興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

風邪を引くタイミング (改稿)

2014-03-08 | プチ精神分析学/精神力動学

  普段風邪を引かないように気をつけているのに、本当にたまたまその日に限って薄着をしていたり、どこか不注意であった為に風邪を引いてしまって、悔しい思いをしたという経験は、誰にでもあると思います。

「あたし馬鹿だったぁ」とか、「オレ昨日に限ってうかつだったんだよねぇ」とか、風邪を引いた人からよくそういう話を耳にします。

 しかし、少し考えてみると、不思議なことに思い至ります。

 人間、風邪を引かない時は、「何をしても」まず風邪を引きません。そういう時は、真冬に裸で外にいたって風邪を引かない。寒中水泳に行った人や、新年に滝に打たれに行った人が風邪を引いて寝込んだという話は、あまり聞きません(もちろんそういう場合もありますが)。

 そんな極端な例ではなくても、風邪を引いてしまった条件と全く同じ状況(例えば、真冬に暖房が壊れて寒い部屋にいなければならなかったり、真夏に、狂ったようにクーラーの利いた部屋に薄着でいて、寒い思いをする)を経験しても 風邪を引かない場合は多いと思います。「参ったな、これでは風邪引くかな」 と心配していたけれど、寒い思いはしたものの、風邪を引くには至らなかった、という経験のある人も多いと思います。

 つまり、「うっかり」風邪を引くためには、「うっかり」な状況に加えて、何か別の要素が関係していることが考えられます。

 一言でいうと、これはストレスです。

 ストレスと風邪についての研究は、実際かなり進んでいて、今では、ストレスが風邪を起こすことは多くの心理学者の間では通説になっていたりします(脚注1)

 しかし、ストレスと言っても、ストレスにはいろいろな段階があり、風邪を引くのは、ストレスの後期の段階である場合が多いです。
一般に人間はストレスにさらされると、一時的にその適応として、免疫機能が高まりますが、そのストレスがあまりに長引くと、やがて免疫力が落ちて身体を壊してしまいます。 身体の防衛反応は、一種の非常事態なので、長期戦には適していないのです。

 ストレスの多い環境にいると、人間は気を張って、身体もストレスに負けないように免疫機能をフル稼働するのだけれど、その、ストレスの原因となっているもの(ストレッサー)がなくなって、ほっとしてちょっと気が抜けた瞬間に風邪を引く人は非常に多いです。

 会社で忙しい日が続いていて、暇になった直後とか、重要なプロジェクトが終わって一段落した時など、人が風邪を引くタイミングは、注意深く見ていると、なんとも絶妙なタイミングであることがよくあります。

 そういうわけで、自分が風邪を引き始めたとき、 「不注意だった」という考えを超えて、最近の自分の置かれていた状況や、自分の精神状態などを内省してみると、意外な気付きや事実に思い当たったりします。

 風邪を引くこと自体はネガティブなことだけれど、風邪を引いたことから自己分析をして、「今後はこのような無茶はしないようにしよう」とか、「これからはもっと前から準備を始めてばたばたしないようにしよう」などと、後学のためになったり、行動を改善したりすることもでき、学べることは多いので、あながち悪いことだけではないのかもしれません。

 身体の不調は心の不調のバロメーターだけれど、 自分が置かれているストレスが慢性化しすぎていて、ストレスにすら気付かない人も多いです。 風邪を引いたときぐらいは、自分のことをきちんと考えてあげて、労わってあげてください。

 そういう意味で、忙しい期間が終わろうとしている時、何かの問題が解消しつつある時など、気が緩んでいる時は、とくに注意したほうがいいかも知れません。 打ち上げパーティーに行ったり、夜更かしする代わりに、マッサージに行ったり、おいしいものを食べて、早めに家に帰っていつもよりたっぷり寝たり。もちろん、ことの最中に軌道修正が可能だったら、無理のないほうに変えていくのが最善ですが。

 「病は気から」とはとてもをうまく真実を言い当てている言葉だと思います。

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脚注1)たとえばアメリカの大学生が、期末試験(Final exams)の直後に風邪をひいたり体を壊す傾向があることは臨床研究で知られています。また、ウィークディは大丈夫だけれど、週末にかけて体を壊す人も割と多いですね。

(元の文章は、2006年の10月14日に書いたものです)


言い間違えの心理: フロイト的失言(Freudian Slip) (改稿)

2014-03-08 | プチ精神分析学/精神力動学

 私がまだ小学校低学年の頃、精神科医であった父が、 時々好んでする話がありました。父は面白そうに言ったものです。

「ある人が、誰かのお葬式に行くとするよね。 それで、遺族の人と会って、『ご愁傷様です』と言うつもりが、『おめでとうございます』と言ってしまう。 なんでだろう」

 たぶん不思議そうな顔をしていた私に、満足気に彼は続けました。

「それはね、『おめでとう』と言った人の心の中に、 その人が死んでよかった、っていう気持ちがあるからなんだ。その人は、自分の気持ちに気付いてないし、『そんなこと絶対ない』と言う。本当にその人の死を悲しんでる。でもね、こころのどこかで、『必ず』、 その人には、『死んでよかった』という気持ちがあるんだよ」

