興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #3

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

(前回の続き)

世の中、NPDの人からどうやって離れるか、絶縁するか、距離を置くか、という指南書は無数に存在します。

しかし、NPDを抱える当事者のための、改善や克服について、また、NPDを持つ人とどうやって共に生きていくかについて書かれた本はあまり多くありません。大抵は、「その人NPDで治らないから離れましょう」的なメッセージです。

確かにある種のNPDの人たちからモラハラに遭っていたり、暴言や暴力に晒されて生きている人たちは、彼らから離れたりうまく距離を置く必要があります。

しかし同時に気がかりなのは、世の多くの「専門家」の方たちが、NPDを悪魔化(demonize)して、自分たちとは異質の人間であるとして、切り捨てていることです。

NPDを含む「人格障害」(パーソナリティ障害、personality disorder)は元々精神分析学の概念であり、日本を含む多くの国の精神医療で使われているアメリカ精神医学会が出版している精神疾患の診断基準DSM(現在はDSM-5、第5版)でも第2版ぐらいまでは精神分析学のカラーが顕著です。第4版の頃には学派などの「偏り」のないニュートラルな内容になりました。

そういうわけで、DSMの診断基準(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth edition, DSM-5)ではNPDはどのように定義づけられているのか見てみましょう。以下がその診断基準です。

ちなみに、DSMの「操作的診断基準」の診断は、簡単に見えますが、正しく診断するためには、深い専門的知識や臨床経験、トレーニングが必要ですので、見た目ほど簡単にできるものではありません。ここでは割愛していますが、年齢だったり、除外事項であったり、実際にはいろいろな精査が必要です。

さて、DSM-5によるNPDの診断基準は以下のようになっています:


「1)(自我の)誇大性,2)賞賛の要求,および3)共感の欠如の持続的なパターン」とあります。

大事なことですので、少しかみ砕いて説明します。

まず、「誇大性」ですが、これは、自分は特別な人間だとか、自分は何でもできるとか、自分の容姿が特別に優れているとか、インフレ気味の自己肯定感があり、文字通り、自我が誇大化している状態です。

2)の賞賛の欲求は、1)とも関連が深いですが、文字通り、他者から賞賛されたり注目されたり羨まれたりすることに対する尋常でない欲求です。過度の承認欲求と言ってもよいでしょう。

3)ですが、これもNPDの大きな特徴です。ここでいう共感とは、一般語として使われている、「共鳴」とか「同一視」とかとは異なるので注意が必要です。

ここでいう共感は、「相手の立場に立って感じたり考えたり想像したりする能力」のことです。「俺、共感力半端ない」とか言っていて、共感性が実は非常に低いNPDの方は結構多いです。

例えばこういう人がサッカーの試合を見ていて選手に同化し過ぎて苦しくなってしまったりするのですが、それは自分自身をその選手に「投影」して「同一視」して「共鳴」しているに過ぎず、実際にその選手の気持ちや立場が正確に理解できてはいなかったりします。

映画や小説などが大好きで、「感動しやすい」けれど共感性は低い、という方は多いですが、こういう人は、よく泣いたりして、本人も周りの人も、共感力強めな人、と思いがちです。

つまり、ここでいう共感とは、どれだけ自分の立ち位置や視点から出られるか、自分という中心から脱して他者の立場に立てるか、という話であり、自我が誇大化していて他者からの賞賛されることや社会的な成功にばかり意識がいっている人が、他者の立場に立って感じたり考えたりすることができないことは、自然な流れです。

これは文字通り「自己中心性」(ego-centricity, self-centered)の表れであり、自分が中心に地球が回っていると錯覚している人であり、自己愛が強ければ強いほど、自己中心性も強くなり、自分の中心からでることが困難になるため、これらと共感性の強さは反比例の関係にあります。

人間には、幼児期に抱き、多かれ少なかれほとんどの人が克服する、精神発達上自然な流れである「一次性自己愛」(primary narcissism)と、家庭環境や養育者との親子関係などにおける深い傷つきなどで、自己肯定感が持てず、低い自己評価に苦しむ子が、こうした脆弱性を覆い隠すために、防衛的に作り上げた、「二次性自己愛」(secondary narcissism)、防衛的自己愛(defensive narcissism)があります。

