの対応を巡る教訓を踏まえ、ワクチンの公平な分配や情報の共有といった対応について、あらかじめ条約や協定のような形で明文化することを目指し、3月までに最初の会合を開催することが決まったのです。
次のパンデミックは“起きるかどうか”ではなく“いつ起こるか”という問題にほかならないと、多くの専門家が指摘していることを踏まえて、「パンデミック条約」のような国際ルールを早期に制定し、その実施のための取り組みを軌道に乗せることを改めて強く呼びかけたい。
今回のコロナ危機が示したように、どこかの場所で深刻化した脅威が、時を置かずして、地球上のあらゆる場所の脅威となるのが、現代の世界の実相にほかなりません。

昨年6月、イギリスで行われたG7サミット(主要7カ国首脳会議)でも、相互に結び付いた世界において保健分野の脅威に国境はないことが、首脳宣言で強調されていました。
そして、G7が担うべき特別の役割と責任の一つとして、「将来のパンデミックにおける共同の行動の引き金となるような世界的な手順を作成することにより、対応の速度を改善すること」が掲げられていたのです。
G7の国々はこの首脳宣言に基づいて、「パンデミック条約」の制定をリードし、その基盤となる協力体制についても率先して整備を進めるべきではないでしょうか。
私は以前、G7の枠組みにロシアとともに中国とインドを加える形で、「責任国首脳会議」としての意義を込めながら、発展的に改編することを提案したことがありました。
ここで言う「責任」とは、いわゆる大国としての義務のようなものではなく、人類共通の危機の打開を望む世界の人々の思いに対し、“連帯して応答していく意思”の異名とも言うべきものです。
人類共通の危機に対して、リスク管理的な発想に立つと、自国に対する脅威の影響だけに関心が向きがちになってしまう。
そうではなく、困難を乗り越えるための「レジリエンス」の力を一緒に育み、鍛え上げることが、今まさに求められています。
そして、その原動力となる「連帯」の精神は、気候変動をはじめとする多くの課題を打開する礎ともなっていくものです。
この「連帯」の精神に基づいて、いかなる脅威にも屈しない地球社会の建設を進めることこそが、未来の世代に対する何よりの遺産になると確信してやみません。
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注1 COVAXファシリティー
新型コロナウイルスのワクチンを共同購入して、途上国などに分配するための国際的な枠組み。世界保健機関(WHO)などが主導して、190以上の国と地域が参加している。高・中所得国が資金を自ら拠出して自国用にワクチンを購入する枠組みと、各国や団体などから提供された資金を通じて途上国へのワクチン供給を行う枠組みが、組み合わされている。
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