国内事情はそれぞれ国により異なるが、人権という問題を見た場合に独裁政権下と共産主義国家が、反対勢力の一掃と思想統一の為の人権抑圧や集団虐殺等で問題視される。
その中でスリランカという国は、不思議な国家である。民族紛争、LTTEによる民間人に対する継続的な攻撃、児童虐待などが改善されつつあるが、南国の天国という状況には無い。
仏教徒が大半といわれるが、内戦にみるように一概にはそうではない。しかし早くから仏教が伝えられた原始仏教(上座仏教)の国で、人々の内心にはその基盤があるといえる。
このスリランカから日本に来ている僧侶が、災害などの不幸など、自己が直面している不幸について「『今の不幸は過去世の悪業の結果かもしれません。今さらどうすることもできない。自分が犯した罪だから、人に文句を言って新たな悪業を作ってはいけません。これからどうするべきか、この不幸をどのように乗り越えるか、という事が何よりも大事です。』のように考えるのが、上座仏教徒です。」という話をしていることを知った。
無我を説く原始仏教では、仏陀は輪廻転生を無記、沈黙という形而上学の問題についてはその態度をとり続けたとしている。
私は、この僧侶の所属する仏教協会の「一夜賢者の偈」からの発想である「ここに生きる。今の瞬間の生き方」については全く同様に考えているが、上記の輪廻転生については、賛同できないでいる。
スリランカは未だに治安上不安定な国であること津波の時に見られた国民の犯罪に対する意識性に、私が理解できないでいるのはそこに問題があると思っている。
吉田松陰の「経書を読むの第一義は、聖賢におもねらぬこと要なり。」の言葉があるがまた然りである。
孔子、孟子の言葉もすばらしいが、その思想が説かれた場所や背景からその教えを自分のものにする必要がある。
「あらゆる認識は仏教の考え方によれば相対的であり、一定の意識段階にとってのみしか存在しない。」(岩波文庫仏教上ベック著P154)
仏陀の意識段階では、仏陀は形而上学的な問題に対しては何らかの答えをもっていたが、聞く諸人に対しては「無記、沈黙」で答えた。それは諸人に対し、さらなる意識の進化では、輪廻転生のような形而上学的な問題に対してはそれを乗り越える壁があり、それを越える必要があると説いているような気がする。
その中でスリランカという国は、不思議な国家である。民族紛争、LTTEによる民間人に対する継続的な攻撃、児童虐待などが改善されつつあるが、南国の天国という状況には無い。
仏教徒が大半といわれるが、内戦にみるように一概にはそうではない。しかし早くから仏教が伝えられた原始仏教(上座仏教)の国で、人々の内心にはその基盤があるといえる。
このスリランカから日本に来ている僧侶が、災害などの不幸など、自己が直面している不幸について「『今の不幸は過去世の悪業の結果かもしれません。今さらどうすることもできない。自分が犯した罪だから、人に文句を言って新たな悪業を作ってはいけません。これからどうするべきか、この不幸をどのように乗り越えるか、という事が何よりも大事です。』のように考えるのが、上座仏教徒です。」という話をしていることを知った。
無我を説く原始仏教では、仏陀は輪廻転生を無記、沈黙という形而上学の問題についてはその態度をとり続けたとしている。
私は、この僧侶の所属する仏教協会の「一夜賢者の偈」からの発想である「ここに生きる。今の瞬間の生き方」については全く同様に考えているが、上記の輪廻転生については、賛同できないでいる。
スリランカは未だに治安上不安定な国であること津波の時に見られた国民の犯罪に対する意識性に、私が理解できないでいるのはそこに問題があると思っている。
吉田松陰の「経書を読むの第一義は、聖賢におもねらぬこと要なり。」の言葉があるがまた然りである。
孔子、孟子の言葉もすばらしいが、その思想が説かれた場所や背景からその教えを自分のものにする必要がある。
「あらゆる認識は仏教の考え方によれば相対的であり、一定の意識段階にとってのみしか存在しない。」(岩波文庫仏教上ベック著P154)
仏陀の意識段階では、仏陀は形而上学的な問題に対しては何らかの答えをもっていたが、聞く諸人に対しては「無記、沈黙」で答えた。それは諸人に対し、さらなる意識の進化では、輪廻転生のような形而上学的な問題に対してはそれを乗り越える壁があり、それを越える必要があると説いているような気がする。