市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第16宮崎映画祭 愛の展開

2010-07-28 | 映画
1995年作岩井俊二監督「Love Letter」は、いつの時代に製作されてもおかしくない失われた恋の追憶が主題である。

 タイトルのLove Letterは、便箋にペンで書き、封筒に入れ宛名と自分の住所を書き、切手を貼って、近くの郵便ポストに投函し、やがて恋人から返信が自宅あてに届くという一連の作業をつづけられることである。ヒロイン博子は、恋人であった藤井樹を登山の遭難死で失っていたが、あるとき、かれの母親からみせられた中学卒業名簿をみて、異郷に住んでいたかれの住所宛に「お元気ですか。私は元気です」という手紙を投函した。忘れがたい追憶を癒すためであった。ところが、藤井樹の名前で返事がとどいた。同姓同名の女性が、居たのだ。しかも彼女と樹は、同級生であった。ここから、二人は、藤井樹についての思い出を手紙に託して交換をはじめる。純にとっては恋人、樹にっとは、同じクラスで同姓同名ということで、クラスメートからやっかみ半分のからかいの的となり、反発をぶっつけあう仲であった。しかも二人は、図書委員として図書館の仕事もしていた。彼は、読書好きで、本の裏表紙に貼付されている貸し票には、藤井樹の署名が新刊に片端から記されていた。二人は手紙の交換で、生前の樹の見知らぬ面を知ることになる。交換は、同級生であった二人の卒業式の最後の別れの日のことで終わったのだが、その日のこととは、かれが最後に図書室から借り出した本を、彼女の祖父の葬儀に朝にとどけて、いつものように、だまって本をさしだし、そもまま門を去っていったことであった。彼女は、卒業して数年後に母校の図書館司書として勤務しだした。図書委員たちは、書棚の本のほとんどに藤井樹の貸し出し記録があるのと、彼女を比べて、かっての二人の仲をおもしろおかしく推察して、彼女をからかっていた。それを否定する彼女であったが、ついにある日、図書委員の生徒たちは、図書「失われた時」の貸し出し票藤井樹の裏に彼女の克明な似顔絵が描かれているのを発見、彼女に知らせたのだ。この小説こそ、かれが別れの朝に自宅で手渡した本であった。彼女はこれを自分の胸中にだけとどめた。

「Love Letter」は、青春の甘くせつない恋の抒情詩として納得のできる内容であろう。二人の時代は、中学卒業が1984年、それから高校・大学時代を加えて、1989から1990年ごろのお話である。あるシーンでパソコンが出てきて、変な形のパソコンと思ったが、あ、ワープロだったかと気づき、88.9年ごろはまだワープロしかなかったなと、思い出すのだった。あの当時、キャノンのワープロを37万円で購入したことをも懐かしく思い出す。もちろんパソコン通信もほとんど無かった。それからようやくパソコンを購入したのは1990年であった。

 そして製作年1995年はどんな年であったが。この冬の1月阪神大震災が起こった。3月オーム真理教によるサリン事件が起きた。91年のバルブ崩壊後の不況が、構造不況の状態となり、この大災害と事件を目のあたりにしてようやく、人々も戦後の豊かな日本の崩壊にきづきはじめだした年であった。宮崎市では、第一回映画祭が開催され、ライブをやっていた一部のわかものたちは、完全宮崎主義というタウン誌を発刊、あらたな文化運動をやっていた。翌年は宮崎国際音楽祭の第一回が開催された。しかし今思うとどの運動も、文化状況が深層崩壊を起こした現実に気づきも立脚もできない状況であった。そして、宮崎市では、パソコンもパソコン通信もまだまだ一部のものにしか使用も利用もされていなかったのである。

 時代は変わった。しかし、パソコンと電子メールの普及は、宮崎市ではまだまだであった。ようやくパソコンが普及しだしたのはウインドウズ98、いやエクスプロラーの2000年代に入ってからであろう。この映画が封切られた1995年は、まだワープロのやっと日常化された時代であったのだと、今あらためておもいだせるのであった。便箋に万年筆もしくはボールペンで文を描き、宛名書きした封筒に入れて、切手を貼って近所の赤いポストに投函して、手紙を送るというのは、ノスタルジーに満ちた慣わしになってしまったのだ。ラブレーターが成立するにはまずこの習慣が要る。今は電子メールで一瞬にして、どこにいても世界中どこででも連絡可能である。先日、ぼくは14年ぶりに知人に、ある情報を知りたくて連絡した。インターネットで、知人の名前を検索すると、現在の勤務先と彼女の会社用のメールアドレスも入手できた。すぐに返事が来た。そこには懐かしいとか、思い出とかの情緒的な要素は完全になかった。彼女はもはや通信記号でしかなかった。

 さらにもひとりの知人はアメリカのバージニア大学の農学部教授として勤務していたが、ここもクリックで、また姪のひとりはジャカルタで、もう一人はノースダコダにいた。その環境はどうなのかも、インターネットの映像はクリック数回で伝えてくる。さて、映画では、手紙の最後の交換を終わったあと、ボーイフレンドと、恋人が遭難した山にでかけ、その山頂にいるとおもわれる樹の霊に呼びかけて、自分の新しい人生をスタートさせようとした。博子にとっては、樹の暮らした小樽も、東北の山も遠い異郷として想像できたのだ。時間も場所も手のとどかぬものとして存在していた。しかし現在、そのような実感はない。均質なのっぺらぼうの無機的時間と空間がまずあるわけだ。このような情緒的な現実は喪失し、うばわれた時空間にあるわけである。

 さて、失われたものをもっと映画にそってかんがえてみると、失ったものは、恋人にとどまらず、陰影と幅をもった時空にとどまらず、かってあった日本でもあったといえる。もはや、豊かな日本ではなくなった。がんばれば明るい未来が期待できる社会もなくなった。社会を変えるという価値観も機能しなくなった。自分の暮らしてきたこれまでの日常が、崩壊したのだ。この崩壊からどう立ち上がりなにをなすべきかが、じつは個人の生き方として切実な問題として問われてくることになる。

 この映画の最後で、博子が叫んだのは、新しい再生の叫びではなかった。ボーフレンドも博子の決意を山頂を前にして得られなかった。博子にもだれにも、まだなにをすべきかがわからなかったのだ。ただ、恋人が死んだことだけが理解できるようになったと思われる。かってあったの日本の崩壊が、またこの映画でも語られているとおもえるのだが、いかがであろうか。いや、時代の文化は、避けがたく映画表現に、かぎらず芸術には影響を与え、それをどこかにとどめている。この影響のない芸術表現、そんなものは、ほとんどの宮崎市のアートとおなじく暮らしにとっては、雑音に過ぎない。観るに値しない駄作ではある。今年の映画祭は、この意味ではかってないほど、興味をひくのであった。ではおなじ恋情でも、2010年の今日はどう表現されているのであったか。

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