夏休みも終わり、孫たちはまた学校が始まった。ぼくのチップの散歩は、年中無休、土、日もない、休み無くなんでもつづけるということは、ときにあきあきして疲労もたまり、ストレスにもなる。一週間に一度の休息というのが必要かと思ってみたりするのだが、休みのないという身体的行動は、じつは当たり前のことだと気付かされる。たとえば、食事をするということ、これは止められない。止められないということは、この場合料理をするということに直結している。家事の多くは、この止められないという仕事なのである。これは至極、残酷なことになっているのだ。渡部昇一という学者がいるが、かれは男子で知的生活を送らんとするならば、ぜったいに厨房に入っても立ってもならぬと、その「知的生活の方法」という文庫本のなかで宣言している。で、かれは結婚しているわけで、妻に、女性だけが厨房仕事をすべきであると断言しているのだ。、まさにNHKの評判朝のドラマ「げげげの女房」である。それはともかく、このように朝飯を食うということなども、定期的に止めるということは、ほとんど不可能なことなのだ。思ってみるとそうなんだと気付かされる。
またまたチップの散歩で、小学校に通う近所のこどもたちといっしょに歩く日がもどってきた。そんなときに、ぼくはなんどが、こどもたちに今朝はなにを食べたと聞いてみることがあった。たいがいなこどもが、パンだというのだ。パンのほかにはというと、パンだけと、あっさり答える。味噌汁はと聞いても、ほとんど味噌汁のある朝ご飯などはないようであった。おそらく若い母親たちも共稼ぎなどで、ゆっくり朝食を作っている暇などないのであろうか。
自動販売機のまえに乗用車を停車させて、コーヒーの缶を出す若い女性たちのどことなく疲労感をにじませる中腰の姿は、毎度の情景であった。このコーヒーで疲れを鎮めて出勤するのであろう。かなりのこども、若者たちが、朝飯抜きのような状態で、長い一日を迎えることになっているようだ。こんなことを見てきているうちに、朝飯を作ってみようという気持ちを起こして、それをスタートさせて、その日がいつだったか記憶も薄れたが、すくなくともまる3年は経っている。家内がときどき割り込んできたほかは、毎日、日曜だろうと料理してきていた。今はそれは空気を吸うような自動的な行動であり、きっかり45分以内で料理を終えている。
こんな料理なら、そうとう忙しい人でもやれるのではないか、ということで、紹介してみる。この朝食料理の核は、この3年間、同じ野菜炒めで、変化しないということである。3年といわず半年も同じ料理をつくれば、ほとんど頭をつかうことはなくなる。それに料理は自動反応のようになってしまう。それでいて、単純労働ではないということが、特異点であろう。一回、一回、やってみる技がある。これでしか美味い料理はできない。この技のバリエーションは、3年やっても尽きなくて、飽きが来ないというわけである。
ではレシピを説明しよう。主婦が見たら笑い出すようなものだが、それでもまちがいなくブレックファストにはなってきた。サラダ油やオリーブ油、にんにく、椎茸、その他の茸類、ピーマン、しし唐,人参、ジャガイモ、ベーコン。おろし大根、目玉焼き、切り餅。こーひー(コーヒー豆からコーヒーを淹れる)トースト。ジュース(りんご、ばなな、人参、アロエなど)が基本。それに野菜は、折に触れて、ときどきかぼちゃやなすなどを加える。ピーマンとしし唐というのは、じつは花壇のはしに4本植えているのだ。これだけで、5月下旬から11月まで毎日のように収穫がつづくのだ。生で齧っても甘みがあって食えるほど美味しい実なのだ。ヨーグルトやチーズをくわえるときもある。牛乳は蛋白源として飲む。フライパンと電子レンジと、トースターとを適宜なときに発動させて、すべてが出来上がり終点時間は同じになるようにする。そんなわけで、おろし大根は野菜炒めの合間にやる。
