市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自主映画「107+1 天国はつくるもの」 再考

2005-07-14 | Weblog
 2週間前に見た自主映画「107+1 天国はつくるもの」は、退屈といったが、感動したシーンがないわけではなかった。産業廃棄物には、ペットの犬も廃犬として処分する。その現実に泣き崩れる少女の姿。廃船から修復され、ついに900キロの航海まで、その若者たちの可能性。1キロに連なったに虹色のマフラー。そのマフラーを強奪した難民キャンプの子どもたちが、ふたたびマフラーを返却しはじめた大団円と、感動のラッシュが観客を襲う。価値ある行動とは何なのか、求め悩む人々には天啓のようにフラッシュするものがあったと思う。

 しかし、ぼくが退屈と感じたのは、「やれば出来る、夢は適う、天国はつくれる」という主題であり、その説得の仕方であった。ぼくは行動するから天国がつくれるのではなくて、天国があるから行動できると思うのだ。夢の実現が天国でなく、すでに内在する価値観こそ天国である。少女は犬を抱いて泣き崩れる。その愛が廃犬の現実を阻止しようという行動を生む。戦争に反対して平和という天国がつくれるのでなくて、平和という天国を価値観として持っているから、戦争を反対するのではないかということである。

 マフラーは日本人にとってはゲーム、誰があのマフラーを首にまくだろう、だが難民にとっては死活にかかわる衣料品であった。必死で奪ったマフラーを、日本人の思いのため、つらねて虹にしたいという、てんつくまんの必死の説得に応じて、戻し始める。それはわれわれの夢の実現でなく、廃棄されたに等しいキャンプのこどもたちに、これほどの人間への愛情が残っている事実に感動できたのである。

 どこまでもどこまでも強烈な個人性を、いかに保持できるのか、天国をつくるでは、この点が曖昧なのが気にかかった。個人性のない集団ほど恐ろしい組織はない。軍隊、オカルト教団、極右、極左革命集団、全体主義国家と、それらは、日常のすぐ隣に匂っている。個性の保持には、非常に複雑な対応の仕方が、それぞれに必要である。ときには、忍従そのものの行動も必要となる。それは、夢とは断ち切れた裂け目である。これらも視野に含めて、若者の生き方、その価値観の形成、つまり天国をつくる方法は、まだ別バージョンとしてありうるのではないかと思えるのだった。
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