興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

アメリカの仔犬は甘えない?

2006-12-02 | プチ臨床心理学
先日、教育分析の待合室で土井の
「甘えの構想」を読んでいてると
そこには面白いエピソードが出てきた。


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土井が、「甘えは日本文化固有のものだ」と
いう洞察を彼の中で暖めていた時に、
当時の彼の師にその考えを投げかけると、
師は怪訝そうに、

「でも君、子犬だって甘えるよ」

と言ったという。

しかし土井は、師にすら分からないくらい
「甘え」は日本文化に浸透しているのだと
思い、甘え日本文化固有説について
さらなる確信を得たという。


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カウンセリングルームのドアが開き、
出てきた師を見た瞬間、自分は彼に

「先生、『仔犬が甘える』って
 英語でどのように表現しますか」

という疑問を投げかけてみた。彼の
答えは分かっていたけれど、なんとなく
聞いてみたかったのだ。

日系人の彼は、予想通りのことを言った。

「う~ん。なんていうだろうねぇ。
 『なんてかわいいパピーなの』とか。
 英語ではやっぱり(甘える)とは
 言わないだろうね」

「やっぱりね。面白いですよね。
 今、土井の『甘えの構造』読んでたんです。
 でも、不思議じゃないですか。仔犬が
 人間にじゃれ付いてるのを見て、日本人は
 すぐに『あ~甘えてる』と言うけれど
 アメリカ人は、絶対言いませんよね。
 そんな表現がない。

 『かわいい』とか、『フレンドリーだね』
 とか、『この子あなたのことが好きなんだね』
 とかいろいろな表現があるけれど、あの
 現象を見て、甘えているって思わない。

 でもそれは、アメリカの仔犬が甘えないわけでも
 ないし、アメリカ人と日本人で、全く同じ
 現象をみて、全く異なった解釈をしている
 訳ですよね。それとも、アメリカ人にも、
 『仔犬が甘えてる』という感覚はあるけれど
 それに該当する言語がないだけですか」

「いや、言語がないということは、やっぱり
 そういう概念がないということだろうね。 
 アメリカ人と日本人は、同じものをみている
 けれど、二つの異なった現実を見ている」

「どちらの現実も本当なんですよね?
 面白いですよね。二人は全く同じものに
 違う現実を見ているけれど、かわいい
 仔犬が人になついているという現象を
 共有してその場を楽しむことはできる」


普段私たち日本人が何気なく使っている「甘え」
と言う言葉が、日本文化独特であり、土井の
研究以来、「Amae」という国際語ができて、
世界中の文化人類学者や心理学者や言語学者などに
よって研究され続けているというのは、考えれば
考えるほど不思議なことだと思う。

「甘え」という概念を、日本人はしばしば、
「未成熟」とか、「自立できていない」とか
「幼稚」と言った、何かしらネガティブな
ものとして捉える傾向にあるけれど、
実際のところ、甘えは日本人と日本社会に
とって必要不可欠なのもので、甘えゆえに
社会が円滑に動いているのもまた事実である。

「甘え」が人間関係や、社会の場で問題になって
くるのは、その人が甘えることができなかったり、
甘えることが苦手だったり、甘える相手を
間違えたりと、そこに何かしら精神病理が
絡んできたときである。甘えがその環境で
うまくいっているとき、その日本人は健康だし、
甘えの欲求が全く満たされないと、その人の
精神には支障が出始めてきたりする。

こういうことを言うと、「オレは甘えてない」
と言う日本人が必ず出てくるけど、甘えとは
例えばこういうことだ。

晩秋の冷え込んだ夜に、それほど親しくない
知人宅に呼ばれて訪ねたときに、

「何か温かいものいただけませんか」

と言うことなしに、以心伝心や暗黙の了解で、

「あぁ、寒かったでしょう。今温かいお茶を
 お淹れしますね」

と言って、冷え切った体が温まるものを出して
もらうのを暗に期待するのが甘えである。
さらに、着く頃合を見計らって、既に温かいものを
用意してくれていたりすると、我々は、相手に
気持ちを察してもらった気がして嬉しくなる。
気が利くなあと思ったりして、その人の心遣いに
嬉しくなる。

逆に、何も出てこなかったりすると、個人差は
あるにしても、我々日本人は、少し寂しかったり
残念に思ったりするのではないだろうか。

でも、アメリカ人は、アメリカ人宅へ行ったら、
欲しいものは欲しいと自分から言うことに
なっている。欲しいと言わないのは、欲しくないから
だという「暗黙の了解」があるのではないかと
思うくらい、直接の言語によるコミュニケーションが
大前提になっている。もちろん、愛情の細やかな
アメリカ人は、ゲストに対して自ら尋ねてきたり
するけれど、ここで、日本流に「遠慮」などすると、
相手には、「いらないんだ」と伝わる場合が多い。

「甘え」という現象には、必ず少なくとも二人の
人間が存在する。甘えを送信する側と、甘えを
受信する側だ。そして、甘えを受信する側が
満たされるのと同時に、供給する側も、自分の
行為が相手に受け入れられた、喜ばれたと言う風に
こころが満たされる。このように、甘えとはそこに
「送受信」が成立して初めて成立する。

逆に言うと、例えば、送信された甘えを、受信側が
ウェルカムに思わなかったら、それは「お節介」に
なってしまうし、受信側の甘えの必要性を、送信側が
拒んだり、気付かなかったりすると、受信側は
拒絶などを感じ、傷ついたり寂しくなったりする。

このような甘えの送受信は、会社をはじめとする、
大人の世界のありとあらゆる日本社会に存在する
わけで、日本人は、生涯を通して甘えを経験すると
言われている。実際、日本人の精神世界やその心性は
「甘え」の概念なしには語りえないし、日本人の
精神分析には、その人の甘えニーズの理解が必要だと思う。




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「甘え」について書きたいことはたくさんあるので
これからまたしばしば書いていくかもしれません。
ご意見、ご感想など、お気軽にお聞かせください。