自己愛性パーソナリティ障害の人の自己愛は、後者の二次性自己愛です。ちなみに、自閉症スペクトラム症(ASD)の人たちが抱える自己中心性や共感性の問題は、一時性自己愛が非定型発達のためうまく克服できていない状態です。

(ここで誤解のないように強調しておきたいのは、ASDの人たちが一次性自己愛の克服に問題があった、ということで、「定型発達」の人たちに比べて劣っている、ということでは決してないということです。この世の80パーセントの人間の能力の総量というものは、たいして変わりません。つまり、何かが人と比べて弱いというのは、多くの場合、別の何かは人と比べて強い、ということです。実際、高機能自閉症を持っていて、あらゆる分野の第一線で活躍している人たちはたくさんいます)

つまり、自己愛性パーソナリティ障害の人たちは、一次性自己愛は通常克服しているけれど、新たに強い自己愛を作る必要があった人達です。その証拠に、NPDの人たちは、例えば自分の目的を満たすためには、一時的に、表層的に、「共感性」を使うことができます。

ASDの人たちは単純に自分の立ち位置から出ることが難しいために相手の立場に立つことが難しいのです。この二者は治療現場でも誤診が多いですが、多くの場合、ASDの人たちにはNPDの人たちのような自己誇大性、尊大さや傲慢さ、攻撃性、悪意などがありません。

NPDの人たちは、「自分のニーズの方が相手のニーズよりも大事である」という心性により、いわば、相手の立場に立ちたくない、立とうとしない、つまり、共感性を使わない、使いたくない、という状態ですが、一方で、ASDの人たちは、単純に、自分の立ち位置から出て自分や相手を観察する「脱中心化」がうまくできないために共感することが難しいという事情があります。

そのため、一見するとこの二者はとても似ていたりしますが、問題の出どころは大きく異なります。私のところにも、他所で誤った診察を受けた方がたくさんいらっしゃいます。とはいっても、ASDとNPDの両方も持っている人も時々いるので、一概にこれらの二分法が成り立つわけでもありません。

もうひとつ付け加えると、NPDの人と、ASDの人とでは、改善のプロセスが異なります。NPDの人たちの改善は、その自己愛の強さや性質を改善していくことで、相手の立場に立つ共感性をより抵抗なく使えるようになっていくことや、共感性を強化していくことです。

一方で、ASDの方の場合、共感能力そのものに問題を抱えているので、異なった戦略をとる必要があります。

たとえばAという状況で対人関係の問題が生じて反省すると、彼らはAという全く同じ過ちを繰り返すことはなくなっていきますが、A´(ダッシュ)、A´´(2ダッシュ)という微妙に異なるバリエーションは、健常者にとっては「同じ問題」ですが、彼らにとっては同じではなくて、「別の問題」としてみなされるので、自己愛性パーソナリティの人たちのように「応用」ができません。

それで、治療戦略としては、とにかくどんどん彼らの対人関係の対処策の引き出しを増やしていく、というやり方です。引き出しがたくさんあればあるほど、対人関係はスムーズになっていきます。彼らの多くは素直で協力的な人たちなので、「治療同盟」ができると、どんどん引き出しを増やしていけます。

このように言うと、NPDの人たちの方が伸びしろがあり治療がしやすそうだ、と思われるかもしれませんが、一切はそうでもありません。NPDの人たちの他責性や、自分が正しいと思う心性はとても強いので、「間違っていない自分が変わること」にはそもそも強い抵抗感があるので、その抵抗感を緩和していく作業にもかなりの時間と根気が必要です。

一方で、高機能自閉症の人たちは、防衛的自己愛の問題は抱えていないことに加えて、学習能力自体は高い方が多いですし、記憶力も優れている方が多いので、引き出しは無限に増やしていけたりします。

本当に大変なケースは、NPDとASDが併発している人たちです。

さて、こうした3つのパターンは,以下のような症状として現れます。以下のうちの5つ以上が認められることによって、NPDの診断が付きます:

 

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自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #2

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

(前回の続き)

