興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

差別意識と反動形成 (Prejudice, Discrimination, & Reaction Formation)

2014-04-14 | プチ精神分析学/精神力動学

 最近、どこかの小学校の入学式で新しいクラスの記念写真撮影時に、その学校の校長先生の判断で、ダウン症を持つ男の子が、その集合から外された写真と含まれたものと、二通り撮影されていた、というにわかに信じがたいようなニュースがありました。

 この校長先生の言い分は、男の子の母親が、どこか躊躇するように見えたから、「それでしたら、お子様を入れた写真と、除いた写真と、二通り撮影するのはどうでしょう」、と提案したのだ、ということと、ほかのお母さんのなかから、この男の子が入学することに不安の声があった、というものでしたが、この記事を読んで、私は何とも言えない不快感と悲しみを感じました。

 この男の子のお母さんは、大事な息子が、小学校入学式という、親子にとって大切な一場面で、障害がある、ということで、皆から外されて撮影されたことで、どのような気持であったかを思うと、本当に心が痛みます。小学校入学までに、本当にいろいろなご苦労があったと思うのです。そして、待ちに待った小学校入学式、というときに、このような経験をされたわけです。

 記事を読む限り、この校長先生には、まったく悪気はなかったようで、私は却って恐ろしくなりました。この校長先生には、男の子と、男の子のお母さんに対する共感性が、全くなかったのです。

 躊躇していたように見える、というのは、彼のなかにあった、彼が認めたくない、或は自覚できていない差別意識の投影です。校長先生は、自分のなかにあった躊躇を、お母さんに投影して、お母さんのなかに見ていたのでしょう。確かにこのような場で、自分の子供だけダウン症を抱えている、ということで、お母さんは、自然に不安になるでしょう。でもこれは、自分の大切な子供が受け入れてもらえるかという不安です。実際お母さんは、このような対応に、悲しみ、失望しておられました。

 彼は、一見お母さんを見ているようで、まったく見ていません。お母さんの中に、自分自身の受け入れがたいものを見ていたのです。

 ここで校長先生という立場の人間がすべきであったのは、お母さん、大丈夫ですよ、これから力を合わせてみんなで一緒にやっていきましょう、という受け入れの姿勢です。障害を超えて、みんなで一緒にやっていく、という、受容です。もし彼にこの親子に対する共感があれば、そのように振る舞っていたことでしょう。そういう、お母さんもお子様も安心できる雰囲気を作り出すのが学校のリーダーの役目だと私は思うのですが、彼がしたことは、残念ながら、その真逆のことでした。あなたの子は、他のことは違う、という、排他的で、拒絶的なメッセージです。

 この校長先生は、このように人目を引くようなできごとに発展したのは今回が初めてだったかもしれませんが、過去にも何度となく、こうした無自覚の差別意識でひとを傷つけることはたくさんあったと思います。人の、とっさの行動には、その人の人柄や人格がよく出るものです。これが単発で唯一のうっかりミスだとは思いません。

 私は、彼の差別意識を批判しているのではありません。差別意識に対する無自覚さです。

 差別意識は、誰にでもあります。差別、というと強い響きかもしれません。ほとんど生理的な苦手意識や偏見、といえるかもしれません(脚注1)。

 しかし、教育者として大切なのは、そうした、自分の差別意識に自覚をもつ、ということです。まず自分の問題に向き合うことです。自分と向き合えない人間が、他人ときちんと向き合えることはありません。しっかりした自覚ができていれば、細心の注意をもって行動できるので、抑制も効き、このように他者を傷つけることは防げるし、また、最低限にとどめられます。

 問題は、そうした自分の「汚い部分」、「見たくない部分」から目を背け、それを覆いかぶせるように、良く振る舞おうとするところから始まります。そのようにして、自分から切り離され、ほとんど無意識に葬られたものは、このようにして、その人を、思わぬところで捕えます。あるいは、鬱や不安、体の不調などといった形で表れてきたりします。

