興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

反応ではなく、応答する (Respond, not react !)

2015-07-10 | プチ臨床心理学

  人間関係のトラブルの元になることのひとつに、反応する(React)ということがあります。この「反応する」という行為は、しばしば、「対応する、応答する」(Respond)と区別して考えられます。

 たとえば、アメリカ人が、"She is so reactive." というのと、"She is so responsive."というのでは、意味はまるで違います。前者は明らかにネガティブで批判的な意味であるのに対し、後者は、とてもポジティブで、賞賛的な意見です。

 前者はどういうときに使われるかといえば、何かその人にとって好ましくない状況になったり、誰かに何か気に入らないことを言われたときに、反射的に、ネガティブで強い反応をする人がいたときですが、後者は、質問や、問題に対して、きちんと向き合って応答してくれる、(情緒)応答性が良い、というように、その人の安定した様子、責任感の強さ、高いソーシャルスキルなどを示唆した表現です。

 日本語には、こうした二者を端的に言い分ける言葉はありませんが、何かに対して「過剰に反応する」人、「反応の良い人」、「無反応な人」などと、「反応」と言う言葉が、いろいろな形容詞と組み合わさって、その人の様子を表現されます。 いずれにしても、冒頭の二者の基本的な違いは、reactが、(考えなしに)反射的に「反応している」のに対し、respond は、(相手の言動に対して一息ついて、それについて考えて) 対応している、というところです (脚注1) 。

 実際、レスポンス(response) する時には人間関係に何か建設的なことが起きる可能性が高いですが、リアクト(react) する時は、言い争いや破壊的なことが起こる可能性があります。

 例を挙げましょう。美香さんと和夫さんに登場していただきます。2人は夫婦生活4年目です。 まずはリアクトから。

和夫: 「言いにくいんだけどさ、ボーナス、思ったよりずっと少なかったんだ」

美香: 「え?! なんで?いくらだったの?!」

和夫: 「20万…」

美香: 「ちょっと! それは低過ぎない!? カードの返済どーすんのよ!」

和夫: 「そんなこと言ったって仕方ないだろ!貰えただけマシだろ!」

美香: 「何それ?! あなたが『夏のボーナスは期待して良いよ』って言ったからプリウス買ったんじゃない! 無責任なこと言わないでよ!」

和夫: 「落ち着けよ!こっちだって必死で働いてんだよ!」 (以下省略)


 なんだか心の痛むやりとりです。

 では次に、レスポンスについて見てみましょう。

和夫: 「言いにくいんだけどさ、ボーナス、思ったよりずっと少なかったんだ」

美香: 「いくらだったの?」

和夫: 「20万」

美香: 「それは確かにちょっと少ないね。困ったね」

和夫: 「うん、困ったことになったね」

美香: 「どうしよう、カードの返済」

和夫: 「そうなんだよね。俺が楽観的過ぎた。ごめん。プリウス買うのはもう少し後にすべきだったね」

美香: 「うーん。買っちゃったものは仕方ないよ。プリウス私好きだし。2人で決めたんじゃん」

和夫: 「ごめんな。しばらく飲み会とか服とか余計な出費抑えて節約するよ」

美香:「そうだね。私もいろいろ気をつける。大丈夫だよ。頑張ろう」

和夫: 「うん」

なんだか先程のやりとりとは驚くほど違いますね。お互い思いやっています。

この2つのやりとりの何が根本的に異なるのかと言えば、やはり美香さんの心の余裕です。

前者では美香さんがあまりの動揺で、相手の気持ちを考えずに反射的に自分の不安を和夫さんに投げかけています。その結果、和夫さんも動揺して、リアクティブになり、リアクティブの連鎖が起きています。

一方、後者では、美香さんは、和夫さんからのアンウェルカムな情報に驚くものの、まずは自分の感情をコントロールして、冷静に応えています。それで和夫さんも少しほっとして、心を開いて話し始めます。その後の美香さんの対応も、自分の気持ちを表現しながら相手を思いやるもので、それぞれが思慮深い、リスポンシヴなやりとりに展開していきます。

このように、相手の言動に対して、こみ上げてくる衝動や情動を見据えながらとりあえず傍らに置いて、一息ついて相手の気持ちも考慮して応答することから、難しい案件も、建設的に話し合える可能性が出てきます。


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(脚注1)ところでreactiveは、proactiveとも対照的に使わてたりします。これは、reactiveが、何かが起きた時にそれに対して行動する、という消極的な態度を示唆するのに対し、proactiveは、その何かが起こる前に、積極的、能動的に行動する、という意味合いを含みます。そのひとのクリエイティビティも示唆しています。


病的な教師の引き起こした悲劇

2015-07-10 | 戯言(たわごと、ざれごと)

 先日の、岩手県矢巾町の中学2年生の自殺は、本当にショッキングなものでした。

 何より無念に思うのは、彼の自殺は、担任の教師と校長の病理が致命的な原因であり、彼らがもし適切な対応をしていれば、防げていた可能性が極めて高かったことです。

 被害者の少年は、何度も何度も、交換日記と言う形で担任に訴えていました。中学2年生の男の子という、なかなかそういうことについて助けを求めにくい年頃の彼が、本当に心を開いて、担任と必死にコミュニケーションを取ろうとしていました。彼は本当に苦しかったのでしょう。

