思考の部屋

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インターネット殺人

2006年02月03日 | 古代精神史

 インターネット殺人 身近な松本市においてインターネット掲示板への殺人依頼、メールを使用しての殺人報酬のやり取りという事件が発生し犯人が逮捕された。

 共謀共同正犯の犯罪は、殺害実行犯は、殺害に当り被害者と接し、その一部始終を目撃するが、謀議のもう一方である今回のような依頼者は、断末魔を目撃するわけでもなく加害者意識は薄い。 
 かつて学生運動が盛んであったころ、学内講堂における大学側と学生側との交渉の際、学生側から大学側陣営に投石があれば、暴行ないし傷害の結果が発生すれば、その場にいる学生全員が同罪だ。と共謀共同正犯理論を語った教授がいた。
 現場が現場だけに全員が、暗黙の共謀を意識し、認容し容認しただろうと、その理論は通説ではなかったが、賛同していた。
 報酬を得ることで、殺害の実行犯は、犯意を増し実行に及ぶのであるから教唆犯で処罰することになるが、平然とただお金のために凶悪犯罪を実行し、また、自分の手を汚さずに凶悪犯罪を実現するような現実社会が目の前にあると具体的な構成要件をもつ共犯条文を規定すべきであるように思う。 
 共同謀議、共同実行の事実の理論的解釈では、社会防衛上、法律の犯罪抑制効果はない。  
 犯罪という言葉の「罪」という字は「つみ」と読むが、この「つみ」という言葉は、やまと言葉で、万葉の時代から存在する。 
 外国から輸入された人権、自由というよく分からない概念を持つ言葉と異なる。

 瀧川清次郎教授の上古法制史の「日本法律思想の特質」には、  
 わが上代に於いて、犯罪のことはこれをツミと言った。これも正確に言えば罪という言葉が今日の犯罪という言葉に最も近いのであって、ツミなる語は、本来道徳、宗教、法律の規範を紊るものを総称する語であったのである。ツミはツツミの約言であって、神怒をかうべき悪しきもの、穢れたるもの、曲がれるものを神に対してツツミ隠すの意である。故にツミはまたケガレと同意義であって、ケガレから出たケガ(怪我)なる語は、ツミから出たマガツミ(禍)なる語とほぼ同義に用いられている。ツツシム(慎)という言葉も、またツミとなるべきものをツツミ隠す動作を称する語であろう。 と書かれている。 これは現代の法制史の上からの解釈であるが、古事記伝の本居宣長はこの言葉について まず都美(ツミ)といふは、都々美(ツツミ)の約まりたる言にて、もと都々牟(ツツム)といふ用言なり、都々牟とは、何事にもあれ、わろき事のあるをいふを、体言になして、都々美とも都美ともいふなり、されば都美といふは、もと人の悪行のみにはかぎらず、病ヒもろもろの禍ヒ、又穢(キタナ)きこと、醜きことなど、其の外も、すべて世に人のわろしとして、にくみきらふ事は、みな都美なり。
といっている。  
 神道の立場からみると、春日大社葉室頼昭宮司は、「神道と日本人」の中で  
 罪「つみ」というのは体を「包む身」という意味で、すばらしい神様からの体を包んで隠してしまうということである。 さらに仏教思想家ひろさちや氏は、「みそぎ考」で、共同体の「和」を乱すものが「罪」であり、「みそぎ」とは、共同体が「和」を回復する方法である。回復する方法には、①共同体の責任者を謹慎させる②お祭りによってする「みそぎ」③個人を隔離する「みそぎ」謹慎処分
などと「和を乱すもの」という。  
 次に歴史学の立場から古代における「罪と穢れ」をみると、歴史学者石母田正教授は その著「日本古代国家論」の中で、
 国の領内に起こったもろもろの罪は、族長を含む国の成員全体の、集団的、公共的な儀式によって祓除さるべきものと考えられている点、不法な占有いいかえれば共同体の成員間の私的な不法行為や罪、性的タブーを犯した罪等が、穢れや災いと同一の系列の罪として意識されていること、いいかえれば私犯が私犯として分化独立せず、共同体に対する・・正確には罪と穢れを悪む共同体の神々にたいする・・公犯として存在し、したがってそれらの罪も成員全体の公共的な祓除の儀式によってはじめて解除されるものと観念されている点にある。
という。

 「罪」という言葉を「やまと言葉」として専門的に研究している人は、私の知る限りいないようで、今の古代精神史などの研究者は大事なものを見逃しているような気がする。
 その中にあって、私が好きな解釈は国文学者の西郷信綱先生の解釈である。西郷先生は、「ツミという語は、ツツミ(包、障)と関連があるかも知れない。ツツミは、ツツムの名詞形で、事故とか障害の意である。川の堤は、水の流れをせき止め、さえぎるものだが、ツミも禁止を破って神意の働きをさまたげたり、さえぎったりするわざの意と解される。」と解釈されている(古事記注解)。  
 私はこの解釈を受け、若かりしころ日本人の古代精神の中における「つみ」という語は、「心の中の意識の流れとして自然に湧き上がる堤(つつみ)のような抑制壁を破壊する、意の働きの概念がツミという語になった。」と考えていた。 年齢も増し仏教学に興味をもつようになると「仏性、仏心」という言葉と「罪」という言葉の概念の関係に興味が向くようになった。 
 これもいつかブログに掲出したいと思う。


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