思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

時じき藤のめづらしく・和辻哲郎

2011年06月26日 | 古代精神史

 最近のブログ内容の中で倫理学者の和辻哲郎先生の『続日本精神史研究』の「日本語と哲学問題」(和辻哲郎全集第4巻p506~)論文を受けての万葉学者中西進先生、長谷川三千子先生の「やまとことばの思考」「日本語の哲学へ」についてアップしています。

 私自身そもそも和辻哲郎先生については、倫理学者であることは知っているものの学問的樹立の出発点については全く知らないのが事実です。

 あとで触れますが、和辻哲郎先生の上記の論文を読んでいると、現象学の手法を用い、存在論を展開したドイツのハイデッガーの名が出てきます。

 どうして出てくるのか、和辻先生は1927年から1年ですがドイツ留学をし直接ハイデッガーから教えを受けているからです。

 ドイツで現象学の教授を受けた和辻先生は、違和感を感じハイデッガーの限界を感じます。

 どのような限界を見たのかについて、非常に分かりやすい解説本があります。
以前にも九鬼周造先生の論の参考にした著書『ハイデッガーと日本の哲学』(嶺秀樹著 ミネルヴァ書房)で、今回はその中から次の文章を紹介します。

<『ハイデッガーと日本の哲学』第一章ハイデッガーの「存在の問い」から>

 ハイデッガーが和辻の思想形成にとってどういう機能を果たしていたかを見るためには、まず『風土』の序文でハイデッガーに言及している箇所を見てみるのがよい。和辻はそこでハイデッガーの『存在と時間』との出会いを回顧しつつ、風土の問題に到達したゆえんを語っている。

『風土』の構想における和辻のハイデッガー受容の意味が何であったか、それが和辻の倫理学の構想全体とどのように連関しているかに、まず注目してみよう。

 「自分が風土性の問題を考えはじめたのは、一九二七年の初夏、ベルリンにおいてハイデッガーの『有と時間』を読んだ時である。人の存在の構造を時間性として把捉する試みは、自分にとって 非常に興味深いものであった。しかし時間性がかく主体的存在構造として活かされたときに、なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされて来ないのか、それが自分には問題であった。もちろんハイデッガーにおいても空間性が全然顔を出さないのではない。人の存在における具体的な空間への注視からして、ドイツ浪漫派の(生ける自然)が新しく蘇生させられるかに見えている。しかしそれは時間性の強い照明の中でほとんど影を失い去った。そこに自分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである。」

 和辻のハイデッガー批判の第一の点は、人間存在の構造を解明する際に空間性を軽視したことにある。

その理由として和辻は、ハイデッガーの「現存在」(Dasein)があくまで「個人」にすぎず、個人的・社会的な二重構造をもつ間柄としての「人間存在」ではなかったことを挙げている。もしハイデッガーが人間存在をこの具体的な二重構造の内で把捉していたなら、時間性を空間性との相即において見ようとしたはずである。

空間性も具体性を獲得して、「風土性」としてその真相を願わにするに至ったであろう。しかしハイデッガーは人間存在を間柄存在としては十分捉えなかった。それゆえに、時間性と空間性の相即、ひいては歴史性と風土性の相即も、十分把握することができなかった、というわけである。

 もちろんハイデッガーをこのように批判する和辻も、ハイデッガーにとって空間性が時間性とならぶ現存在の本質的契機であったことを認めないわけではない。事実、『存在と時間』においてハイデッガーは空間性の分析に多大な紙幅をさいている。デカルト的空間、近代の自然科学的な均質空間を、人間が住まう日常的手許世界的空間と対比し、道具と交渉する世界内存在の空間的な構造連関を明らかにしょうとしている。

実存のいわば生きた身体的空間に空間性の第一義的意味を与え、人の存在の具体的な空間を切り開いていくハイデッガーの手法は、和辻の評価するところでもある。しかし我々が見ても、ハイデッガーの場合、空間性は現存在の本質的構造契機をなすものとして一度は主題化されたものの、本来的実存の結節点ともいうべき「死への存在」や現存在の本質的構造を構成する「時間性」を分析するくだりになると、すっかり背後に退いてしまう。

現存在に固有な実存の全体性を開示させる機能は、もっぱら時間性に帰せられる。現存在の歴史性も実存の時間性のみに基礎づけられている。和辻のいう空間性、風土性は、現存在の歴史性を分析するハイデッガーの視野にはまったく入ってこないといって言い過ぎではない。こうしたハイデッガーの空間性軽視のよって来たるところを追及し、その欠陥を補い、新たな人間学を構想すること、これこそ和辻が自らに課した課題であった。

