職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

仏教の流れーその1

2011年08月02日 | アート・文化
日 本 仏 教 史

◆日本古来の信仰

・森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する神道が行われて来た。神道は神話に登場する神々のように、地縁(地域コミュニティ)・血縁(親族)などで結ばれた共同体(部族や村など)を守る事を目的とする信仰。

・古神道;神を祀る自然崇拝→神道;万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとシャーマニズム(巫女)→祖先崇拝→天皇→国家→儀式主義。

◆仏教伝来(古墳時代)

537年
蘇我氏の計らいにより百済の聖明王から欽明(きんめい)天皇に仏教が伝えられた。神武天皇から数えて第29代目の天皇である。

欽明天皇は物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)から強く反対されたので蘇我大臣稲目に金銅の釈迦仏と教典を授けた為に、稲目は向原の家を寺として安置した。これが日本最古の向原寺である。

570年
国内で疫病が流行したのを機に、物部尾輿らによって向原寺が焼き払われ、仏像は難波池(難波の堀江)に投げ捨てられた。そして、後に信濃の国の本多善光に拾われ、善光寺が創建された。

584年
百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連らが、石像の弥勒菩薩と仏像を敏達天皇に献上した。そして、大臣の蘇我 馬子がそれをもらい受けた。その後、高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。司馬 達等の娘を恵便に出家させ善信尼にした。

その後、馬子の屋敷に弥勒仏を安置して、恵善尼・禅蔵尼の二人の弟子と共に斎会(仏教儀式)を行なった。

585年
物部守屋による廃仏運動により法衣を奪われて全裸にされ、群衆の目前で鞭打たれ、仏塔は壊され、仏殿は焼き払らわれ、仏像は海に捨てられた。しかし、疫病は納まらず天皇も病に伏した。天皇は馬子だけ、仏教崇拝を許した。

587年
用明天皇が病気を機に、仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させた。用明天皇が崩御すると、物部守屋と蘇我馬子が戦い。蘇我馬子が勝利して、崇峻天皇が即位する。

588年
崇峻天皇のもと、仏教の拠点である寺院法興寺(飛鳥寺)が蘇我馬子によって飛鳥の真神原に建てられた。これにより、日本初の正式な僧侶寺が誕生する。

◆国家宗教としての仏教(飛鳥時代)

593年
崇峻天皇が馬子によって暗殺された後、日本初の女帝推古天皇が即位した。更に、聖徳太子が蘇我氏の勝利を祈願して彫った四天王を安置するための寺、四天王寺が摂津難波の荒陵(あらはか)に建てられた。

595年
高句麗の僧の慧慈が渡来して聖徳太子に仏教を教えた。翌年に法興寺(釈迦如来)が完成すると、百済の僧慧聡を住職して仏教の拠点にした。600年には第一回目の遣隋使が随に派遣された。

601年
病気平癒の為に伽藍建立を発願した用明天皇の意思を継いで聖徳太子が、斑鳩の地に薬師如来坐像を安置する法隆寺を建立し始め、607年に完成させた

604年
聖徳太子が冠位十二階・十七条憲法を制定した。そして、憲法の中で三宝(仏・法・僧)を敬う事を記した。更に、3年後の遣隋使に小野妹子が任命され、随から外交官の裴世清を連れ帰ってきた。

629年
推古天皇が崩御した為、蘇我蝦夷が田村皇子を舒明天皇に即位させた。そして、翌年には舒明天皇は遣唐使(犬上御田鍬)を始めて、唐から多くの先進的な技術や仏教の経典を収集した。

636年
この年から、災難が続いた。火災で岡本宮から田中宮に遷都したり、干ばつで飢饉が起き、更に蝦夷の反乱が起きた。

638年
舒明天皇は、聖徳太子(622年)の遺言に従って岡本宮を寺に改築した法起寺の金堂に着工した。39年には、聖徳太子が建てた熊凝精舎を百済川の畔に移して本格的な国家寺院である百済大寺を建てた。