自己愛性パーソナリティ関連のコンテンツは、SNSやブログ、ネット記事や書籍などでも扱われることが多いですが、それはそれだけNPDが多くの人々の人間関係の中で問題になっていることの表れだと思います。

例えば、かつては「熱血漢」とか「とても厳しい人」とか「難しい人」とか「怖い人」とか「思いやりのない人」とか「自分大好きな人」とか「自己中心的で自分のことしか考えていない人」などと片付けられていた人たちですが、社会の意識が高まった事で、例えば部活動の体罰やあおり運転という名の傷害事件、モラハラ、パワハラ、アカハラ、カスハラなどのあらゆるハラスメント、また、こうした「ハラ」の人たちが激昂した成り行きによる事件など、NPDの傾向の強い人達は以前よりもずっと多く新聞の三面記事でよく見かけるようになりました。最近はある高校の女生徒が部活の先生から顔を殴られて顎が外れたまま放置されていた痛ましい事件などが新鮮です。池袋で起きた、高齢者による暴走事件も、これに該当すると思われます。

もっとも、こうした人目を引くような事件に発展する人たちよりも、そうでないNPDの人たちのほうが遥かにたくさんいるのも事実であり、これから話しますが、NPDにも様々な深刻度があり、これは程度問題であるので、診断が付くほどではないけれどグレーゾーンで「困った人」は、実はどの社会にもどのコミュニティにも一定数遍在します。このグレーゾーンに該当する人はとても多く、それが相手の自己愛の問題であると気付かずにその対人関係にストレスを感じて悩み続けている方は多いです。

たとえば、自分の利益や都合のために、相手によって態度を変える人(例えば部下には厳しく上司には媚びを売っている人、店員さんに対しては態度の悪い人、など)、「わが子のためなら」と、社会や周りの人達に無自覚に犠牲を強いる人たちも、自己愛に問題のある人たちです。

「わが子のために」という大義名分を掲げて周りに犠牲を強いている人たちは要注意です。なぜなら「わが子」はその人の自己愛の延長(narcissistic extension)であり、自分と同一視したわが子への投資は--少なくとも進化心理学的、精神分析学的、生物学的には--本質的には自己投資であるからです。それ自体は至極当然のことであり、何の問題もありません。あらゆる他の生物がそうであるように、人間にしてもそれはあるべき姿です。

問題なのは、そうした親御さんのわが子への同一視が強すぎる、過剰同一視(over-identification)のケースです。自分がわが子に投資するのは、自分の自己愛の作用であり、本質的には自己中心的なことであると自覚がある方は健全です。そうした自己愛や自己中心性に気づかないで、「子供のために自分を犠牲にする」、「自己犠牲」の自分に酔ってしまっている人たちは、他人の子供を含めた、周りの人間を犠牲にしてでもわが子の利益を追求します。他人の子より自分の子の方が大切であるのは当たり前です。それでも世の中の多くの人、つまり健全な自己愛の人たちは、よその子や周りの人への配慮を怠ることはありません。わが子が第一で良いんです。そうすべきです。他者に対する配慮や思いやりや一般常識を保ちながら。それができていない例はたくさんありますが、たとえば、レストランなどで自分の子供が駆け回ったり大声を出しているのを放置して、他のお客さんにその子が注意されたら、「うちの家庭の教育方針に口を出さないでください」などと逆上する人たちの自己愛は深刻です。こうした人たちの病的な自己愛は、残念ながら、自分の子供に対しても無自覚のうちに出てしまっていて、子供を傷つけているのですが、こうした人たちはそれにも気づきません。こうして自己愛の問題は世代間伝達されていく傾向にあります。

このように、診断は付かないかもしれないけれど自己愛の強い人たちは世の中に遍在します。

しかし同時に私が気がかりなのは、NPDなど特定の精神疾患の概念が独り歩きを始め、人々がこうした「診断名」を不正確で乱暴に使い、誰かを切り捨てることです。

まず、「人格障害は治らない」というのは、多くの人が信じている誤解です。

確かにあらゆる人格というのは長年かけてできたものであり、本人の相当な根気と努力がなくては治りません。

しかしこれは逆に言うと、本人の相当な根気と努力によって改善しますし、治る方もたくさんいます。実際にかつてNPDの診断基準を満たしていた多くの方の改善に伴走し、こうした方たちのNPD克服を目撃してきた私が言うのだから、間違いはないと思います。

