第22回 「水滸会・華陽会〈上〉」 誓いを果たす人間が正義の勝利者2022年10月28日
- 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
本年は、青年部の人材育成グループ「水滸会」「華陽会」が結成されてから70周年の節目を刻む。
「華のように美しく、太陽のように誇り高くあれ」――戸田先生の願いを込め、女子部の「華陽会」が誕生したのは、1952年(昭和27年)10月21日のことであった。
この日、東京・市ケ谷のレストランに、代表20人が集った。西洋料理を囲みながら、先生は華陽会のメンバーに一流のマナーを教えた。そして、こう語った。
「法華経を信ずる以上、女人といえども『諸善男子』だ。『男女はきらうべからず』(新1791・全1360)です。誰とでも、堂々と議論できるようになりなさい」「いちばん大切なのは、教学です。みんなも教学を真剣に身につけなさい」
恩師は、広布を進め、社会を変革していくためには、仏法を根幹とする女性リーダーの育成が不可欠だと考えていた。
華陽会の発足の数年前、戸田先生は女性たちと共に、小説などをテキストに勉強会を開くようになった。『九十三年』『永遠の都』等の革命小説が、教材として選ばれた。
華陽会の結成後は、月2回のリズムで、『二都物語』『人形の家』『若草物語』『ポンペイ最後の日』などの世界的な名作を、恩師のもとで学び合っていくようになる。
戸田先生は読書の姿勢や読み方に加え、仏法の生命観に基づき、小説に登場する主人公の心を捉えていく大切さを教えた。「本に出てくる人物のことだけと思っているだろうが、それではいけない。皆の生命の中にも、この人々の生命と同じものがあるのだ」
一回一回の薫陶を通して、華陽の乙女たちは、広布の中核を担うリーダーへ成長を遂げていった。恩師は華陽会で、“地涌の女性”の尊き使命を強く訴えている。
「今、この時間に、いったい世界のどこに、民衆のために憂え、二十一世紀から末法万年尽未来際の世界を論じている女性がいるだろうか」「あなたたちは、久遠の約束のもとに、選ばれて、ここにいるのだ」
華陽会の発足から2カ月後の1952年(昭和27年)12月16日、男子部の「水滸会」が結成された。
結成を誰よりも待ち望んでいた池田先生は、この日の日記につづっている。
「『水滸伝』の序文を読み、(戸田)先生、水滸会の意義、使命、確信を述べられる。此の座に集いし数、三十八名なり。宗教革命、政治革命、社会革命を断行しゆく鳳雛である。皆、闘志満々たり。意気天をつく」
水滸会は、恩師と愛弟子の“師弟の呼吸”のもとで誕生した。
50年(同25年)8月24日、戸田先生は、経営する信用組合の破綻に直面し、理事長を辞任する意向を発表。同年秋ごろから、事業整理の間隙を縫って、池田先生をはじめとした青年数人と、小説を教材に会合を持つようになった。この薫陶は、51年(同26年)の戸田先生の第2代会長就任直後まで続いた。
恩師は、広布の中核を担う後継者のさらなる育成のため、池田先生に青年を薫陶する組織や企画について一任。そうした中で、『水滸伝』を教材とする同会が発足をみたのである。
結成に際し、戸田先生はメンバーに言明した。
「社会に貢献する有能な社会人、妙法という偉大な哲学に目覚めた正真正銘の社会人に成長し、思う存分に活躍してもらいたい。これが、乱れきった末法における民衆救済の大道なんです」
水滸会も、華陽会と同様、月2回のリズムで定例会が行われていった。
しかし、結成翌年の53年(同28年)6月、水滸会の訓練が突然打ち切られることがあった。求道心を失ったメンバーの姿に、戸田先生が激怒したのである。
恩師は語気を強めた。
「誰が、水滸会をこんなにしてしまったのだ。君たち自身ではないか。あの青年だけの責任ではないはずだ」
このままでは、水滸会の訓練が終わってしまう――誰よりも強い危機感を抱いたのは、池田先生だった。会の目的を見失ったメンバーが、師の心を知らず、惰性に陥ってしまったことを反省した。
「(戸田)先生の怒りは、全部、吾人の責任と猛省」(『若き日の日記』、1953年6月16日)
池田先生は唱題と思索を重ね、三つの誓いからなる宣誓文を戸田先生に提出する。そこには「御本尊に対する誓い」「師匠に対する誓い」「会員同志の誓い」がうたわれ、広布への不惜身命の決意が込められていた。「水滸の誓」である。
そして、新たに人選された43人が、恩師の前でこの宣誓文に署名し、新生の「水滸会」がスタートを切った。同年7月21日のことであった。
水滸会のテキストは、『水滸伝』に始まり、『三国志』『モンテ・クリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』『隊長ブーリバ』などを読み進めていった。
華陽会、水滸会の薫陶は、新しいメンバーが加えられながら、56年(同31年)5月まで重ねられていく。
小説を教材にした華陽会、水滸会であったが、いわゆる“読書会”ではなかった。恩師が強調したのは、「書を読め、書に読まれるな」ということである。
どこまでも日蓮大聖人の哲学を深めることが目的だった。仏法を根幹とした考え方を小説を通して学んでいった。
また小説は、学歴の有無に関係なく、共通して学ぶことができ、青年の生き方を示す格好の題材でもあった。
54年(同29年)、水滸会で『モンテ・クリスト伯』を扱った時、戸田先生はこう力説している。
「青年には信用が財産である。しかも、信用を得る根本は、約束を守るということである」「いったん引き受けた約束は、何を犠牲にしても絶対に守ることだ」 同年2月の定例会の前日、戸田先生が病で発作を起こしたことがあった。しかし、水滸会に命を懸けていた恩師は、体調不良を押して断行した。
この日の日記に池田先生は記した。
「(戸田)先生の、不死鳥の如き生命力を、いつも驚嘆しゆくは、吾れ一人に非ず」「昨日のことは、全くふれられず、悠々たる先生」(同、54年2月9日)
恩師の思いに応えようと、池田先生も、死力を尽くして水滸会の企画に当たった。回ごとの担当責任者と共に、時代背景や議題にすべきことなどを調べあげて臨んだ。
また定例会で要領を得ない質問が飛ぶと、池田先生は「こういうことをお聞きしたいんだろう」と“助け船”を出し、戸田先生が答えやすいよう心を配った。愛弟子の周到な準備と配慮があったことで、恩師は安心して、胸中の構想を青年たちに託すことができたのである。
「六時、水滸会」「東洋広布の進め方、日本の広宣流布の仕上げ方等の、遺言にも似た、指導となる」(同、55年9月27日)
戸田先生の語った内容とともに、参加者の頭に焼き付けられたのが、水滸会での池田先生の姿である。
必ず戸田先生の正面に、池田先生は身を正して座った。そして恩師の語ったことに対して、「はい」「左様にいたします」と即座に応じた。
愛弟子は、水滸会での恩師の指導を「知識」として受け止めていたのではなかった。弟子の「誓い」として深く心に刻んでいたのである。
池田先生は、水滸会での薫陶を振り返りながら、こう述べている。
「誓いを捨てた人生は、いかに自己正当化しようが悔恨の地獄であり敗北。若き日の誓いを果たし抜く人生は、晴れ晴れと永遠に輝く正義の勝利者なのだ」
師弟の誓いを立て、その誓いを果たすために戦い抜く――池田先生が水滸会を通して示した姿こそ、青年部人材グループが継承する“不滅の魂”である。
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