もちろん、小学校低学年の私にそんな話は信じられず、「そんなわけないじゃん」というような反応をしていた気がするのですが、なんだか印象的な話だったので、覚えています(それにしても、10歳にも満たない子供にそういう話をしていた父が今思うと不思議です) 。


 それが、フロイトの、無意識の世界の話であり、父は「フロイト的失言」(Freudian slip)について話していたのだと 知ったのは、ずっと後になってからのことでした。

「フロイト的失言」とは、よくある言い間違いを言いますが、言い間違いによって私たちは思わずその本心や、無意識の願望などを表現してしまっているのです。これは、我々の「無意識」の 構造と関係しています。

 人間には、様々な欲求や願望があるわけだけれど、その多くは、実際に意識したくないことだったり、 意識することが不快であったり、自己イメージやその人の道徳感と相反するものであったり、あまりにも心にとって脅威であったり、 意識してしまう事で様々な不都合が生じたりします。たとえば大親友の恋人を心の奥底では好きだったり、命の恩人に実は強い怒りを持っていたり。

 そういう種類の 思いは、意識の隅へと抑制(Supression)されたり、無意識の世界へと、抑圧(Repression) されます。 

 意識できない事で、心の平安や心の平衡状態が保たれるからです。


 しかし、抑圧された感情や思いは、いつでも そのはけ口を捜していて、表現されることを望んでいます。

 実際、抑圧された感情があまりに強かったり、 多かったりすると、人間は精神に支障を来たしたりします。 そういうわけで、直接意識できない感情も、なんらかの 形をとって、表現されることが必要なのです(脚注1)。「妥協形成」といいます。

 いずれにしても、無意識に抑圧された思いは、 自分のこころにとって、より受け入れやすい 形をとって、間接的に、表現されます。

 フロイト的失言とはつまり、無意識的な本心だけれど、ダイレクトに口に出す訳にはいかなかったり、そこに葛藤があったので、「言い間違え」と言う形をとって 表現されるという現象です。

 これは、あなたも直感的に知っていることかもしれません。たとえば、新しい恋人同士のSexの最中に、 どちらかが、今している相手ではない、他のひとの名前を間違えて呼んでしまう事が、 この恋人達の関係においてどれだけ破壊的かに ついて考えてみると、理解しやすいかもしれません。「ごめん。ただ言い間違えただけだよ」では済まされませんね。

 なぜ、それが二人の関係にダメージを与えるか。 それは、言い間違えた相手の頭の中に、別のひとの ことがあることを、我々は直感的に知っているからです。もちろん、いい間違えた本人にすら、どうして間違えたのか、心当たりないことは良くあります。でも、 「全然想ってないのに言い間違えちゃった、なんでかな」と 言ったところで、無意識には何かあるわけです(もっと可愛い例で、小さな子供が、優しくしてくれる、ママの姉妹を、間違えて「ママ」と言ってしまうようなものもありますね。ところでこの場合は、葛藤ではなく、「優しい大人のひと」を無意識に「母親」と錯覚している可能性のほうが高いです)。

 言い間違えまでいかなくても、人は、本心と違うことや、葛藤を抱いていることを言おうとすると、口ごもって しまったり、つっかえたり、どもってしまったりするので、 その人の心の中に何かあるのはわかります。

 人間は、とても敏感な、社会的な生き物で、常に多かれ少なかれ相手に気を遣って生きています。それで、「こういったらこの人
傷つく」とか、「こういったら角が立つ」とかいった、 微妙な物事は、それが本心であっても、しばしば私たちは言及しないでいます。

 しかし、そういう風に気を遣っていても、人間不完全なもので、いつかはこうした言い間違えなどで、表現されてしまうわけです。ここで、相手の無意識へと抑圧された感情や、 意識の隅へと抑制(Supression)された想いに対して、 攻撃したり、非難しても、それはあまり意味がありません。なぜならその人は、相手に気を遣っていたために言えなかったり、感じることさえできなかったことが考えられるからです。

 そこで、必要以上に相手の本心について懐疑的にならないで、「ああ、なにか葛藤があるのかな」ぐらいの気持ちで、そういうものを可能性 として考慮に入れたうえで付き合っていくのがいいかもしれません。

 相手の言い間違えに対して全く無頓着だったり、気付かなかったりするのは、相手の無意識のメッセージかもしれない大切な情報を
逃しているわけで、問題だけれど、言い間違えに過剰反応したり、過剰に解釈や訳を加えてみるのもまた考えものです。

 それから私たちは、他者の「無意識に存在する何か」は感じたり、察したりできても、それが具体的に何なのかは、完全には分かりません。たとえば、先程の昔の恋人の名前を言い間違えて 呼ぶことにしても、その昔の相手が好きだから言い間違えたのかは、誰にも解りません。また、まだ付き合いは浅いけれど、そのかつての恋人と経験したレベルの親密さをあなたと経験していたから、その親密さと深くつながっていた昔の恋人の名前がでてきてしまった、とも考えられるわけです(脚注2)