野菜は最初に冷蔵庫から出し、裁断してすぐに冷蔵庫に戻す。にんにくは薄皮ははがずに。ピーマンは縦割りしただけで、なかの種もしろい果肉もそのまま焼く。ベーコンとにんにくを裁断したら、包丁は洗って収納する。コーヒーは、野菜炒めのあと、目玉焼きをしている間に豆をカッターにかけ、淹れるのだが、全体の時間は5分くらいで終わる。湯は料理のあいまに沸かしておく。この出し入れはパソコンのキーを押して、必要な言葉を入力するのと同じだ。
パンは始めはホットサンドを作ったり製パン機で自家製のパンをつくったりしたが食パンがフランスパンという単純なものが一番、ただし、コンビニのパンや大量生産の安かろうパンは役に立たない。いいパンを足で探しておく。コーヒー豆も豆が生命線、これもずいぶん探したが今は東京の喫茶店のものを通信販売で定期購入している。そう、3年も同じ料理をやっていると、ジャガイモにしろ大根にしろピンからキリまであるのがわかってくる。うまいジャガイ、うまい大根を探し出して、これを食うときの快感は、すばらしい。餅はに新潟産の切り餅を一切れ、この餅はコーヒーとじつによく合うのだ。これはたいがいの人がへえと驚くんだが、味の微妙さでコーヒーと餅は調和するのだ。
料理の手順というのも経験で、ここもあすこもと改善点を見出してこれる。そして速くなるし、さらには、料理をした痕跡さへとどめぬシンクと食卓周りで、料理は終わるのだ。あとの皿洗いも5分で乾燥機内に収められる。午前6時半起床、寝床や部屋のかんたんな片付け、チップの散歩、仏壇の灯明や水お供え、チップの食事、ゴミだしとやることがあるが、すべてやれる。今思い出すと、朝食をつくるということは、ぼくにとって快楽でありつづけている。家内は夕食をつくるが、義務感を払拭できないでいる。アソビでやるのと義務でやるのは気分が違うのだ。じつは、この3年間でかなり努力を要したのは、料理ではなくて6時半に起床するという習慣であった。なにしろ50年間、午前8時ごろにしか起床しなかったのだから、これを改めるのが、おおきな苦労であったが、今では、日曜になろうと、午前一時に就寝しようと、午前6時半までに起床しないと、かえって体調が悪い。このように習慣というのも変えることができる。人の身体的行動は、実に単純である。意識こそが最大の難関ではないのだろうか。あの渡部昇一は、この40年間、意識を変えることができずに老いを迎えたようである。知性とはなんなのだろうか。まずは朝食を十分食って一日を迎える習慣から見えてくるもの、これは体験してみる価値はあると、ぼくは若い奥さんや女性たちに進言してみたい。
またまたチップの散歩で、小学校に通う近所のこどもたちといっしょに歩く日がもどってきた。そんなときに、ぼくはなんどが、こどもたちに今朝はなにを食べたと聞いてみることがあった。たいがいなこどもが、パンだというのだ。パンのほかにはというと、パンだけと、あっさり答える。味噌汁はと聞いても、ほとんど味噌汁のある朝ご飯などはないようであった。おそらく若い母親たちも共稼ぎなどで、ゆっくり朝食を作っている暇などないのであろうか。
自動販売機のまえに乗用車を停車させて、コーヒーの缶を出す若い女性たちのどことなく疲労感をにじませる中腰の姿は、毎度の情景であった。このコーヒーで疲れを鎮めて出勤するのであろう。かなりのこども、若者たちが、朝飯抜きのような状態で、長い一日を迎えることになっているようだ。こんなことを見てきているうちに、朝飯を作ってみようという気持ちを起こして、それをスタートさせて、その日がいつだったか記憶も薄れたが、すくなくともまる3年は経っている。家内がときどき割り込んできたほかは、毎日、日曜だろうと料理してきていた。今はそれは空気を吸うような自動的な行動であり、きっかり45分以内で料理を終えている。
