ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

「自分で考えようよ」というのは気恥ずかしいが

2004-12-25 23:52:46 | 大学
跡見女子大で、「芸術文化とNPO」という授業を持っている。履修登録者208名で、400人収容のホール(花蹊メモリアルホール)でマイクを使って授業をしている。大人数だから、伝えることのできる中身が薄くなりがちなのはある程度仕方がない。この科目では、2冊の課題図書を学生に読ませている。金子郁容著「ボランティア もうひとつの情報社会」(岩波新書)と塩谷陽子著「ニューヨーク 芸術家と共存する街」(丸善ライブラリー)の2冊である。前者は、「アートとボランティアとNPOの関係」を、後者は、「アートと市場とNPOの関係」を説明するのに最適の内容である。ただし、それだけにとどまらず、前者では実は「情報」と「ネットワーク」について多くの示唆的な内容が語られており、後者では「デモクラシー」と「芸術支援」との興味深い関係が語られているのだ。学生には、11月初めまでにどちらかを読んで、「自分にとっての発見」を3つ報告するようにと小レポートを課した。提出された小レポートを読むと、多くの学生のレポートは、紹介されているエピソードについての感想にとどまっており、いかにも食い足りないので、内容を再度確認してもらう意味で、先日の授業中に前者の中から「動的情報」「バルネラブル(vulnerable)」など、後者の中から「プロの芸術家」などキーワードを3つずつ選んで、それぞれについて簡単に説明せよ、という課題を出した。多くの学生は、これに対してかなり適当に「本文からの文章の引用」ですませようとする。私は「キーワードについて著者が説明している箇所を引用せよ」という課題を出しているわけではないのだ。やや格好をつけて言えば、「どこかにある正解を探せ」というのではなく、「著者と格闘して自分なりの答えを見つけてほしい」ということなのだ。もちろん、著者の記述を参照するのは一向に構わないが、「自分で考えて自分の言葉で答えようよ」、学生諸君。と、ここまで書いてみたが、我ながらどうにもこうにも気恥ずかしい。たしかに学生にはそのように伝えたいのだが、そのような言い方が・・・。「大学教員病」かも知れない。
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