思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

原始仏教典中村元選書の「犀の角」を読んでみた話

2012年06月11日 | 仏教

 最近は哲学における「存在」に熱中していました。せっかくの日曜日、曇り空でしたが市内の近代美術館のバラ園が今見所ですとの話を聞き、さっそく見に行きました。

 さまざまな色のバラが、種類の異なるバラが咲き乱れ甘いバラの香りが漂っていました。

 自宅に帰り久しぶりに仏教サイトを見ると原始仏教典のスッタニパータの「犀の角のようにただ独り歩め」の話が書かれていました。仏教学者の中村元先生の訳の話について書かれてて、本当かなぁという話なので分厚い中村選書の「犀の角のようにただ独り歩め」の35-37番を見てみました。第6章「慈悲」に書かれ次のように解説されていました。

<中村元選集[決定版]第15巻『原始仏教の思想』Ⅰ春秋社>

・・・・このように心が柔和で慈しみ深くなるためには、心の平静をたもっていなければならないのであるが、心の平静をたもつためには、他人との交わりを避け、独りでいなければならぬという主張が現われた。犀の角のようにただ独りで歩めというのである。

 『あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

 交わりをしたならば愛情(sneha) が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍の生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

 朋友・親友にあわれみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。』(Sn.35-37)

「独り修行する」ということはバラモン教の系統の叙事詩などにおいて大いに称讃されていたが、それと同じものを初期の仏教も受けていたのである。

 しかしこのような生きかたは、ただ自分一個人だけの心の平静を求めているにすぎない。他の生きものを害するなかれといっても、それは自分の心の平和が乱されるから害しないというだけである。ところが慈しみは他の生存者を前提として必要としている。

だからこの二つの立場は理論的に矛盾する。最初期にはこの矛盾がどれだけ自覚されていたか不明であるが、のちにははっきり自覚された。

そうして独居を説く右のような一連の詩句は独覚(paccekabuddha) のための道を説いたものであると解せられた。独覚とは他人とも交わらず、他人を導くこともなく、ただ独りで修行し、さとる人である。これに対して慈しみの実践を説く人々は菩薩であると考えられた。

 この菩薩の道の先駆的思想がすでにかなり古い時代から表明されている。それは積極的に他人を愛することである。この慈悲の精神を徹底させると、敵というものがなくなる。とくに己が敵をも慈しまねばならぬということさえも主張された。長老サーリプツタの言として次のように伝えられている。・・・・・以下略(サーリプッタ言葉が続きます)

<以上同書p721~p722>

そして注釈書のは次のようにしっかりと説明が掲載されています。

<註釈>
(21)犀の角---原文には khaggavisana とあるが、原語についてみると、khagga(=Skt・khaadga)は、一、刀、犀(rhinoceros)という意味で、visana は角であるから、両者を合すると、「犀の角」となる。

「犀の角」の譬喩によって「独り歩む修行者」「独りさとった人」(paccekabuddha)の心境、生活を述べているのである。「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただ独りでも、自分の確信にしたがって暮らすようにせよ、の意である。

 本書のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えられる生活をしている独覚」に相当する。

 仏教では、後世になると、三つの実践法(三乗)があるという。

 「声開」(釈専の教えを聞いて忠実に実践する人)
 「独覚」(山にこもって独りでさとりを開く人)
 「菩薩」(人々を救おうという誓願を起こして実践する人)

である。そのうちで、「独覚」には二種類ある。

 一、部行独覚(仲間を組んで修行する独覚。『倶舎論』第一二巻、八丁裏。「部行」(vargacarin,AHBH.p.183,ll.8,9)とは、仲間をつくって修行することである)。

 二、麟角喩独覚(つねに独りでいて伴侶のいない独覚。麟が一つの角のみをもっていることに喩えていう)。「麟角喩」とは「麟の角(一本しかない)に喩えられる」の意。この場合麟とは犀のことをいったのだと考えられる(khadga-visana-kalpa,AKBH.183,l.15)。角が一本しかないからである。では、犀(kahadga)のことを、なぜ漢訳者は「麒麟」と訳したのか? 想像が許されるならば、シナ人には犀はあまり知られておらず、むしろ麒麟のほうがなじみが多かったからではなかろうか。

 ところで、いま第三五詩以下に説かれているのは、「独りでさとる人」の実践である、とバーリ文の註釈は解する。----ettha kaci gatha tena tena paccekasambuddhena putthena vutta kaci aputthena attano abhisamayanurupam udanam yeva udanentena,・・・・・(Pj.vol.I,p.46).ここで「独りでさとった人」(paccekasambuddha)というのは、最初期の仏教の理想である。後代の仏教教学で考えた「独覚」とはかならずしも一致しない。

これを略して paccekabuddha ともいう(p.52,l.12)。また paccekabodhisatta なるものをも考えている(p.52,l.12;p.58,l.20)。paccekabodhisatta なるものは辞書(PTSD.etc.)には出ていない。

 西洋でも、一角獣というものは、西洋の精神文化を代表するような神話的存在であつた。西洋では Strabon 以来、犀に関する記述があるといって、ノイマンは西洋の古代文献のなかから犀に関する記述を集めている。この伝統は最近の西洋でもまだ生きているようである。アメリカのある童話(岩波少年文庫)によると、ナルニア国では一角の犀が重要な意義をもっている。

 なお日本では、犀は麒麟として描かれている、とノイマンはいう。『倶舎論』などに出てくる「麟角喩」のことをいうのであろうか。インドの伝統を遡ると、インダス文明の印章のうちに一角獣のすがたが表現されている。
 
<以上>

 「犀の角」なつかしい言葉に再度確認することができました。そうだよなこういう話だったよなぁ。学ぶということは難しい話です。

 ということで、ただ引用だけにします。言語部分については表記に制限があります。日本語だけを参考にしてください。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2013-02-25 22:57:23
そういえば、どうせ愚民どもには俺の教えは分かりはしないと考えてたシッダールタはある時、梵天にその教えを広めてくださいと、お願いされて仕方なく教えを広めたんだよね。

返信する
Unknown (Unknown)
2013-05-20 20:40:10
「犀の角のようにただ独り歩め」は悟るための方法論であって、その結果「慈しみの実践」の境地に達する人もいれば、「利己主義」の境地に達する人もいる。
どの境地が良いかということはなく、各人の達した境地に従って生きてゆけばよいのである。
と言ったところで、あまり意味がないので、釈迦も最初は「教え」などという無駄なことはしなかった。
でもそうすると、釈迦が死ねば、釈迦の悟ったことは消えてしまい、何の意味もなくなる。
そこで「教え」を広めたんだけど、まあ考えるヒント程度のことであり、結局は自分で考えるしかないんだけど。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。