こんな料理なら、そうとう忙しい人でもやれるのではないか、ということで、紹介してみる。この朝食料理の核は、この3年間、同じ野菜炒めで、変化しないということである。3年といわず半年も同じ料理をつくれば、ほとんど頭をつかうことはなくなる。それに料理は自動反応のようになってしまう。それでいて、単純労働ではないということが、特異点であろう。一回、一回、やってみる技がある。これでしか美味い料理はできない。この技のバリエーションは、3年やっても尽きなくて、飽きが来ないというわけである。
ではレシピを説明しよう。主婦が見たら笑い出すようなものだが、それでもまちがいなくブレックファストにはなってきた。サラダ油やオリーブ油、にんにく、椎茸、その他の茸類、ピーマン、しし唐,人参、ジャガイモ、ベーコン。おろし大根、目玉焼き、切り餅。こーひー(コーヒー豆からコーヒーを淹れる)トースト。ジュース(りんご、ばなな、人参、アロエなど)が基本。それに野菜は、折に触れて、ときどきかぼちゃやなすなどを加える。ピーマンとしし唐というのは、じつは花壇のはしに4本植えているのだ。これだけで、5月下旬から11月まで毎日のように収穫がつづくのだ。生で齧っても甘みがあって食えるほど美味しい実なのだ。ヨーグルトやチーズをくわえるときもある。牛乳は蛋白源として飲む。フライパンと電子レンジと、トースターとを適宜なときに発動させて、すべてが出来上がり終点時間は同じになるようにする。そんなわけで、おろし大根は野菜炒めの合間にやる。
野菜は最初に冷蔵庫から出し、裁断してすぐに冷蔵庫に戻す。にんにくは薄皮ははがずに。ピーマンは縦割りしただけで、なかの種もしろい果肉もそのまま焼く。ベーコンとにんにくを裁断したら、包丁は洗って収納する。コーヒーは、野菜炒めのあと、目玉焼きをしている間に豆をカッターにかけ、淹れるのだが、全体の時間は5分くらいで終わる。湯は料理のあいまに沸かしておく。この出し入れはパソコンのキーを押して、必要な言葉を入力するのと同じだ。
パンは始めはホットサンドを作ったり製パン機で自家製のパンをつくったりしたが食パンがフランスパンという単純なものが一番、ただし、コンビニのパンや大量生産の安かろうパンは役に立たない。いいパンを足で探しておく。コーヒー豆も豆が生命線、これもずいぶん探したが今は東京の喫茶店のものを通信販売で定期購入している。そう、3年も同じ料理をやっていると、ジャガイモにしろ大根にしろピンからキリまであるのがわかってくる。うまいジャガイ、うまい大根を探し出して、これを食うときの快感は、すばらしい。餅はに新潟産の切り餅を一切れ、この餅はコーヒーとじつによく合うのだ。これはたいがいの人がへえと驚くんだが、味の微妙さでコーヒーと餅は調和するのだ。
料理の手順というのも経験で、ここもあすこもと改善点を見出してこれる。そして速くなるし、さらには、料理をした痕跡さへとどめぬシンクと食卓周りで、料理は終わるのだ。あとの皿洗いも5分で乾燥機内に収められる。午前6時半起床、寝床や部屋のかんたんな片付け、チップの散歩、仏壇の灯明や水お供え、チップの食事、ゴミだしとやることがあるが、すべてやれる。今思い出すと、朝食をつくるということは、ぼくにとって快楽でありつづけている。家内は夕食をつくるが、義務感を払拭できないでいる。アソビでやるのと義務でやるのは気分が違うのだ。じつは、この3年間でかなり努力を要したのは、料理ではなくて6時半に起床するという習慣であった。なにしろ50年間、午前8時ごろにしか起床しなかったのだから、これを改めるのが、おおきな苦労であったが、今では、日曜になろうと、午前一時に就寝しようと、午前6時半までに起床しないと、かえって体調が悪い。このように習慣というのも変えることができる。人の身体的行動は、実に単純である。意識こそが最大の難関ではないのだろうか。あの渡部昇一は、この40年間、意識を変えることができずに老いを迎えたようである。知性とはなんなのだろうか。まずは朝食を十分食って一日を迎える習慣から見えてくるもの、これは体験してみる価値はあると、ぼくは若い奥さんや女性たちに進言してみたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます