◆歴史の概略----鎌倉時代
平安末期から開墾する土地が無くなり、領地を巡って豪族同士が争い始めると、源頼朝の御恩と奉公が約束された御家人制度が築かれ、豪族は自己防衛することが無くなった。しかし、領地を増やすには将軍を初めとする幕府に貢献する必要が有った。
やがて、源氏の血が絶えると、北条家が政権にを握るが、身分が低い為に将軍職に成れず、それを支える執権職に留まり、北条傀儡政権を作った。そして、末には北条得宗家が絶大な力を持つように成ると、得宗家の家臣団が横暴を極めて幕府は滅ぶ
一方、仏教はこの時代から民衆に溶け込みだした。そして、以前のような厳しい修行や戒律を守らなくても念仏や座禅で救済出来る新興仏教が広まった。
鎌倉の初期(1185~1235年)
1185年::文治の勅許
壇ノ浦で平家軍を討伐した源 義経は、頼朝の内挙を得ずに朝廷から任官を得た。すると、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを拒まれ、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受けた。
しかし、義経らの下に頼朝討伐軍の兵が集まらず、11月には頼朝軍が駿河国黄瀬川に着陣した。その為、義経らは京から逃げ、行方を暗まし、やがて、後白河法皇から義経ら確保の院宣が出され、諸国に守護・地頭が配置された。
守護→平安末期、国司が治安の為、地方の武士を国守護人に指名したのが始まり
地頭→平安末期、平氏が所領の現地管理者として家人の武士を地頭に任命したのが始まり
1186年::家領の二分
頼朝が押す九条家と、後白河法皇が押す近衛家とで摂関家領が二分された。
1189年::奥州合戦
88年に義経追討の院宣が下ると、89年閏4月、泰衡によって義経を衣川館で自害に追い込まれる。そして、7月には頼朝の御家人である大庭景義と、藤原泰衡の間で合戦が繰り広げられ、9月2日に、泰衡は郎党の河田次郎に討たれた。
1190年::建久新制
一時的な守護・地頭を恒久的にし、治安警察権の行使のために改める新制が行われた。そして、頼朝は征夷大将軍に成ることが出来ず、朝大将軍に成って鎌倉に戻った。
1192年::開幕により、公武の二頭政治が始まる
3月に後白河法皇が崩御し、頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍を賜ると、鎌倉幕府を開いた。この頃の幕府は、将軍の館の事を指す。政治組織を意味する幕府は江戸時代から
◆組織
頼朝は平家打倒する際に、関東の豪族達をまとめて「御家人」組織を作り上げた。この組織によって武家同士の主従関係を強化して行き、問注所(裁判所)によって武力による領地紛争が無くなった。また、この頃は武家(東国)と公家(西国)の二元支配体制であった。
挙兵の頃
鎌倉殿→侍所→御家人【御恩(本領安堵・新恩給与)と奉公(地頭・大番役・武家役)】
平家追討の頃
鎌倉殿→侍所・公文所・問注所・追討師・地頭
義経追討の頃
鎌倉殿→侍所・政所・問注所・総追捕使・京都守護・[国地頭ー地頭]
開幕の頃
【鎌倉殿→侍所・政所・問注所・公事奉公人】→京都守護・[守護→地頭]
日本仏教の再生
1195年::公案禅の臨済宗
栄西は日本最初の禅道場である聖福寺を博多に建立して臨済宗を広めた。日本仏教の精神の立て直しを図った。やがて、禅・天台・真言の三宗兼学の寺・建仁寺を建て、武士や朝廷に受け入れられて行った。
1196年::建久7年の政変
93年、頼朝は御家人を集めて軍事訓練の巻狩を行い。2年後には住吉大社で流鏑馬を再開した。96年には娘の大姫の入朝させる為、兼実の政敵である土御門通親と丹後局に近付くが、通親に阻まれて親幕派公卿の失脚を招く建久七年の政変を起し、更に娘も亡くした。
1200年::十三人の合議制
99年、頼朝が落馬して急死して、源頼家が征夷大将軍に任ぜられ、北条政子は出家して尼御台と成った。翌年、頼家の独裁政権を嫌った御家人達によって有力者十三人の合議制が取られた。また、権力闘争起き、侍所別当の梶原景時が追放される景時の変が起きた。
