市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

盆休みはなにもしなかった。

2010-08-16 | 日常
  つまりぼくはお寺にも、親類回りも、友達と会うのも全部しなかった。節子は毎日、午後4時ころから青井岳温泉に一人で自動車を運転して行って、ようやく太陽が西の住宅街の向こうに落ちるころに帰ってくる。いつも饅頭やアンパンや、漬物、てんぷら、その他もろもろの地方産品を買ってくる。夕飯を作るのは面倒臭いというので、ぼくは味噌汁や、豆腐などかんたんな夕食をさっと作ると、食欲をそそられて自分にもよそってくれという。まあ、こういう休みであった。

 12日は午後2時にクリニックはクロース、ぼく(事務長)は院長(長男)よりもいち早く、ギャラリー(事務長室)を閉め、飛び出してすぐにイオンに行き、行き着けのカフェ「サンマルク」に入り、いつものように本日のブレンドコーヒー(ショート240円)をとり、通り端に面した小さなテーブルに腰を下ろし、ぞろぞろと目の前を往来していく人の気配で、妙に落ち着けて、ややこしい本を読むことにしていく。ややこしい本、たとえば「世界の共同主観的存在構造」(廣松渉)などを再読したりといったこと・・・をする。しかし、それにしても、この日は、開館当時の毎日のように人々がわいわいとした感じであるいていた。

 しかし、あの開館当時は、みんなおしゃれを決めて、上気した表情で,東京の街に出てきたように興奮と緊張した様子が漂っていた、5年経った今は、半ズボンにぞうりのくたびれた若い男たちや、普段着のティーシャツの若い女、それにこどもつれの若い夫婦もの、多くの年寄り、くたびれた洋服のような人々が行きかっている。そう、花火大会のメインストリートのざわめきに似ているのだ。この不特定多数がいい、だれひとりかおみ知りでないはず、それゆえにかれらの2メートルまえで、気楽に読書に没頭できるのだ。これはパリーのカフェよりも快適空間だし、都内の森ビルよりも落ち着ける適度の貧しさがあった。

 今日はイオンはいっぱいだったよ、街の中は空っぽかもねとさっそく節子に報告したら、バカな宮崎市民30万いるのよ、イオンだけでまかないきれないでしょが、どこも盆休みはいっぱいなのよとにべもないことをいうので、いわれてみると、そうか、イオンだけの入れ物では足りないかもと思うのであった。さて、その翌日13日、盆の初日、午後2時、ふたたびサンマルクに行ってみた。その日も夏祭り状態であった。そこで午後3時に出て、そのまま橘通り3丁目に自転車で駆けつけてみると、まずは、南北700メートルの橘通りのうち3丁目の向き合ったデパート2店前をのぞ5分4は、人通りはほとんどなかったのである。表通りも裏町もそうだった。とにかく1丁目の大淀川堤防に近い1丁目になると、往来する人の気配もなくまさに炎暑に燃え上がる陽炎だけがあった。

 これはどういうことか、つまり節子が言ったような、30万市民たちの入れ物に繁華街はなっていなかったのである。イオンだけで足りていたのだ。イオンに行かなかった人は、中心市街地には出て行かなかったのである。この現実を、あらためて認識させられたのである。こんな街で商売してやっていくことの困難を想像するだに空恐ろしくなる。3丁目のあの横町の商店街若草通りがかっては若者たちが往来する賑わいの中心街路であったのが、ここ一年くらいでシャッター通りになってしまった。この変化は、市民の大半が,街に興味を持たなくなったことによろう。かくして、イオンは夏の花火大会の夜のようににぎわっている。前津村市長の宮崎市をシンガポール並みの「美しい街」にしようというシンガポール幻想は、街は美しい街にならず、都市の生きる活力にもならなかった。

 もちろん、3日目、昨日15日も街を午後4時に自転車で廻ってみたが、やはり人は希薄だった。盆最終日であったので、なおさら街中は、森閑として入道雲だけが綺麗であった。そして、今年の盛夏も、もう峠を越そうとしている。

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