市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

三ヶ月ぶりのブログ

2015-07-29 | Weblog
 ブログを書くのがあほらしくなって止めていたが、昨日、どうなったのかと『市街・野』を開くと、なんと685pvで、その前日が428で、それまで200から300pvでつづいていた。これほんとうよんでもらっているのだろうか。なにか、検索にただ引っかかった名残の数ではないのだろうか。驚きである。
 ひょっとしたら、読まれているのかもしれない、そう思うと、やはり、まだブログに発表したいことは、あり、やっぱり書いてみようかという気分になった。それで、今日、市街・野の再スタートについては、5月以来天候不順で雨ばかり降っていたような5月、6月、7月が経って、ようやく梅雨があけたという感じから話をしてみたい。このうっとうしい3ヶ月であった宮崎市は、日本全国では、相対的には一番気候温順で、ゲリラ雨も台風もなく、猛暑もないという季節であった。おそらく、ほぼ直線状に南北100キロの海岸が太平洋という安定した海に面しているせいであろう。夏になれば、海はエアコンディションとして作用し、猛暑はやわらげ、ゲリラ豪雨を発生する上昇気流も抑えているからであろう。この安定した気候は宮崎市街平野の特徴となってきている。

 もしここが、中国か、アメリカならば、高級住宅地区が開発され、全国から富裕層が住宅街を形成したであろう。それはない。あまった土地はないのだ。金持ちだけが集まって住むような土地はないのだ。あったとしても、そういう土地へ金持ちが集まって生活をしようとする意思はないのは明白である。せいぜい東京都の億ションに住むくらいのことである。階級意識があまりないせいからであろう。
 
 アメリカの高級住宅地区の実際を訪れたことはないが、グッグル・マップなどでフィラデルフィアのメインラインのストリートビユーを利用して散策してみると、あんな住宅地や、市街には住みたくもないという気分に襲われる。画一的な高級住宅が、幾何学的に並んだ単調な通りをみると、この宮崎市の郊外にある住宅団地と変わらないし、スケールが大きすぎて不便であり、どっちを向いても、歩こうとも、行ってみたいとも思わぬ無機質な住居と庭と門があるばかりである。美的でもない。デザインだけが仰々しくて空しい。生活感がないのだ。こんな住宅街と比べると、宮崎市街の郊外にひろがっている団地は、狭く、手軽に買えそうで、ごちゃごちゃで、高級感よりも、やすっぽさで、開放感がある。これはたしかに日本的、またアジア的とでもいえる生活環境である。よく、北欧のドイツやデンマーク、イギリスなどの街を
美しいといわれる。あるいはテレビで街角散歩で、映像的にこれでもかというくらい、美しさが西欧に街として賛美される。しかし、そんな美しさは、そこでの暮らしとは、何の関係もないといったほうがいい。まだ、日本で、住み慣れた故郷での暮らしのほうが、はるかに快適であるのだ。言葉が通じない生活環境では、生活は空ろでしかないことも加わるわけである。

 ということで、富裕層地区というのが、借りに開発されたとしても、そこは一般の暮らしから疎外された、不幸な不愉快な場所でしかないであろう。そういう場所が、宮崎市にはないのである。まさか、これからもそんな地区を開発しようというあほはいないだろうが、そういう
疎外された場所にうかつに飲み込まれることがない、われわれはしわわせかである。
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