思考の部屋

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NHK視点・論点・大澤真幸の「裏返しの終末論」・「正義」を考える

2011年03月10日 | 哲学

 昨年のアメリカ政治哲学者マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室の反響から”正義 ”という言葉が今までになく論議されるようになってきました。時間として混迷する社会を身近に感じられるようになり、ますますその言葉の重要性が問われる時代になっているように思います。

 NHK教育の『視点・論点』3月8日は、社会学者の大澤真幸(おおさわ・まさち)氏による<「正義」を考える---裏返しの終末論>と番組が放送されました。
 
 結論から言うと『「正義」を考える』(NHK出版新書)に書かれている(p272-p276)書かれているフランスの政治哲学者ジャン=ピエール・ジュビュイの未来における人類の破局という視点にたっての現在という未来にとっての過去における自由選択という問題考察につの中に現在における”正義 ”論を構築する考え方です。

 「人は誰しも正しく行為をしたいと思っているが、しかし”正義 ”にかなったルールを構築することは困難なことである」旨の言葉から始まります。

 さっそく著書にもあるようにアメリカのマイケル・サンデル教授について「昨年巧みな講義で話題になったコミュニタリアン(共同体主義)に組する人物」と紹介し、講義内容にあった、

 最大多数の幸福を理想とする功利主義と少数が犠牲となるその主義の問題点。

 嘘をついてはならないという普遍的なルールで成り立っている社会が正義と考えるリベラリズムの問題点。

について語ります。

 そしてコミュニタリアニズムにおける共同体の共通善の構築についてもそこには問題があると指摘します。
 
 「共同体に属するということは共同体の物語に参加することです。」と語ります。大澤氏は言及しませんが、これはアメリカの政治哲学者アラスデア・マッキンタイアの「物語的観念」の考え方にヒントを得たもので、これと後ほど出てくるフランスのカトリーヌ・マラブーの考え方を組み合わせたものとなっているきがします。

 「人間は、本質的に物語をつぐむ動物である。『私は何をすべきか』という問いに答えるには、、まず『どんな動物の中で私は自分の役を見つけられるのか』という問いに答えてからでないと、答えることはできない」

にという考え方に由来するもので、この考え方にも問題があることを指摘します。

 それぞれの共同体のもつ物語、善きに生きるための物語は各共同体間の対立を生む要素が含まれていると考えるわけです。

 日本民族という物語、アジアのその他の国よりも近代化を早くに推し進めた民族性の優位的な物語。

 こういう物語構築の問題点を物語の機能障害と大澤氏は指摘し、人生は物語化できない、物語の中で人生を見つけられないと断言します(現代社会の特徴的な困難)。

 フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーの「新しい傷」という概念が説明されます。

 「新しい傷」とは、自分を物語の中に位置づけることにより、癒すことができない肉体的、精神的傷のことで、突発的な災害や理不尽な犯罪に巻き込まれること、突然の解雇や失職、ひどいいじめによる社会的排除などが「新しい傷」と定義されます。

 大澤氏はこのように現代人は、多かれ少なかれ傷を負っている、もしくは傷を負う可能性に曝されていると指摘します。そして、

 コミュニタリアンは、それぞれの共同体の物語を生きることで、共同体固有の善や正義の観念が成り立つとするが、現代ではその肝心の物語が魅力を欠き、人々が物語を引き受けたり背負ったりすることができずにいる。

と言及し、

 それならばどうすればよいか?

 現代の一連の中東・アフリカ地中海沿岸国の崩壊を事例に、今回の「裏返しの終末論」を展開します。

<大澤氏>

 ムバラク政権は過去においても既に不安定で、これを倒すことは充分可能であったと見えてくるものです。

 ムバラク政権を倒せうる、という可能性が過去の中に挿入される。この時ある意味で、過去が変更され書き換えられている。

 さらにひとたび政権が崩壊してしまうと、私たちは「なるべくしてそうなった。」と思えるようになってきます。

 しかし、個々の出来事は偶然でっす。たまたまチュニジアで起きたある焼身自殺ことを誰かがインターネットで公開した。このことが偶然の思い付きによるものですが、そこから一連のプロセスが起きてしまえば、それは必然であり、宿命であったかのように見えてくるのです。

 政権は倒れるべくして倒れたのだ。それは必然であり、宿命であったのだ。

と感じられてきます。ということは偶然から必然が生まれているということです。言いかえれば私たちは宿命を、つまり必然的運命を自由に選択できるということでもあります。

 偶然とは外(ほか)でもあり得たことでも、たまたまそれを選択した、ということだからです。

 さてこうしたことを未来への態度へ応用してみます。物語が働かないということは、善い終末、善いゴールは想像できないけれども、悪い終末つまり破局であれば、思い描くことができるということです。

 そこでまず未来において、その破局は起きてしまっている、と仮定してみるのです。

ということは、その未来の方を現在とする時点において、その破局までの過程が、必然であり不可避の宿命であったと感じられているということです。

 その破局までの過程、つまり未来にとっての過去に、私たちの実際の現在が含まれていることが大事です。

 ここで今述べたばかりの偶然の選択が必然性を生み出すという原理が効いてきます。つまり未来に想定された破局の位置からは、その破局にいたる宿命自体が未来にとっての過去、つまり私たちの実際の現在の自由の選択の産物である、と見えているということです。

 ちょうど中東での政権の崩壊という必然的な政治のプロセスが、ある自殺をネットで取り上げるという自由な選択の所産であるようにです。ところで自由な選択であるということは現在私たちは別なようにも選択できるということです。

 それは破局を帰結するような宿命、とは別の選択肢です。私たちはその別の選択肢を取るべきです。つまりわざと破局的な終末が到来してしまった。と想定し逆にその終末を回避するような選択肢への想像力・イマジネーションを回復する。

 私はこれを裏返しの終末論と呼んでいます。物語が困難な時代の”正義 ”の第一歩は、この裏返しの終末論にあります。

<以上>

という内容で番組を終っています。理解できそうでわからない。その著書『「正義」を考える』も読んでみましたが、なかなか分かりません。

 現代における選択の正しさの証明が、非常に不確定に思えるのです。それよりも「今を熱心に生きる」という一昨日の法句経の教えの方が現実的に思えます。大澤氏は以前にも紹介した『量子の社会哲学』という著書も出されています。

 これも難解な本で、少々これについては批判も多いようです。新しい考え方は当然既成の考え方を変更するものであり批判が多いものですが、非常に高度で難しいところがあります。

 長野県松本市の出身、娘と同窓だと思うので理解を更に進める努力はしたいと思っています。

 大澤真幸氏の番組の最後の部分を、そのまま起してあります。参考にしてください。

 ※ 政治哲学者アラスデア・マッキンタイアの「物語的観念」の影響は、私が勝手にそう思っているだけです。

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