100分de名著サルトルの『実存主義とは何か』が始まりました。25分という間にどんなことを受けとることができるか。久々に哲学講義を受けているような気がします。
学校教育での25分間と比較すると目的をもってその場に臨む姿勢が最も大切であることを知ります。
今私は何を望んでいるか。
「人間は自らの決断によって自分を作り上げていかなければならない」
という言葉を聞くと、
「経験が人を作り上げていく」
という言葉が浮かぶ。
人間とは能動的な動物なのか、受動的な動物なのか?
受動的が消極的というわけではないが、
「人間は自らの決断によって自分を作り上げていかなければならない」
という言葉には、「積極的に生きる」というイメージを受けます。
時間の有意義性を感じられる生き方をしたい。そのためには自発的な目的が心の内にわかなければならない、言葉を変えればそのような衝動に駆り立てられる状況に置かれてなければならないという事です。
「人間は自らの決断によって」
とはそうなる自分がなければならないわけで、作られた私がいることになります。
聞く、見る意思がそこにありそのような選択をする、その結果、有意義に思うことになります。
目的があって行動するのが人間
戦争というものは、正当性の戦いです。
不条理なことでも反倫理的、反道徳的なことでもその正当性を主張して行われます。
選択した行動に対して正当性の主張する。
正当性の彼岸には、反正当性的な、不条理なこと、反倫理的、反道徳的なことの結果が現われています。
想像の範疇でも、内心の自由意思でも、そこにはその観念が現われているのです。
神も仏もない世の中
においては、心の内を覗かれることはありませんし、何を思っても自由です。
斯(か)くして「人は自由の刑に処せられている。」
したことの責任はみずからが負うことを宣言する。
宗教戦争
いつの時代でも「神も仏もない」戦争がくり返されます。
無責任男
日本が実存主義に湧くころ「無責任男」がおお流行でした。責任とは結果なのであって、そのような結果になったことは仕方がないこと、取り返せないこと、損害賠償が悉く原状回復、何事もなかった過去に戻せるかというと絶対に後戻りはできません。
そもそも人間行為の本質が問題であって、目的意思による行為、目的的行為それ自体がを考えるべきではないかと思う。
行為とは身体の動静、それが法益侵害に当たることの認識や如何に。定型的発達者においてはそのような行為はしないだろう。ということで責任能力の有無が最終的な判断になる。
人格者ならばそのような行動はしない。
というのが今の社会の普通の考えですが、「神も仏もない」、内心を覗かれることのない、・・・・共通善に導いてくれる内心の働きがの有無・・・・自分でさえ解からない。
サルトルの『嘔吐』はそういうことなのか。
私などは唖然と、あるがままの月が見える。
実存は働きの内にあるのであって、本質の彼岸には実存があり、此岸においては大地があるだけなのだと思うのです。
存在とは今あることの一点に集約され、それは時と共に流れゆく
「目的」の先行を語りましたが、在ることに気がつきます。気づくとはそのような思考転回をするからで、早い話が、物事にこだわることなく淡々としていればよいことかも知れない。
ここでまた、しかし・・・・味気のない、素気がない日常なんて面白くもない。
ということも考えたくなります。まぁそのような話はさておき、『実存主義とは何か』の25分は短く、300万部も売れた本だという事実は、欲するところ、欲する時代性があり、あったというこです。
「神も仏もあったもんじゃない!」
という事態が、第二次世界大戦の経験、体験の中で現われ、『実存主義とは何か』が多くの人々の心をとらえたことは事実です。
これからは自由な世界、自己責任において何でも自分で決することができる。怖れるものは何もない。
自分の行動は正しい。その正しさ正当性を語ろうとするとき、裸の存在から始めるのが・・・・という発想があるとサルトルは思い立ったに違いありません。
好き勝手な主張であるならば批判を浴びることになるが、せめて自己責任をつけ足そう。
現代社会は、最終的に責任性が最後になります。話しのくり返しになりますが、
構成要件に該当し、違法性の認識があり、そこに責任能力があれば処罰しよう。
罪刑法定主義は、そのようになっています。
法律に規定されたている犯罪を構成する行為の類型に該当する行為であり、その行為を違法なものと認識した上において結果を惹起したならば、その責任を取ってもらう、その能力に欠ける責任無能力者ならがその責任は阻却される。
しかし思うのですが、私という存在が行為をすることにおいて、そもそも私は今何をするのか、しているのかという選択の意識が先行していれば、無責任輩が横行するような事態にならないのではと思うのです。
「人間は自らの決断によって自分を作り上げていかなければならない。」
もいいが、
「経験が人を作り上げていく」
ものでもあるのだと思うのです。
経験は当然、善いことことばかりではなく、悲しみや苦悩、総じて悲哀も含むものでこの方が重なのが人生というものだと思うのです。
サルトルの話から人生哲学の話に、それも一貫性のない話に終始してしまいました。
これからいざ出陣です。