野草は、どれもこれも同じ味だったのはおどろきだった。庭に枇杷の木があれば、新しい葉を天麩羅にして食べれば、ほとんどの野草の味とはこんなものと類推できるのだ。枇杷の葉とユキノシタとが同じ味とは、見た目からは信じられぬ。野菜ならキャベツとレタスは、まったく違う味だし、なすときゅうりは天地ほど味は違う。野草では、その区別がないのである。
野菜は農薬まみれとか、添加物とか、遺伝子組み換えとかで、その品格を貶められ、信頼もかなり薄れている。野草こそ天然の無農薬、健康にベスト、なんか野菜などは、野草の足元にもおよばぬひ弱な食物と思われかねないような有様である。しかし、こうなってみると、やはり野菜こそ食物としては正しい。つまり野菜とは、その固有の味を持っている。この固有の味を生んだ野菜とは、まさに人間の文化と文明の産物であると、つくづく再確認されたのであった。
食物もまた文化化され、文明化されて、その仕組みからわれわれは逃れることができない。野草はやはり食い物ではないのである。これを食い物とするには、文化と文明の否定、もしくは超文化、超文明の視点がいるのではなかろうか。ぼくには
それがないのである。
野菜は農薬まみれとか、添加物とか、遺伝子組み換えとかで、その品格を貶められ、信頼もかなり薄れている。野草こそ天然の無農薬、健康にベスト、なんか野菜などは、野草の足元にもおよばぬひ弱な食物と思われかねないような有様である。しかし、こうなってみると、やはり野菜こそ食物としては正しい。つまり野菜とは、その固有の味を持っている。この固有の味を生んだ野菜とは、まさに人間の文化と文明の産物であると、つくづく再確認されたのであった。
食物もまた文化化され、文明化されて、その仕組みからわれわれは逃れることができない。野草はやはり食い物ではないのである。これを食い物とするには、文化と文明の否定、もしくは超文化、超文明の視点がいるのではなかろうか。ぼくには
それがないのである。
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