市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

「ただちに犬 A Vital Sign 」(どくんごテント劇)と 「ただちに猫 A vital Sign」

2011-05-26 | 芸術文化
 今年の冬、夜中になると、猫の低い泣き声がどこからか漏れてくるようになった。聴覚の鋭いチップ(ペットシーズ犬)はいち早く反応して暗いうなり声を闇に向けて放っていく。こんな夜が、ときどきあった。やがて、家内も気づき、昼間、家の軒下や、隣家との堺の塀沿いに黒猫が子猫を連れて歩き回るのを目撃した話などをしだした。

 それから一月程も経ったころ、家内が黒猫と小猫2匹が、玄関脇の床下に暮らしているのを発見した。どこから聞いてきたのか、黒猫は、先日、こどもに引き取られていった一人住まいのご老人が、可愛がっていた猫だという話だ。ご老人は毎朝、几帳面に通学道路に黄色い旗を持って、立つていた。チップの散歩で、いつもかれのガイドに沿って、道路を横断したのだが、チップが来ると、ガイドも一時停止して、チップに優しげな声をかけてくるのだった。よほど犬好きかと思ったが、自分でも猫を飼っていた、その猫はすばらしく行儀が良かったという話も聞いてきていた。その猫が、今は2匹のこどもを連れて放浪しているというのだ。

 この話を聞いて、二人ともたまらなくなって、なにか食い物をやろうということになり、小猫の口にあいそうな小粒のキャットフードを買って、皿に入れて、床下の入り口に置いたのだ。キャットフードは、翌日には全部無くなっていた。そこで床下を覗くと、気配を感じたのか、2匹とも奥に逃げ込んで、泣き声も音も立てずに固まっている感じであった。餌を与えるなら、現れてからにしょうと、そのままにして、翌日、夕方、ふたたび、床下を覗きながらプラスチックの皿を引っ張り出そうとしたとき、シューット息を吹きながら、牙をむきだしにした母猫が、突然、飛び出して、ぼくを威嚇しにかかった。その激しい敵意に、思わずたじろいで、身をひいてしまったのだ。

 子どもを守ろうとするんじゃないのという家内の説明に納得して、黒猫の攻撃性が理解できたのであった。それから床下を覗くのを止め、したがってキャットフードも皿に入れなかったのだが、餌を与えるのを止めようと決断した。それは、家内も賛成であった。それは、母猫の恩知らずの態度のせいではなくその真剣さ、懸命さの衝撃からであった。遊び半分で餌をやり、そのまま途中で止めたりしたら、猫母子の生きる本能を弱めてしまうだろうと思ったからであった。餌さを、これからかれらの生涯を通じて与えつつける自信は、なかったからである。老犬になったチップの介護も必要になりつつあり、これに3匹の猫の世話は無理だと判断したからでもあった。それに床下の野良猫に餌を与え続けることは、放し飼いである。放し飼いは、犬猫条例では禁止される。そうか、放し飼いということではなく、飼うには責任がいる、これもチップに加えて猫3匹は無理と判断したのであった。これで餌をやるのは止めた。

 これもまた辛い。腹を床下ですかしているだろうな。水はあるのかなと、家内と話すたびに心配するのだが。ここを我慢しなければと踏ん張るのだ。しかし母親の黒は小猫2匹を、確実に育てつつけている。ぼくを見る目も攻撃的で、優しい声をかけても、とくに家内は孫に声をかけるがごとくだが、近づけばシューット牙をむく。あれ、ほんとにご老人の飼い猫だったかよと、ぼくは思うのだが、そうであるともないとも証拠は無い。もはや猫は猫で、今や野良猫であった。

 4月も末になり暖かい日がつづくと、夕方は、床下でなくて、コンクリートの庭や、濡れ縁で、3匹固まって過ごすようになった。近づくと小猫は逃げ去り、黒猫はこちらを凝視つつけて一歩も引かぬ意思を示す。家内は、母猫が毎日、昼過ぎになると、小猫を連れてきて、一匹づつ舌で毛並みを舐めて、汚れをとり、毛並みを繕いだすのを見るようになった。2時間ちかく子どもをそれは丁寧にあやすと、それから子どもを残して立ち去るのだという。おそらく餌を探しに行くんじゃないだろうかという。ライオンじゃあるまいし、そこまではしないだろうと言ったが、なにか食い物を準備しなければ小猫はそだたないし、立派な子育てよねと感心と同情もわくのであった。小猫の一匹は、ほかと違ってなにか話したげに、私の方を見つめているけどねえとも言うのだ。

 それが、連休日が終わってから、姿が見えなくなった。床下も乾いたようになってがらんとしている。どうやら、昼間も夜も床下には居ないのは確実だ。そこにはもう居ない。多分、餌を求めて他にいい場所をみつけたのか、あるいは通報されて捕獲されたか、どうもこちらのほうのようだと、可哀想なことをしたなあと、思うのであった。スペインでもノルウエーでも田舎町では、隣近所が餌や水を与えて共同で養っているのにな、いやベニスの街中でもそうなのに放し飼いを条例で禁じるとは、これじゃコミュニティも育たないわと思う。

 ところがである。火曜日の夕方、南端の生垣から灰色の小猫がさっと横切った。間違いなく、あの小猫たちであった。黒い縞があり、なにより双子のように2匹連れであった。もう倍くらいの大きさに育っていた。もう親離れ寸前かもしれない。黒猫のほうは、そのとき見なかったが、今もまだ姿を見ない。

 早速、これを報告すると、家内は、黒猫が小猫を2時間近くじつに丁寧にあやした後、さっとどこかへ餌を探しに行く行動を感心していたことを話すのであった。こうして、育て上げたのは間違いなかったようだ。

 ここで劇のVital Signであるが、生命反応とも言われ、熱、脈拍、血圧、脳波など生命の兆候がこくこくとグラフを描く。まさに生きている兆候のことであるが、日常生活で、生きている兆候とは、なんなのか、これを思うのだ。なによりも生きるとは、自らの意思によって生き抜くエネルギーのことではないかと思う。他人任せ、生命維持装置に繋げられていても生きる意欲、意思、集中力などが存在していれば、それはバイタルサインであろう。猫母子もまた、水も餌もないに等しい環境で、それを生き抜いている。まさにバイタルサインを示してあまりある。どくんごのテント劇ただちに犬も、冒険の全国巡業に出発していったが、まずは、だれかの給餌を当てにするでなく、まず自らの生きる意志で生命活動をつづけているのだと、そのバイタルサインが観客を元気づけええくれる。このただちに犬、ただちに猫にくらべて、億単位の高額補助金にすがりっぱなしの芸術イベントにはたしてバイタルサインはあるのか、どこの県でもそんなイベントが用意されているが、もう時代はそんなイージーな文化・芸術を許す状況ではなくなっているのではないだろうか。ぼくの思いはそこに向かっている。

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