バンコク市街地には、公園が多いようだ。市内の観光にツアーバスが走り回るたびに、その公園が目に入った。その公園はもちろん巨大とも
いうべき広大なもの、それがほとんどだが、小さなものもある。といっても宮崎市のものと比べると大きい。そのどれもが、公園というより野っ原のようにぶっきらぼうに見えた。樹木も無造作に植えてあるだけで滑り台も砂地も目につかない。トイレもあるのかどうかわからない。樹木も草地(とても芝生といいがたい)も埃をつけ、11月というのに気温35度、強烈な日射の下であまり生気を感じさせない。
しかし、ぼくはこれらの公園に入ってみたかった。観光地よりこっちがはるかに興味を引いた。ほとんどの公園は、えんえんとしてテントが張られ、豆電球がはりまわされ、人々が往来していた。そこでは、市場が開かれていたのだ。その市のまわりに例の黒い廃材によるテーブル・ベンチの露天食堂、リヤカーのゆで麺売り、一本の日傘のしたのジュース売りと、それはテントと並んで店を開いていた。ここでは、犬たちも起き上がって往来していた。(昼間は歩道で犬は寝ている
サッカーをしているところ、踊りをやっているところとさまざまのことが、演じられていたが、いずれもこの市場と露天のように、民衆一人一人が、生活の場として活用しているのである。公園もまた街路の延長のように人々でにぎやかだったのである。
20年ほどまえ、宮崎市の橘通り活性化計画で、橘通り全体を公園化するという絵に描いたような計画が策定された。その公園は、太陽の場とかウエルカムの場とか、名前がつけられ、河畔の公園は、名前が忘れたが、恋人が肩をよせあって大淀川を眺める場とあった。言うことも芸もこまやかだが、どれも夢想であり、なにも生じなかった。
今の公園のほとんどは、おしっこをする公衆便所だけを利用する場でしかない。ほかには利用は許されないのだから、使用はそれだけだ。
公園をみなの市場に毎日開放していくこと。人々が公園を自分のもとして楽しむとはどんかことか、夕日などを眺めるためにあるのではないこと、生きるということを自覚させる場であることを、バンコクの公園は示唆していた。
、
いうべき広大なもの、それがほとんどだが、小さなものもある。といっても宮崎市のものと比べると大きい。そのどれもが、公園というより野っ原のようにぶっきらぼうに見えた。樹木も無造作に植えてあるだけで滑り台も砂地も目につかない。トイレもあるのかどうかわからない。樹木も草地(とても芝生といいがたい)も埃をつけ、11月というのに気温35度、強烈な日射の下であまり生気を感じさせない。
しかし、ぼくはこれらの公園に入ってみたかった。観光地よりこっちがはるかに興味を引いた。ほとんどの公園は、えんえんとしてテントが張られ、豆電球がはりまわされ、人々が往来していた。そこでは、市場が開かれていたのだ。その市のまわりに例の黒い廃材によるテーブル・ベンチの露天食堂、リヤカーのゆで麺売り、一本の日傘のしたのジュース売りと、それはテントと並んで店を開いていた。ここでは、犬たちも起き上がって往来していた。(昼間は歩道で犬は寝ている
サッカーをしているところ、踊りをやっているところとさまざまのことが、演じられていたが、いずれもこの市場と露天のように、民衆一人一人が、生活の場として活用しているのである。公園もまた街路の延長のように人々でにぎやかだったのである。
20年ほどまえ、宮崎市の橘通り活性化計画で、橘通り全体を公園化するという絵に描いたような計画が策定された。その公園は、太陽の場とかウエルカムの場とか、名前がつけられ、河畔の公園は、名前が忘れたが、恋人が肩をよせあって大淀川を眺める場とあった。言うことも芸もこまやかだが、どれも夢想であり、なにも生じなかった。
今の公園のほとんどは、おしっこをする公衆便所だけを利用する場でしかない。ほかには利用は許されないのだから、使用はそれだけだ。
公園をみなの市場に毎日開放していくこと。人々が公園を自分のもとして楽しむとはどんかことか、夕日などを眺めるためにあるのではないこと、生きるということを自覚させる場であることを、バンコクの公園は示唆していた。
、