市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ナナオ サカキ 再会

2006-03-02 | Weblog

 2月23日、宮崎県平和台公園「ひむか村の宝箱」(日向特産品,無農薬食材、売店&喫茶店)で、ナナオ サカキの詩の朗読会を開くという誘いを、経営者の池辺さんから電話された。詩の朗読云々よりも、「ナナオ サカキ」の名に驚いた。70年代世界的に広がったヒッピー運動の指導者だった人物である。かれとは10年ほどまえ、画家の伊東旭の家で、再会した。その後は音信普通だった。すでに80歳にはなったはずと言うと、池辺さんが83歳だそうですと答えた。  彼の風貌が懐かしく蘇ってきた。

 今から40年ほどまえ、伊東旭と連れ立ってひまわり画廊の目野順也個展会場に入ってきたのが最初の出会いであった。長髪、顎鬚、ジーンズの短パンでバイプを手にしたナナオは、上背のある強靭な体躯に、とても日本人とは見えない彫りの深いハンサムで、圧倒的なおしゃれを感じさせた。そして、ぼくらに注意も払わず、響くような深い声色で言葉を旭と交わし始めた。こいつは何者だと、目野とぼくはぼうぜんと彼を見詰めたのを思いだす。  

 当時、宮崎市の一ッ葉海岸の松林にヒッピーコンミューンをつくるためにヒッピーを連れて来たのを後で知った。昭和42年ごろに宮崎市でヒッピーなど見たことも知ることも無かった。異様な長髪、不思議なデザインの衣装や装身具、ジーパンさへ珍しかったのだ。そんな風体でぞろぞろ街を連れ立った歩くヒッピーには、異様なインパクトがあったが、近寄りたいとは思わなかった、まさに異邦人だった。まもなく海岸にコンミューンが出来た。ヒッピーの若者たちが、小冊子を街で売り出した。その表紙にインドの聖者とコンミューン名があった。  

 「夢見る やどかり族 」 そのやどかり族の族長としてのナナオがあったわけだ。その近寄りたくもなかったやどかり族と、やがて交際を深めることになろうとは、そのとき知る由もなかったのである。

 

  

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