興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

Theory of Mindful Space~こころの境界線1

2006-07-13 | プチ臨床心理学

以前Domestic Violence(家庭内暴力、DV)のリサーチを
している時に、Burlaeという、恐らくフェミニストの
心理学者の論文で、"Theory of Mindful Space"というものを
たまたま見つけました。

自分が当時リサーチしていた内容とは直接は関係して
いなかったので使わなかったのだれど、タイトルと、
Abstract(要約)に、なぜかとても引かれるものが
あったので、とりあえず入手して、寝かせておきました。

ずっと頭の片隅にあったのだけれど、最近夏休みに入り、
いろいろ書類を整理していたらこれが出てきたので、
ついに読みました。

アメリカのDVにおける研究の殆んどは、女性が、男性の
パートナーから受ける、精神的、肉体的、また、性的な
虐待におけるもので、実際のアンケートやリポート等からの
Dataによるものが主なので、この、とても哲学的で抽象的な
論文は、なんだか異彩を放っています。

とても含蓄があって、面白い内容だと思うので、
ちょっと紹介してみます。


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この論文は、基本的に、フェミニストのPerspectiveを
取っています。また、BurlaeのこのTheoryは、DVの、
Prevention(防止)に重点を置いているのが特徴的です。

この理論によると、あらゆる暴力とは、自然に起こりうる
もので、自然界のバランスが崩れた状態としています。
つまり、暴力とは、私たち一人一人が持っているスペースに
対する、外部からの侵入、または侵略、もしくは、Captivity
(とらわれの状態)であると見ることが出来ます。

このスペースには、3種類あり、1)Bodily Space 
2)Personal Space 3)Cognitive Spaceがそれです。

1は、文字通り、その個人がもつ、肉体そのもののレベルの
スペースです。レイプなどの、性暴力で、女性の体の中に
直接外部からInvadeしてくるものがこれにあたります。

ナイフで刺されたときなどもこれです。もっと微妙な
レベルでは、ある人が、望んでいない誰かから、
腕を捕まれたり、肩を叩かれたり、抱きつかれたり、
と言うのもあります。そのような行為も、この理論に
よると、暴力に該当します。

2は、パーソナルスペースの侵入です。日本は満員電車や
多くの会社の状況などで、常にパーソナルスペース侵されて
いる、ある意味とても特殊な社会です。

3は、言葉の暴力(意図的なものと意図的でないものと
あります)や、性差別的なプレッシャーなど、認知や、
気持ちのレベルでの侵入です。

どこかに軟禁されたり、また、経済的な理由などに
つけ込まれて、他へ行きたくてもいけない状態も、
これらに含まれます。

著者は、女性が、これらのマインドフル・スペースが
誰かから何らかの形によって侵される前兆をいち早く
キャッチして、Limit Setting(限界設定)をすることで、
危害を事前に防いだり、最小限にとどめることが可能だと
しています。

この、前兆とは、なんか変だな、いつもと違うな、
というような、小さな変化だったりします。

Mindful Spaceの理論は、従来のDVの定義をより包括的に
することにより、暴力が暴力としての形をとる前の段階から
将来の可能性としてのDVを予期し、防止します。

ある男性から食事に誘われ、「なにか嫌だなあ」とか、
「なんとなく気が進まないなあ」というFeelingなども
実は、マインドフル・スペースが侵されていることの
サインなのです。

この、内面から来る、違和感というものを尊重して、
断ったり、NOといったり、限界設定をすることが暴力から
身を守る第一歩だと著者は言っています。

私が面白いと思ったのは、この著者が、暴力を
スペースの侵害としてとらえていろところです。
確かに、暴力は、あらゆる意味で、スペースが
侵害された状態と解釈できます。

Boundariesというコンセプトもそうだけれど、
人間は共同生活のなかで、お互いの境界線というものを
尊重することって本当に大切だと思います。

境界線とは、ただ単に物理的なスペースだけでなく、
こころのスペースも意味します。

最近、日本では、子が親を殺すという事件が相次いでいます。
私が気になるのは、加害者の人々が、口をそろえて、
「自分には家に居場所がなかった」と言っているところです。
彼らのいう「居場所」とは、決して、単なる誰も入って
こない、快適な部屋を意味しているのではないでしょう。

「居場所」とは、その人がそこにいていいのだという、
暗黙の、Acceptance(認めること)だと思います。
お互いの人権や境界線の守られた、生きていて安心の出来る、
物理的な空間を越えた「場所」です。

最近の日本では、そういう「安心できる場所」がない、
という人々が増えていっているように思えて仕方がないの
です。

誰かが誰かの境界線を飛び越えたときに、争いは生じます。
親や、環境から、常に境界線を侵されて育った人たちが
深刻なこころの問題を持つことになるのもある意味では
このためでしょう。