 そうした彼の必死のコミュニケーションを、彼の魂の叫びを、ことごとく無視し続けたのが、この担任教師です。私はいくつかのニュース記事を読みましたが、この2人の書簡によるやり取りを見ていて、吐き気にも似た嫌悪感を覚えました。彼女のその深刻な病理に。彼はクラスメイトからの酷いいじめについて、克明に書き続けますが、彼女はそれに無反応であるか、或いは、いじめのところだけ無視して、知らないふり、気付かないふりをして、空々しいコメントを続けていました。

 最初、私は、彼女のキャパシティが低く、いじめを認識していたものの、どうしていいかわからず、この生徒が現実的に自殺の可能性があることをなんとなく気づいていたものの、それがあまりに脅威であるため、無意識に追いやり、否認という防衛機制で、このような病的な平常心を保っていたものかと思いました。

 この可能性は大いにありますが、問題は、それだけではないということです。ある時、この生徒が、自分をいじめている生徒の名前を彼女に教えると書いたときに、なんとその言い方が気に入らなかったらしく、「上から目線ですね」とコメントしています。

 このやり取りから、彼女が単に精神力がないために、否認の防衛機制が働いていただけではないことが分かります。ここから、彼女のサディズムが見受けられます。つまり彼女は、いじめられて、今にも死にそうになっているこの少年の様子を認識しながら、それに対して何らかの対策を考えるどころか、それを冷酷に傍観し、無視するどころか、問題をすり替えて、少年を攻撃しています。ここには彼女のサディズムと、別次元の精神病理を感じます。いずれにしても、彼女の、教師として最低限必要である共感性が、著しく欠けていることが見受けられます。

 崖から今にも落ちそうで、その縁になんとか掴まって、助けてと訴えている少年を、彼女は安全圏に立ちながら、彼のその様子を楽しむように、「頼み方が良くないね」と言い放ち、見殺しにしたようなものです。 彼女が何度か少年の訴えに白々しく「誰にいじめられてるの?」などと聞いておいてその後無反応だったのも、どう対応して良いか分からずそうだったのかと思いましたが、こうしたやりとりを考慮すると、実は適当にいじって面白がっていたという可能性も否めません。

 もうひとつ奇妙なのは、彼女の危機管理能力の欠如です。教師としては、致命的な能力の欠落です。少年の訴えは、たとえ現実否定の否認の規制が働いていたところで、普通であれば、その無意識の防衛機制が効かなくなる、つまり、「死ぬかもしれない」という可能性という、恐ろしい事実を、無意識に封印する効力が破たんするくらい、自明な訴えがあったのに、何の対策もしなかった、というところです。この少年に何かあったら、彼女自身、責任問題などで、大変なことになることは、決して想像するに難しくないことです。

 この危機管理能力の欠落が、彼女の病的な否認によるものなのか、或いは、この少年があるいは本当に自殺するかもしれないと認識しつつ、放置していた、彼女のサディズムによる意図的看過なのか、この点からは、定かではありません。

 どこかのコメンテーターが、この事件を、現在の学校のシステムの問題だと言っていましたが、そういう次元の問題ではありません。

 この担任教師の病理と、校長の不誠実さによる問題です。

 被害者の少年の父親は、息子がいじめられていると校長に訴えていたのに、この担任から何も報告がない、何か問題があれば報告があるはずだと、応じませんでした。まともな感覚のある校長であれば、いじめの可能性について真剣に受け止め、担任に聞いてみたり、独自に調べてみたりしたでしょう。校長の不誠実さも、この悲劇が起きたことの重要な要素であると思います。

 もしわが子がいじめられていることを知り、学校に訴えてみても、このような対応をされたら、どうすればよいのでしょう。

 やはり、警察に訴えるのが得策だと思います。この事件は、「いじめ」と言われていますが、実際のところ、いじめという次元ではありません。傷害事件です。大切な子供が、学校で傷害事件に巻き込まれているのに、学校は何もしてくれない。

 学校を最後まで信じて、頼りにしていたこのお父様には、全く責任はありません。

 ただ、今回の事件からも、残念ながら、子供を育てる教育現場にも、このような深刻な病理を持った指導者やリーダーがいるということが分かります。モンスターピアレントなどという言葉が一時期流行りましたが、もっと深刻なのは、こうしたモンスター・ティーチャーの存在です。

 つまり、子供がいじめられていることを知った時、最後にわが子を守れるのは、あなたということです。

 警察に訴え、こうした破壊的な環境の学校、つまり犯罪現場にわが子を通わせることを、一時的にでも、中止し、必要とあれば、フリースクールや、転校も考慮に入れましょう。とにかく徹底的に、お子様を守り抜いてあげてください。

 こうしたことが、その子のこれからの人生において、何らかの大きな影響を及ぼすことになるかもしれません。それにしても、何より大事なのはその子の命ですし、自分がいじめられたときに、親であるあなたが必死になって守ってくれた、というメッセージは、必ずあなたの子供に伝わります。

 学校は大切ですが、決して絶対ではありません。

 それから、本来安全であるはずの学校の先生たちの中には、教育者失格である人が存在していること、もしかしたら、そうした病的な教師がわが子に当たってしまった可能性についても、頭の片隅に入れておくのは、大切だと思います。