642年
舒明天皇が崩御すると、女帝の皇極天皇が即位する。翌年の3年には、蘇我入鹿が山背大兄王を攻めて自害させた。

645年
大化の改新が起こり、中大兄皇子が蘇我入鹿・蝦夷の親子を殺害した為、皇極天皇が皇位を孝徳天皇に譲った。そして、年号を大化に改め、仏教を擁護して僧の旻らを十師に選んだ。

東国に国司を置いて戸籍と田畑の検地・蝦夷に対する柵戸を設けた。また、冠十九階や八省百官を制定する。50年には、長門の国司が白いキジを献上して年号を「白雉」に変えた。653年に旻法師を冤罪を着せられた石川麻呂の菩提寺、山田寺に安置した。

655年
孝徳天皇が崩御すると、再び皇極天皇が飛鳥板蓋宮で即位した。そして、名を斉明天皇と名乗った。その後、火災が続いて板蓋宮→鳥川原宮→岡本宮と遷都した為、飛鳥寺の西に須弥山の像をにつくって盂蘭盆供養を行なった。

658年
僧の智通と智達が唐に渡り、玄奘三蔵に弟子入りして中国法相宗を伝えた。最初は法興寺の道昭に継いで二番目である。日本で初めての仏教は、後に南都六宗の一つ法相宗と呼ばれる様に成る。

659年
阿倍比羅夫に蝦夷を討たせる為、秋田と青森に進軍された。更に、北海道の羊蹄山まで軍を進ませ、粛慎を討伐させ、7月に盂蘭盆会を開かせた。

660年
仁王般若会を行うと、中大兄皇子が漏刻(水時計)を献上した。また、百済が滅んだ為、鬼室福信を百済に帰国させ復興を試み、翌年の61年に朝倉橘広庭宮で崩御した。

663年
中大兄皇子が即位せずに称制(しょうせい)と成って唐・新羅連合軍と戦う(白村江の戦い)。その後、大敗して博多湾から大宰府に水城・北部九州沿岸に防人を設置・北九州から瀬戸内海沿岸にかけて古代山城を築いた。

669年
中大兄皇子は都を難波の飛鳥京から、琵琶湖の近江京へ遷都させて防衛網を完成させた後、天智天皇に即位した。そして、実弟の大海人皇子を皇太弟(次期天皇)し、息子の大友皇子を史上初の太政大臣にした。その為、大海人皇子が王位継承を辞退した。

◆鎮魂仏教・神道国家(白鳳時代)

671年
天智天皇が崩御すると、大友皇子が弘文天皇に即位するが、大海人皇子が壬申の乱を起こして天武天皇に即位すると、72年には、再び都を飛鳥の地(飛鳥浄御原宮)に戻して、中央集権制を強める為に八色の姓・飛鳥浄御原令を制定し、皇親政治に取り組んだ。

673年
山田寺が完成して丈六仏開眼供養を行った後、自分の娘の大来皇女伊勢神宮の斎王(巫女)としたり、父(舒明天皇)が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなどして、神道を基盤とし、仏教を国家鎮魂の為だけに利用し、寺から領地を取り上げた。

679年
天武天皇は皇后・6人の皇子との間で吉野の盟約を交わした後、皇后が病気と成った為、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。二年後、草壁皇子を皇太子に定めた。

686年
天武天皇が崩御すると、大津皇子が反乱を起こしたとして皇后に殺された。そして、殯の期間を長く取った為、89年に草壁皇子が死んだ為に皇后が持統天皇に即位し、天武天皇の意志を継ぎ、薬師寺を完成させ、寺の領地を認めた勅願寺に指定した。

694年
飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都した。96年に太政大臣の高市皇子が死んだ為、翌年の97年に皇位を草壁皇子の子の軽皇子に譲り、文武天皇に即位させると、持統天皇は初の上皇と成った

701年
文武天皇は本格的な刑法・民法・行政法を整えた大宝律令を発布し、冠位制を改め、新たに官位制を設けた。天皇を中心とする二官八省の官僚機構が作られた。翌年、持統上皇が死去すると、初めて火葬された。

707年
文武天皇が25歳で崩御すると、母(草壁皇子の正妃)が元明天皇に即位すると、藤原不比等が政治の実権を握った。

708年
元明天皇は、埼玉県秩父市の聖神社に和同開珎(銅貨)が献じた。

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