慰安婦は、日本軍隊にとって必要であったという発言について、かれの弁明が民間テレビ番組出演や、今朝の毎日新聞でアメリカの高官の批判への彼自身の反論が掲載されている。橋下代表は、「それぞれの思い」を述べて何が悪いとも言っていた。ぼくもブログのサブタイトルを「それぞれ草」と替えたばかりに、かれの言い草と同じになってしまった。それぞれの思いとは、彼がやっている発言と行動とは、まったく別のことである。つまり、かれは思いを述べるのでは、屁理屈をこねているに過ぎないからだ。理屈で、だれでも屈服できるという意識は、思いとは、別た。
今朝の新聞では、アメリカの高官の批判にたいして、アメリカもやっているではないか、ぼくを批判するのはアンファエアだと反発しているのだ。スピード違反でつかまった違反者が、だれもかれも60きり以上で走っているのに、おれだけをとっ捕まえるとはなんだと嘯くのと、同じ意識ではないか。
どこの軍隊でも慰安婦で、兵士の性衝動を解消し、興奮状態を抑えて、軍隊の秩序が保たれるのであるという事実をかれは言っているのだという。ではどこの国も占領地で、そこの住民を慰安婦としているのか、なぜ本国から十分な慰安婦を募集して供給しなかったのか。軍のシステムを保持する立派な仕事に同胞の女性を奉仕させるのを、なぜやってないのか。その仕事は、必要悪であり、卑しむべき性奉仕だからであるからだ。だれもそんな奉仕に励む女性などいるはずはないのだ。
かれは、女性差別ではなく、ある時点の事実をのべただけであると言う。その事実は、軍システムの保持に必要であったという。つまり女性をかかる仕事に追い込んだ事実にたいして、なんの嫌悪も罪悪感もなく、その行動は、世界中のどこの国でもやる、まったく当たり前の行動であったというのだ。そのこと、その事実を、正等とみなしたことに、
だれでも、その意識のおかしさ、痛さ、苦々しさに気分を害しているのだ。それが、問題の本質である。
理屈だけで、右を左と相手を屈服させようと、のべまくることが、「それぞれの思い」と主張するとは、論理がすべてであるというかれの根底にあるかんがえを示しているのではないか。論理と論理の戦いに勝てるという自信を、覗かせている彼の意識がある。しかし、そんな論理は駆使すれば駆使するほど、大衆の嫌悪感は、とくに日本国民の感性は
嫌悪感を深めていくのではなかろうか。橋下維新の会共同代表は、理屈をこねればこねるほど墓穴を掘っている状況に
もっと気づかなければ、維新の会そのものの崩壊につながるであろうと思う。
今朝の新聞では、アメリカの高官の批判にたいして、アメリカもやっているではないか、ぼくを批判するのはアンファエアだと反発しているのだ。スピード違反でつかまった違反者が、だれもかれも60きり以上で走っているのに、おれだけをとっ捕まえるとはなんだと嘯くのと、同じ意識ではないか。
どこの軍隊でも慰安婦で、兵士の性衝動を解消し、興奮状態を抑えて、軍隊の秩序が保たれるのであるという事実をかれは言っているのだという。ではどこの国も占領地で、そこの住民を慰安婦としているのか、なぜ本国から十分な慰安婦を募集して供給しなかったのか。軍のシステムを保持する立派な仕事に同胞の女性を奉仕させるのを、なぜやってないのか。その仕事は、必要悪であり、卑しむべき性奉仕だからであるからだ。だれもそんな奉仕に励む女性などいるはずはないのだ。
かれは、女性差別ではなく、ある時点の事実をのべただけであると言う。その事実は、軍システムの保持に必要であったという。つまり女性をかかる仕事に追い込んだ事実にたいして、なんの嫌悪も罪悪感もなく、その行動は、世界中のどこの国でもやる、まったく当たり前の行動であったというのだ。そのこと、その事実を、正等とみなしたことに、
だれでも、その意識のおかしさ、痛さ、苦々しさに気分を害しているのだ。それが、問題の本質である。
理屈だけで、右を左と相手を屈服させようと、のべまくることが、「それぞれの思い」と主張するとは、論理がすべてであるというかれの根底にあるかんがえを示しているのではないか。論理と論理の戦いに勝てるという自信を、覗かせている彼の意識がある。しかし、そんな論理は駆使すれば駆使するほど、大衆の嫌悪感は、とくに日本国民の感性は
嫌悪感を深めていくのではなかろうか。橋下維新の会共同代表は、理屈をこねればこねるほど墓穴を掘っている状況に
もっと気づかなければ、維新の会そのものの崩壊につながるであろうと思う。
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