市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

国民の温泉

2013-05-27 | 生き方
 また週末に温泉に家内と行った。彼女は、そこの歩行浴槽で一時間ほど歩くのにほとんど毎日のように通っている。ぼくも週末には付き合うことが多くなった。ぼくは30分で出て、休憩室で本を読んで過ごしている。彼女は2時間くらい出てこない日もある。夕飯は、温泉の食堂で食べることが多い。僕は夜はあんまり食べないので、カレーとか親子どんぶりだが、彼女はあら煮定食とか、刺身定食を好んで選ぶ。あら煮定食はこのシーズンの限定メニューとあり、かんぱちのあら煮にえびとやさいの天ぷらがつき、味噌汁とご飯とサラダもついて1050円である。 あんたも、もう先がしれてるのに、どんどん美味いものを食わなきゃね、なんでカレーなのよと慨嘆するのだが、朝も昼もたっぷり食ったし、軽いのでいいのだと言うと、食わん食わんといつも言いながら子供たちも孫も、いつもびっくりするくらい食うんだからと、攻撃の手を緩めない。朝も昼も彼女はやせるためにこのごろは努力しているのだが、夜、こんなに食えば終わりではある。食わんといったら食わんを実行しぬかんかぎり、肥満からの逃走はありえないのだ。まあしかし、先が迫っているのだからといってもぼくより7年は若いが、食いたいものは食えばいいじゃないかと、ぼくは彼女のあら煮定食には内心で賛成はしているのだ。また、人生を美味いものを食って、満たすとか締めくくるとは、する気は無い。結構、ほかにも楽しみはいっぱいある。この温泉で裸のままで遊べるのも最高の快楽にひとつではある。

 週末、土曜日(2013年5月25日)午後5時ごろの温泉は、思いがけなく閑散としていた。珍しいなというと、今は農家の人たちは農作業と忙しいはずと、彼女は言う。彼女は近所の人たちには恥ずかしいとかなんとかで人見知りするが、温泉ではいろんな友達が出来てきた。農家の主婦だったり、公務員退職者、土地持ちでアパート経営者とか、大学教授の奥さんで絵描きとか、70歳に及ぶ年頃でキャンピングカーでいつも旅をするやせこけて小さいおばあちゃんとか、まさに多種多様の人生物語を知って、面白そうにいつも話してくれる。この時期農家が忙しいという指摘もその交際から実感できるのだと思う。忙しい人がいっぱいで、温泉ががらんとしているのは、ぼくにはうれしい。これはエゴなのだろうが、エゴでしか生きられない部分はおおいにあるのだ。それはそれとして、 今日こそはと、ぼくは好きなジャグジーの噴出孔の前のあぶくにつつまれて座り、改めて浴槽内を眺めると、6人しか浸かってないのだ。兄弟らしい小学生が二人ジャグジーの泡を手で押し返そうとしている。ぼくの右側で、浴槽の縁に背をもたして目が動かないじいちゃん、真っ裸で股を広げたままの正面の若者、その横の寝風呂でいびきでもかきだしそうな屈強な50台の男、やせさらばえた貧髪のおじいちゃん、そんなかれらに、高さ3メートルもある窓から緑陰に染まった光線がグレコの絵画のように降り注ぐ、のを飽きずに見つづけていた。。

 この2013年5月25日のある時間、ここに集まって、入浴を享受していける6人をなんと呼べばいいだろうか。仮に、ただ今、国民が温泉の入浴を楽しんでいますと、実況報告するとなると、この国民という言葉はまったくそぐわないのがわかる。こんな実況するアナウンサーの役割を仮想してみた。当然、かれらを国民と呼ぶのが、ことばとして、まったく合わないのに気づかされるのだ。そうか、この光景は国民の入浴とは、呼べないのだ。だんだんいろんな状況に国民をつけてみる。家内のあら煮定食も、国民は、あら煮定食を食べるとしたら、なんか刑務所での麦飯定食というよううなイメージがしてしまう。ぼくは、家内と二人暮らしで、12班という隣組で生活している。3回班長をやってきたが、かれらは国民であろうか。向こう隣のご主人とは、朝、夕、挨拶ばかりか、ちょっとした立ち話もしたりする。その彼を国民として意識することはない。いったい国民は、具体的になると誰が当たるのだろうか。まこと日常生活で、国民とは、誰さん彼さんではないのを、痛感できるのである。どうも当てはまらない。逆に、ぴったりと密着するのもある。たとえばマイ・ナンバーである。国民総番号とすると、じつに明瞭に意味がとおるのに、なぜ、マイ・ナンバーなのか。自家用車のナンバー、貯金通帳のナンバー、保険証のナンバーと同列になったようなマイ・ナンバーは意味がぼやける。なぜそうするのか、もちろん、国民番号制ではあまり露骨だからである。国民はここでは避けられる。まあまあ、それを今どうこう論じるのは置くとして、肝心なのは、国民という「ことば」は、ぼくらひとりひとりの日常の姿には、そぐわないのである。

 このように、温泉の湯煙のなかで、思いつづけるのであった。ところで、なぜ安陪さんは、朝も晩も国民、国民と魔法使いの呪文のように言い続けるのだろうか。毎朝の安陪首相動静が、新聞では一欄としてまとめられるが、その分刻みの彼の行動は、未来に何を望んでいるのかが、見事に伝わってくるように思える。全国あっちに走り、こっちに走り、どうも国民をがっしりと捕らえる行動のように見える。しかし、国民とは一人一人の生きている現実ではないのである。それを現実として捕らえようとする、かれの欲望は、この捕獲に燃え上がっているようだ。しかし、国民とは存在していないのだ。存在せぬものを追いかけ、捕まえようとする、この矛盾が、近い将来爆発するのではなかろうか。言ってみれば、国民憲法改正運動など、これも国民ということばがよく合う。だがしかし、だれも憲法などを話題にしたり、考えたりして過ごしてきた60有余年ではなかったのだ。そこには語る必要も無いほど、厳然として憲法がわれわれの生活にみっ着していたからなのだ。憲法は一人の個人の行動のように戦後の日本人になっていた。これを国民運動にすることそのものが、憲法破壊であることを、ぼくらはかなり認識できているように思う。つまりアベノミクスに投機市場の市場の反応のように明快、具体的、現実的反応が、あるわけである。この戦後平和のつづく60年余、これが現実である。それを無視して、国民のための、憲法改正など、無用きわまることなのではないか。これが現実であろう。憲法改正の呪文などに惑わされるような日本人は、さすがに情報化、国際化の時代には、もう少なくなっているのを、安陪さんは気づかないのではなかろうか。

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