鎌倉幕府の権力争い
1203年::比企能員の変(頼家暗殺)
頼家が病床に就くと、頼家の嫡男、一幡と、実弟の実朝で分割して日本を治める事が、政子と父の北条時政によって決められると、比企能員の変が起り、時政によって制圧され、一幡と能員が殺され、頼家は修善寺に幽閉された後、暗殺された。
北条家内乱・牧の方の陰謀
1205年::畠山重忠の乱
実朝が12才で3代目征夷大将軍になると、時政が初代執権に就任した。すると、時政の後妻の牧の方が政権を握ろうと画策し、平賀 朝雅と畠山 重保が言い争ったのを機に、畠山氏が謀反を起すとして、時政に報告すると畠山重忠の乱が勃発した。
執権の世襲制
同年、7月::牧氏事件
重忠の死後、その乱が牧の方の陰謀と知った政子は、弟の北条義時に命じて平賀 朝雅を討伐し、父の時政と牧の方を伊豆国に幽閉する牧氏事件を起して、義時を2代目執権とした。
新興宗教(浄土宗)の弾圧
1207年::承元の法難
南都の興福寺や比叡山から専修念仏の停止が訴えれて、後鳥羽上皇から「専修念仏の停止」命が下され、住蓮房・安楽房が死罪に、法然と弟子の親鸞は流罪に成った。
臨終を重要視した念仏から、日々の生活を重要視した念仏へ
1214年::阿弥陀仏、以外の力で絶対に真実を悟れないとする浄土真宗の誕生
11年11月、親鸞は流罪を許されたが、翌年の1月に師の法然が死去した為、京に戻らず、伝道の地を東国に求め、そして、14年に常陸国の笠間に庵を構えて、真宗を布教した。
北条家の台頭
1213年::泉親衡の乱・和田合戦
頼家の三男、千寿丸を将軍に据えて北条義時を打倒しょうとして泉親衡の乱が勃発。しかし、千葉 成胤によって阻止された。之を機に、義時が政所別当の和田氏を挑発して和田合戦を起こさせ、和田氏を全滅させ、義時が御家人筆頭に躍りでた。
源氏の滅亡と尼将軍
1219::実朝の暗殺
18年、実朝は武士として初めて右大臣に成り、19年には、頼家の子、公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺された。その為、朝幕の安定を図った「宮将軍」構想に終止符が打たれ、公暁も、三浦義村よって暗殺された。その後、二才の藤原頼経を鎌倉に迎え入れ、政子が将軍代行を務め、執権を最高機関にした執権体制が始まった。
朝幕の対立と統一
1221年::承久の変
親朝派の実朝が死んだ事で幕府を朝廷の下に置くことが出来なくなり、更に後継者問題では北条義時に邪魔された後鳥羽上皇は、「流鏑馬揃え」を口実に諸国から兵を集めて挙兵した承久の変を起した。
守護・地頭の全国制覇
しかし、朝廷軍は破れて後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇が流刑され、仲恭天皇も廃位して後堀河天皇や、父の行助入道親王を後高倉院にして院政を行わせた。更に、京の北と南に六波羅探題が設置され、後鳥羽院派の武家や公家は一掃され、全国に守護・地頭が置かれた。
二頭執権制
1224年::伊賀氏の変
義時が死去すると、後妻の伊賀の方と兄の伊賀光宗が政権を握ろうとして伊賀氏の変を起こすが、政子によって阻止された。その後、甥の泰時を執権に、弟の時房を執権補佐の連署に任命し、伊賀の方・光宗・実雅らを流罪した。また、北条泰時によって北条嫡流の家事を司る家令が置かれ、尾藤景綱を任命した。
評定衆の合議体制
1226年::征夷大将軍の復活
25年、政所別当の大江や政子が死去すると、泰時は大胆な政治改革を行う。之までの専制体制から、執権及び連署の両立執権に、11名の有力御家人を加えた評定衆を設置し、更に御家人の領土問題を解決する引付衆も置いた。
26年、将軍宣下により、藤原 頼経が鎌倉幕府の4代将軍と成り、源頼家の娘の竹御所を妻に迎えて、幕府を大倉→宇都宮辻子に移した。
浄土四流と新興仏教
