思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

個人空間の誕生に思う

2019年02月08日 | 思考探究

 NHKの歴史ヒストリアで銅鐸の歴史が語られていました。古代に興味があることから見たところいきなり古美術商の銅鐸1センチ100万円の話から始まり7000万円で文化庁に売った話が語られました。その時脳裏に浮かんだのがボランティア活動をする尾畠春夫さんの姿。年金一か月5万円少々の中、切り詰めながら人のために命を削るその姿です。

 このように語る私自身の精神の内は、古美術商に近い存在でこの世に現れているように思います。65歳に間もなくなり年金では暮らしていけないので平日は事務系の仕事を365日の1年間暦のとおりの生活をしています。休日は好きな歌謡に興じ、妻には知らないうちにご迷惑をかけているかもしれませんが、極力他人には迷惑をかけないように心がけています。
 勤務先自体が利潤追求する会社でないこともあり、与えられた仕事を時間内に終了すればよく利益という「欲」は生ずることはなく「欲」が生ずることがあるとすれば早めに効率よく仕事を消化し好きな本を読むとか音楽を聴くなどがあるかと思います。

 経済的な面があり、食生活はもちろん家を持ち、車を持ち等で生じる減価償却に対応するには働けるまで働くが当然のように感じ、65歳で後進に道を譲っても、別な仕事をするつもりでいます。

 このように考えると人はそれぞれの個性において生きているということができます。これは私の空間であるともいえ、また守備範囲ということもできます。現象学的地理学者のイーフー・トゥアンは著『個人的空間の誕生』の中で空間の分節化ということを語っています。マルクス・ガブリエルの全体の世界は存在しないという哲学を別視点から哲学者ではないものが語る話です。
 人類誕生から考察すれば家族は人間の小さな集団です。子どもは小さいときには家族と堅く結びついたある意味より所として権威のある独立した存在です。
 その後は一族的な小集団に人は属し、権威のある独立した中で役割をもって生きることになります。
 これを現代において考えるならばまず家の空間は、子どもの視点で考えると成熟するにしたがって自分自身を意識の中心として自覚するに至れり、おのずと単純に家族に属しているわけではなく芽生えが出てきます。

青年期の人間は、ときどき家の中で家族から遠ざかる必要性を感じ、子ど部屋があればそこが彼らの空間になり、外出という行動にも出ます。

幼稚園、小学校の入園、入学時よく泣く子を見かけます。母親から離れることに悲しくなり、別空間にいる人々に不安を感じているのかもしれません。個人的には過去を振り返れば、母から離れたり、家以外での空間に不安を持っていたように思います。

 個人空間は狭義の空間もあれば広義の空間もあるように見えます。断っておきますがイーフー・トゥアンがそう述べているわけではなく、空間の分節という話から問いを受け、私の思考で思いつくままに記述しているだけです。
 自己空間というものは、視点を内と外、主観と客観の思考視点でみるならば、空間は分節され、統合され、また分節というようにくり返すように思われます。

 生きる空間を決めるのは何か。空間と定義するから何かと説いてしまいますが、日常そのような空間は意識することはありません。雰囲気を感じながら淡々と息づいているだけです。

 文頭で語った古美術商と尾畠さん、客観的な視点からそれぞれの空間があり、雰囲気を感じます。実際に会ってみると違うかもしれませんが、まぁとにかく感じるわけです。

 個々の倫理観、道徳観と「倫理」「道徳」という言葉で「観」(見方)を語る時、内と外、主観と客観という思考視点でこれまた自己の脳裏に浮かぶイメージで分節し語るわけですが、これもまた空間の分節にあるわけで、多様はこのように現れ、自己の選別と固定化で話すわけです。

 これもまた「観」という空間の分節にあるわけで、そしてそれは古物売買の物語となり献身的な救助救済の物語として語られるわけです。
 部分があり、全体があり、それは無いようでもあり、また有るようでもある。

ということで今回も個人空間を語ったわけです。