 このように、自分の本来の気持ちを無視したり、否定したりして、その真逆の行動にでるこのこころの防衛機制を、精神分析学では、反動形成(Reaction-formation)といいます。「受け入れたくない自分」を意識するのは、こころにとって、不快であったり、脅威であったりするため、ひとはそこから目を背けたり、また、そうしたものを克服しようと、その気持ちとは正反対のことをします。

 誰かに怒りを感じている人が、自分の怒りという感情が受け入れがたいため、それを押し殺すかのように、却ってその相手に優しくする、というようなものです。

 悲しいことに、このように無理をして、体を壊したり、鬱や不安障害に陥るひとは、日本にはたくさんいます。周りとの調和、ハーモニーを重んじる文化的、社会的な背景もあるでしょう。そして、多くの人は、正しくありたい、公平でありたい、ポジティブでありたい、という、善意や、良い意図に基づいて、このように振る舞います。おそらくこの校長先生も、彼なりの善意であったのでしょう。防衛機制ですので、無意識に行っていることです。

 私が提案することは、自分のあらゆる感情において、きちんと自覚を持つということです。

 その感情が嫌なもの、受け入れがたいものであったり、克服したいものであれば、なおさら自覚は大切です。

 自分の見たくない感情に向き合って、それで正しい行動に努めることと、そこから目を背けて、ポジティブに振る舞おうとするのでは、一見同じ行動のようでも、その質も、その人が向っている方向も、まるで違います。

 自覚して、なお、正しく、公平に振る舞うひとは、自分の難しい気持ちに向き合った上での行動であるため、そこに不自然なものはなく、また、こうしているうちに、実際に、その対象に対するネガティブなものは、減少していきます。なぜなら、人の、「好き、嫌い」は、絶対的なものではなく、それ自体が、たいていにおいて、我々がもともと自分のなかにあった、受け入れがたいものを、自己から排除して、その対象に投影しているものだからです。つまり、その対象を真に受け入れられるようになる、ということは、そのまま、その人の更なる自己理解、自己受容、人間としての成長へと繋がっていくのです。

 一方、そこから目を背けて正しくあろうとする人は、周りから見ると、その態度がどこか不自然であったり、そこに何か苛立ちや偽善を感じたりします。また、そのように「臭いものに蓋」をして、いつまでも向き合わないので、無意識においやられたその感情は、いつまでもそのはけ口を求めて、その人をサボタージュします。意識は低いままですし、視野も広がらず、成長も望めません。

 今回のできごとを機に、この校長先生が、今まで知らなかった自身の差別意識に自覚をもって、それにきちんと向き合いながら、その生徒とお母さんを含めた、いろいろな個性、違いを持った子供たちと、その親御さんと、交流を続けていくことを願っています。そして、これは本当に悲しいできごとですが、これを機に、教育現場における、社会における差別意識について、また、障害をもつ子供たちが、どのように、みんなと一緒に、自分らしく、生きていけるのか、皆で考えることが増えていったらと思いました。

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脚注1) 差別(Discrimination)と、偏見(Prejudice)と、ステレオタイプ(Stereotype)は、それぞれが関係した概念ですが、心理学的、社会学的にいう、厳密な違いは、差別が、行動(Behavior)を伴うことに対し、偏見は、(負の)感情(Emotion)という、その人の内面の問題で、それが必ずしも行動にでるとは限りません。そして、ステレオタイプは、その対象に対する、固定観念、偏った考え(Thoughts)であり、そこに負の感情(Prejudice)が必ずしも存在するわけではありません。たとえば、「中国人客は成金」というのはステレオタイプですが、「中国人客は成金で、買い物マナーが悪く、嫌な客だ」というのは、偏見で、「中国人客は成金で買い物マナーもなっていないし、接客したくないし、ぞんざいに対応している」、というのが、差別です。マナーの良い、礼儀正しい中国人客はたくさんいるわけですが、こうしたステレオタイプが悪感情を引き起こし、すべての中国客に対する差別へとつながるわけです。もっとも、お分かりのように、ステレオタイプは偏見を招き、偏見は差別に繋がるわけで、これはあくまで便宜定な分類です。