人格障害は大幅に改善しますし、治る方もたくさんいます。

とは言っても、NPDの方たちが自発的に心理カウンセリングを受けにお越しになることはなかなかありません。なぜならNPDをもつ人たちは、常に自分だ正しいと思っていますし、自分が正しい、という立ち位置に固定されているので、対人関係の問題が生じると、自分は悪くないので、相対的に、相手が悪いことになります。通常病識は希薄であり、問題意識がありません。悪いのは自分ではなく他者なのだから、どうして自分がカウンセリングへいかないといけないのか、という考え方です。

こうしたわけで、大抵は、配偶者から最後通告を受けたとか、配偶者が子供を連れて出ていったとか、この問題を治さないと職場を追われるとか、「好ましくない外的要因」によっていらっしゃいます。

そして、せっかくカウンセリングに来ても、長続きしない方は残念ながらたくさんいます。

なぜなら、彼らの強い自己愛や肥大化した自己肯定感は、彼らの本質的な脆弱性や打たれ弱さを保護して覆い隠すものなのであり、その本質に触れられることを彼らはとても恐れているからです。

本当はとても傷つきやすく、被害的で、恥などの感情を感じやすいです。

それは多くの場合、彼らにとっても無意識であり、無自覚なことです。

彼らは自分が恥を感じていることすら気づかないかもしれません。

代わりに彼らはその状況にはそぐわないような怒りを表出します。専門的には自己愛憤怒(narcissistic rage)と呼ばれるもので、怒りという「第二感情」を爆発させることで、本来の感情である恥や悲しみ、恐怖などから意識をそらし、それらの感情を覆い隠します。いわゆる彼らの逆鱗であり、地雷ポイントです。

彼らは自分の劣等コンプレックスや脆弱性を意識しないように非常に用心深いですし、とにかく意識したくないものなので、カウンセリングで、こちらが直面化などのテクニックを避けて、共感的に接していても、そうした内的な脅威は感じやすく、それは彼らにとって極めて不安で不快で耐え難いものなので、いろいろとやめる理由をつけて合理化して勝手に来なくなってしまう人も少なくありません。とにもかくにもプライドが高いのです。

彼らが自分たちの本質と向き合わない限りNPDの大きな改善は望めないですし、遅かれ早あれ彼らは自分と向き合わなくてはなりません。

しかし本質的に傷つきやすく、侮辱や羞恥心を非常に感じやすい彼らがこれらの気持ちを感じないように、また、これらの気持ちに対して少しずつ耐性を作りながら進めていくカウンセリングはある種の名人芸であり、一般的な精神疾患とは別次元の、格段に高い臨床スキルが要求されます。

ただ、こうしたセラピストという「他者」の首尾一貫性や共感性は本来彼らが主要な養育者から受ける必要があったことであり、それが経験できず、本当はずっと求めていたことなので、一度強い治療関係が構築されると、それが中断になることはなかなかありません。

(続く。全文をお読みになりたい方は、こちらから)


自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #1

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

【この記事をお読みになる前に】

この記事の目的は、自己愛性パーソナリティや自閉症スペクトラム症といった診断をすることではありません。精神疾患の診断は、精神医療の専門家が、ご本人にお会いして時間を掛けて慎重に行っていくものです。

この記事の目的は、ご本人またはそのご家族やパートナー、お仕事などで深い関わりのある方たちが、当事者意識をもって、こうした精神疾患について理解を深めることで、差別や偏見を超えて、どうにかお互い幸せに共存していくか、それが非現実的であれば、どのように、互いに傷つけあうことなく距離を置くか、離れていくか、読者の皆さんと共に考えていくことにあります。

あらゆる精神疾患がそうですが、そこにはひとつの正しい対処法など存在しません。何が正しいかは、状況によって変化しますし、柔軟性をもって臨機応変に対応していくことが大切です。そこで大事なのが、相手がどのような性質を持っていて、どのようなこころの成り立ち方をしていて、どのように外界を解釈しているのかについて理解を深めていくことです。