ちなみに和辻のいうところでは、人間存在にとって風土性が重要な契機であることに気づいたのは、留学中に様々な印象深い風土に触れたことによるが、ハイデッガーの時間性の綿密な分析に触発されて、風土の問題を自覚するようになり、ハイデッガーの構想の問題点も分かってきたとのことである。・・・・・

<以上同書pp18~p20から>

 私はここで語られている、「人間存在にとって風土性が重要な契機である」という点に和辻の思想の根底にあるものを思います。

 『続日本精神史研究』という著書ですが、次の文章に個人的に惹かれるものがあります。

<同書「日本語と哲学の問題 一国民的特性としての言語」から>

 ・・・・・彼の力説するDaseinは根本においては個人であって、個人的・社会的なる二重性格を有する人間存在ではない。従って彼(ハイデッガー)は言語を個人と道具との了解的交渉の場面から取り出したのであって、人と人との間の実践的交渉の場面から取り出したのではない。

だから彼の綿密をきわめた分析も「ともに生き、ともに語る相手なした言語が発達するという無意義なこと」(マルクス)を取り扱っているに過ぎない。言語の本質の根本的な開明は単にDaseinの構造全体の理解によってのみ得られるのではなく、かかるDaseinがはめ込まれている社会存在の構造全体の理解をまたねばならぬのである。

しかし社会存在の構造もこれを社会の身体から引き離して考察するならば言語の相違や民族の精神的特性と無縁なものになる。社会存在の場所的性格を把握することのみがこれらの問題を正しく解決せしめるでああろう。

ところでこの場所的性格への通路を提供するものは、風土あるいは水土と呼ばれる現象である。かかる現象を介して社会の身体を捕え得たのちに、初めてハイデッガーのいわゆる道具との交渉が具体的な意義を持ちきたるのである。人がbesorgendに出合う「手近なもの」との交渉において、その「何のため」「何をもって」は社会存在の場所的性格の方から限定せられて来る。

たとえば太陽、山、河、草木、野原等々の「道具」は、どこでも同じ性格、同じ用をもって交渉せられるのではない。太陽が烙けつくごとく熟い場合と幽かな暖かさをしか感じさせない場合と、あるいは山野が旺盛なる植物に覆われている場合と一滴の水もなく乾燥してただ死骸のごとき岩と砂とのみである場合と、そこに存する「何をもって」は明白に異なって来る。

しからばそれぞれの場合の交渉も、すなわち「その中」(Worin)も特殊な性格を帯びざるを得ぬ。しかるに「その中」こそまさにDaseinが存在論以前にすでに存在的に持っている存在了解にほかならない。存在了解の特殊性はすなわちDaseinの有り方の特殊性であり、それはさらにDaseinの自己了解性を現わす仕方の特殊性として、すなわち言語の特殊性として、現われざるを得ぬのである。

かく考えれば言語の民族的相違の問題は言語の最も深い根柢とからみ合っているのである。かかる相違を捨象して言語の本質を考えることは、具体的に言語を取り扱うことにはならない。フンボルトが「言語の構造は国民の清神的特性そのものである」と主張したことは、非常な卓見だと言わねばならぬ。

言語のごとき具体的な生の表現は精神史的な理解なしに取り扱われ得ないのである。言語を人間存在の根抵から説こうとする場合にさえもこの事は動かない。それぞれの特殊な言語を離れて一般的言語などというものがどこにも存しないことは、何人も認めざるを得ない明白な事実である。

<以上同書p508~p509から>

この中の、

>太陽、山、河、草木、野原等々の「道具」は、どこでも同じ性格、同じ用をもって交渉せられるのではない。<

何をか言わんです。

 万葉集巻8-1627

 我(わ)がやどの
 時(とき)じき藤(ふぢ)の
 めづらしく
 今も見てしか
 妹が笑(ゑ)まひを
        (大伴家持)

季節はずれに咲いた藤の花。藤の花が微笑むです。
それを見ると、あなたの微笑みがみたくなる。

この歌のいろいろな注釈書を見てみましたが、花の微笑みについて言及するものは今のところありません。

 大伴家持作のこの歌です。花の微笑みを見ないわけはありません。

 花びらは散っても花は散らない

花は単なる物、道具ではない。私はそう思います。

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