1227年::嘉禄の法難
「どんな悪人でも極楽に逝ける」とした教えを誤解した信者が、強盗や殺人などの悪業やった為、再び「専修念仏の停止命」が出されると、延暦寺の衆徒によって祖法然の廟堂が破却されて、浄土宗は西山義・鎮西義・長楽寺義・九品寺義に分裂した。
日本禅宗の誕生
1227年;;曹洞宗
道元によって、ひたすら坐禅して自性清浄心に気付く事を目ざす曹洞宗を開き、更に、末法は方便である事を説くと、次第に有名に成り、延暦寺の衆徒から弾圧を受ける様に成った。
初の武家法
1232年::御成敗式目
泰時によって慣習法の武家法に道理を盛り込んだ武家法典;御成敗式目が編纂された。この背景には前年に起きた寛喜の飢饉の影響が有った。
これにより、公家法、本所法と並んで武家法が初めて揃った。また、四条天皇に譲位し、後堀河上皇が院政を始めたが、34年に崩御してしまった。
反得宗・反執権政治
1234年::竹御所が死去
正室の竹御所が死去すると、将軍頼経の実権も衰退していった。そこで、義時の次男、朝時を筆頭し、反執権政治を試みようとする反得宗派が、頼経に近付いて勢力を伸ば始めた。
南都北嶺の制圧
1235年::寺社勢力の争い
石清水宮の神人と、興福寺及び比叡山の僧兵が大規模な争いをした為、幕府は武力を持って僧兵を鎮圧した。この頃、各寺社が独立して朝廷や幕府から一線を画していた。
鎌倉の中期(1236~1285年)
九条道家が朝廷の権力者に成る
1238年::道家太閤の誕生
32年、九条道家は長男の教実を四条天皇即位と共に摂政にして有力公家と成ったが、35年に教実が早死して、再び道家が摂政と成った。しかし、近衛家の反対を受けた為、37年に娘の仁子を嫁がせて近衛 兼経を摂政にすると、38年に道家は出家して禅閤と成った。
天皇空位--道家と泰時の対立
1242年::四条天皇崩御・泰時の死
天皇崩御後、道家が順徳天皇の皇子である忠成王を推薦した為、北条泰時と対立して11日間、天皇空位状態に陥った。その後、泰時は後鳥羽天皇の孫の邦仁王を後嵯峨天皇に即位させ、関東申次の西園寺家と婚姻関係を結ばせると、7月に死去した。
北条一族の対立
1244年::将軍職解任
北条泰時の孫の経時が執権に成った事で、反得宗の名越家と藤原頼経が、反執権体制を取ろうとした為、経時は将軍・藤原頼経を失脚させて、子の頼嗣を5代将軍にし、翌年には妹の檜皮姫を嫁がせた。
得宗専制政治の始まり
1246年::寛元の政変
46年5月、北条経時が死去して、弟・時頼が執権に成ると、前将軍・頼経と共謀して、名越光時らは時頼打倒を図り、寛元の政変を起しすが、すぐに反執権派は鎮圧された。
西園寺の世襲:関東申次
7月、頼経が京都六波羅に送還され、10月、父の九条道家も関東申次を解かれ、西園寺公経の嫡男・実氏と交代させられた。そして、後嵯峨天皇が4歳の後深草天皇に譲位して院政を開始した。
三浦泰村と義景の覇権争い
1247年::宝治合戦
九条道家の失脚を機に、三浦光村が反北条勢力を集めると、北条氏と外戚の三浦氏の対立が深まり、やがて安達景盛より、戦いの火蓋が切れると、北条時定に三浦泰村討伐の命が下され、宝治合戦が勃発。その後、三浦氏と共に上総千葉氏までが滅亡した。
朝幕一体化と宮将軍
1252年::5代将軍頼嗣の解任
51年に、了行法師らが勧進をしながら、謀叛を図る事件が起きると、頼嗣の父・頼経も関与したとして頼嗣将軍の排除運動が起り、52年、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍に迎える事に成った。これで北条執権体制が完璧なものと成った。
浄土思想から法華経信仰へ
1253年::日蓮宗
「南無妙法蓮華経」と唱えだけで、釈迦と同じ功徳を授かり、即身成仏を目指す事が日蓮によって唱えられて日蓮宗が誕生した。また、浄土教の隆盛の世に於いて、天台宗の法華経信仰を再興を目指した。
両統迭立・眼代の始り
1259年::亀山天皇の即位
56年、北条時頼は執権職を長男・