他者がある状況をどのように解釈して行動に出ているのか理解できますと、我々はその行動を我々の尺度や価値観を使って限定的に解釈する、という、負の連鎖を防ぐことができます。

これは、一種のメタ認知力、メタコミュニケーション能力ですが、メタ認知力に問題を抱えたNPDやASDといった課題を抱えた人達に巻き込まれ過ぎずに適度な距離をもって関わっていくための、高度なメタ認知力、メタコミュニケーション能力の獲得への挑戦でもあります。

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自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、Narcissistic Personality Disorder、本記事では以後NPDと表記します)と聞くと、皆さん、どのような人物像を思い浮かべるでしょうか? この語彙は、ひどく否定的な響きがありますね。

そもそも自己愛(narcissism)とは何でしょうか? 

それは平たくいうと「自分を大事に思う心性」であり、これは人間誰しも持っています。持っていない人間はいません。

それはたとえ自暴自棄になっている人でも、自分を傷つけている人でもそうです。

「セルフ・ネグレクト」に陥っている人にも自己愛はあります。

自虐的になっている人も、自分を酷く扱うように自己愛が作用しています。

自分の顔が嫌いで整形をしたいと思っている人も、その人にそう思わせているのは自己愛の作用です。

子供のためにすべてを犠牲にしている、「自己犠牲的な親」の心性や言動にも、強い自己愛が関与しています。これは後ほど詳しく述べます。

このように、自画自賛に酔いしれる人も、自意識に苛まれて生活に支障をきたしている人も、自己愛の課題を抱えています。

自己愛とは、もともと精神分析学の概念であり、自己愛について最初に系統立てて理論を展開したのは精神分析学の創始者であるフロイトです。

とはいっても、ここに精神分析学の有名な言葉があります。

「フロイトは、精神分析学の世界において最初に言葉を発した人間であるけれど、最後に発言する人ではない」、というものです。

実際、自己愛に対する考え方は精神分析学の中でも時代と共に変容していくもので、殊に自己心理学(self psychology)のコフートによる「健全な自己愛」(healthy narcissism)の提唱以降、その流れは大きく変わりました。

かつてフロイトは、自己愛とは未熟な人格の表れであり、人間は自己愛を完全に克服して対象愛に変えなくてはならない、と主張していたようで、現在でも、フロイトの理論に直接的に流れを汲む自我心理学派(ego psychology) の分析家達は、そのように信じています。

フロイトは天才であり、超人であったので、その境地に達することができたのかもしれませんが、それはとてつもなく厳しくて非現実的な目標です。

ただ、たとえ人が完全にその境地にたどり着くことはないとしても、自己愛から対象愛へ、という流れは、人格の成熟の過程であることは確かですし、ひとりの人間が生涯を通して目指し続ける理念としては大いに意味のあることだと思います。

仏教の悟りや無我の境地、キリスト教のセルフレスネスも、こうした自己愛の超越の表れであり、実際にそこに到達できる人は、全人口のごくわずかですが、存在するかもしれません。「極めて健全な自己愛」は、無我の境地やセルフレスの近似なのかもしれません。イコールではないとしても、限りない近似です。宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』にも、こうしたテーマがあるように思います。

話がまた少し逸れましたので元に戻してまとめますと、自己心理学以降、現在に至るまでの精神分析学界の新しい流れでは、人が人として幸せに生きていくためには、程よい自己愛、つまり健全な自己愛は必要であり、自己愛を全て対象愛に変容させるなどそもそも不可能であり、目標にすべきことでもない、という立場です。自己愛そのものは、かつて考えられていたように未熟で幼稚な心性でもなければ、みっともないものでもありません。

健全な自己愛を認めた立場の精神分析学のひとつの目標は、自己愛の超越ではなくて、不健全な自己愛から健全な自己愛へ、未熟な共依存から成熟した相互依存の対人関係への変容です。

自己愛とは、人間が生きていくために必要なものであり、問題は自己愛そのものではなくて、その度合いや質的なところにあります。

 

(次回へ続く。全文をお読みになりたい方はこちらから)