 それと、もう一つ大事なのは、言い間違えには、「フロイト的失言」以外の可能性もあるということで、 たとえば、似たような発音の言葉(トイレとトレイ、筆と腕。コップとモップ。うさぎとうなぎ・・・)とか、同一系統の物事や概念(塩と胡椒。フォークとスプーン。紙と鉛筆。)は、脳の言語野の、隣接したところに 記憶されているから、単純な、脳の検索ミス、ということも大いに有り得ることは、様々な研究で支持されていることです。

 以上のことを踏まえたうえで、言い間違えの心理、「フロイト的失言」に ついて覚えておくと、却って人間関係がスムーズになることも少なくありません。

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脚注1) 原因不明の頭痛や、腹痛や、腰痛や、 発熱など、実際に身体的な問題として表現されたり することも多く、これはSomatizationと呼ばれる もので、抑圧された感情の身体化です。たとえば、心気症(Hypochondriasis)と呼ばれる病気は
これに関するものです。男性の、原因不明の勃起不全や、女性のオーガズムを感じられない問題なども、 こうした心理に基づくものが少なくありません。

脚注2) それから、付き合って間もない人が、その前の恋人のことがまだどこかでこころの中にあったとしても、それはとても自然なことです。あなたとの人間関係が深まることで、それは徐々に解消されていくことなので、気を楽にもって、察してあげるくらいがいいかもしれません。

(原文は2006年9月6日)


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認知のゆがみ その12 ラベリング、レッテル貼り (Labeling)

2014-03-08 | プチ臨床心理学

 「あいつは馬鹿だ」とか、「私は負け組」とか、「これだからゆとりは」とか、「俺はどうせニートだし」、とか、人はしばしば自分や他人に何か特定のネガティブで固定した概念を当てはめて、その狭い概念を通してしか考えられなくなってしまいます。これが他人に向けば、人格攻撃になるし、自分に向けば、自虐、自己卑下になります。このように、あなたが何かしらネガティブで固定したラベルを他者やあなた自身に貼り付けてしまい、その人が持っているいろいろなポジティブなものを見ることができない認知のゆがみを「ラベリング」とか、「レッテル貼り」と呼びます。これは、以前紹介した「一般化」(Overgeneralization)のさらに極端な例で、たとえば、誰かのあるひとつの行動を、その人の人格に当てはめてしまったりするものですが、そのとき人は、そのひとの置かれていた環境や、外的状況などを考慮にいれることをしません。

 たとえば誰かがどこか入りやすそうな会社の入社試験に落ちたときに、その周りのひとが、「あいつは駄目だ」、とか「あいつは馬鹿だ」とか決めつけてしまうもので、しかしその人は、試験直前に身内に不幸があって、夜も眠れず、最悪な精神状態で、試験中も頭が真っ白だった、という場合だってあるのです。あるいは、長年付き合っていた恋人との破局の直後だったかもしれないし、インフルエンザで熱もあり、体調は最悪で、全然集中できなかったのかもしれません。

 「私のいとこの彼氏は負け犬よ」、と言うひとは、その彼氏が実は持っている、いろいろな良い面を認識することができません。いとこの彼氏という人格を、「負け犬」の一言に削減してしまうようなラベリングを還元主義(Reductionism)と呼びますが、これは本来複雑な対象を、過度に簡素化してしまう思考法で、レッテル貼りをしてしまったそのときから、その対象との間に良いものは生まれません。ある教育世代の人たちをひとくくりに「ゆとり」と呼ぶのも、高校を卒業してあらゆる理由で大学に進学しなかった、あるいは中退した人を「高卒」と呼ぶのも、様々な理由で現在教育や就労や訓練に従事していない人を「ニート」と呼ぶのも、こうしたレッテル貼りの還元主義の現れです。以前書いた記事「他人化」(Othering)の心理がこれに当たります。ステレオタイプの心理です。

 レッテル貼りの最大の問題は、本来存在している外的な要素を無視したり否定したりすることで、その人を間違った方向に決めつけてしまうことです。残念ながら、これは日本人の間に非常によく見られる認知のゆがみで、実際、日本社会はこうした様々な「レッテル」で溢れています。お分かりのように、このレッテル貼りが自分自身に向いたとき、ひとは自己卑下や、低い自己評価、うつ、不安など好ましくない精神状態に陥ります。

 この間受けたTOEICの得点がいまいちだった、勉強したのに、私は馬鹿なんだ。と思ったら、ちょっと立ち止まってください。世の中に、「馬鹿」という人は存在しません。それは、勉強の仕方に問題があったのかもしれないし、勉強時間が足りなかったのかもしれないし、試験前に何か不快なことがあって、集中力がいまいちだったのかもしれませんし、他に何か理由があるかもしれません。「あなたのひとつの行動や、結果」と、「あなたの人格」は、別のものです。また、あなたが「馬鹿」であることと相反する事実は、ゆっくり探してみれば、いろいろ見つかるはずです。次にあなたが他者やあなた自身を何かネガティブな固定概念で呼び始めたら、注意してみてください。ラベリングしたその瞬間から、その認知を修正するまで、対象は固定化されてしまい、それでは何も変わらず、良いものは生まれません。