市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ナナオ サカキ 2

2006-03-15 | Weblog
 冷たい。  二月は雨つづき、三月は寒波襲来である。  二月は逃げ、三月は去りという。決算の資料チェック、そして、僕自身の個人確定申告とくだらぬ日々が去っていった。   

 さて、第2回目にナナオに会った記憶は、宮崎市稲荷町の銭湯「稲荷湯」の洗い場である。ナナオは隣で体を洗いながら、今日、宮崎交通の社長と会ったら、金銭を差し出されたので、金は持たない主義なのでと断ったよというのである。金を持たんでも生きていくには困らんというのであった。言われてみると、こうして銭湯に浸っているのもぼくの貧しいオゴリによって可能になっているのだ。

 金が価値判断の基準、その唯一の物差しを放り投げて見せてくれたわけだ。口だけでなく実践している生き様にショックをうけたのである。あれから40年多分、その方針を貫いてきたようである。
 
 翌朝、彼が宮酒県立図書館に来るのを玄関ロビーで待っていた。そこの壁に一枚の絵があった。瑛九の作品「つばさ」を野島に住んでいた後藤章と見に来るというのを待っていた。やがて到着したとき「ハエがうるさくつきまとう」といきなり言うのであった。と、どたどたとテレビや新聞記者が入ってきた。メディアを嫌った
のである。70年代の初め、宮崎ではまだまだ新聞・テレビの文化は信じられていたので、この行為は、威張っているのかと思ったが、今にして思えば、メディアの崩壊をすでに予言していたことになる。

 ナナオというのは、その生活を通して、時代相を抜けていたと、今は思えるのだが、当時はとても思えず、かれにはいろいとと理屈を捏ねたのである。それで
妙に楽しかった。かれは、伊東旭に「小野君は固いんだヨねえ」と言っていたと聞いた。思考の膠着をするどく突いていたわけだ。今も変わらぬ僕かも。一生はあっという間に経つし・・・
コメント
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