NHK教育テレビ「こころの時代宗教・人生」で、愛知県の安城教会の武岡洋治牧師の「打たれた傷によって」という題名の放送がなされた。
コリントの信徒への手紙1第2章第2節でパウロは、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。」という言葉がある。
武岡牧師の話を聞くと、このパウロの言葉の意味が私を直観の世界に導いてくれたような気がする。
聖書の厚みは、この一点、「イエス・キリストの十字架」要約される。聖書の作者は、イエスの悲惨な処刑の描写をしているのではない。
前回のブログで紹介した「黙想十字架の七つの言葉 加藤常昭著 教文館」で著者の加藤さんは、
聖書は主イエスの十字架を絵として描いていない。しかし、使徒パウロは自分たちが説教として語る福音が、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示す」ことであると言い切っている。
と、序文に書かれている。
武岡牧師は、名古屋大学の植物学の教授であった1992年8月に干ばつで喘ぐスーダンへ調査団の一員として訪れた。しかし、出国前のマラリア対策のための投薬とその後の投薬によりスティーブンスン・ジョンソン症候群という病気に患り死の境をさ迷い、結果的には失明に近い状態になってしまった。
武岡牧師は、若いうちから洗礼を受けていた身で、失意の中にあっても聖書の導きであろうか、その苦の中で出会う人々、出来事に常にイエスの姿を観じていた。
1995年にスーダンを再訪し、エルヌール盲学校を訪ねる。内戦と干ばつ、貧困の中で栄養失調から子ども達に失明するものが多い。
この事実と武岡牧師の薬害、どちらも本人が招いたことではない。そういうことに遭遇する運命の中で聖書は、自分にとってどう係わりを持つのか。
その問いの中で2000年3月に退官後、答えを求め同志社大学で神学を学ぶ。
「真実の和解」について武岡牧師は、爆弾による4人の黒人少女の死、その葬儀の際のキング牧師の「自ら招いたものでない死は、人を救う力がある。だから報復してはならない」という言葉、そしてナチスドイツ時代に迫害された牧師デートリッヒ・ボンヘッファーの「この人を見よ」という言葉を紹介しながら語り続ける。
世の中の力は、この人(イエス)を襲い、イエス・キリストの十字架の事実になる。
いわれなき苦難に遭う者、災難を受ける者には一つの使命がある。完全なる和解の力。完全な愛、それを「真実の和解」と武岡牧師は語る。
イエスの死、贖罪は、身代金を支払ってその人に自由を与えること。
旧約聖書イザヤ書第53章第5節
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
を、武岡牧師は読まれた。
業縁があるなら遭遇する事実。キリスト教徒(わたしは教徒ではないがわたしも含め)にとって、それはキリストの十字架を意味する。
陽は、丁度城山公園の頂上付近で昇り始める。澄みきった空気は冷たいが、朝は今まさに新鮮だ。ただそれを感ずる。秋空の雲。射し込む陽光。
今日は、城山から松本城一周と1時間あまりの走り三昧を敢行した。松本城では、放送局がテレビ中継の準備をしていた。信濃の国の歌を中心として全県各地からの中継を行なうという話であった。
休日であるので、午後は読書三昧とした。
学問的理解というか、ただ知識レベル、理解力の不足からか、なかなか体系的にものごとの理をつかめない場合がある。そして、つかんでいると思っても別の視点からの意見を聞くと、なるほどと目からうろこが落ち、理解力に弾みをつけることができるような気がする。
一市井の者にすぎない立場で、仏教とキリスト教を理解しようとなるとこのような思考を反復することになる。
信仰のためにという心の向きで、進むならば理解もそれなりに強靭だが、ただ心の赴くままに、心の奥底からの衝動に従うとき、あるとき何かが抜けていることに気づくのである。
その中で、人の出会い、本との出会いは、実に自分を新しくしてくれるものである。
小泉達人さんは牧師であるが、小泉牧師は榑林元駒沢大学総長に指導を受けるなど仏教学も深く学ばれている方である。
この方が、新教新書から「宗教を考える キリスト教と仏教の対比を軸として」という本を出されている。以下はその著の一部である。
まず第一に、仏教ではその基本的立場として、諸行無常、色即是空、と言う。これは一切の存在は決して安定的でない、ということで、それを逆に言えば自己の運命、世界の運行に対し、わたしたちは確かな平安や幸福の保証を何ひとつ持っていない、それらは常に崩壊の危機にさらされている、ということを告げるものであろう。
同じ事態をキリスト教では、主なる神、という信仰で表現する。それは自己の運命を含めて世界、自然一切の運行はただ神のみ手に握られており、わたしたちはそれに対し何ひとつ文句を付けることも、抗議することもできないということである。旧約聖書にヨブ記という書物があって、ヨブというその主人公が与えられた不当な運命に悩み苦しみ、さんざん神に抗議する。しかし最後にはこの主なる神に屈服し、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42章2節)と告白する場面があるが、この信仰をよく表している言葉と思う。仏教、キリスト教の両者ともに、わたしたち人間が、自分の人生、世界の運命を支配することができないこと、そこにはわたしたちの思いを越え、願いを粉々に打ち砕くような出来事が、常に起ることを明確に告げるのである。
しかし第二に大乗仏教はこの無常なるところの諸行(存在)、空なる色(存在)を「諸法実相」と観じ、それらすべての存在が、そのまま真実絶対であるとする。それは仏教の表現で言えば、この世界宇宙のすべてが、この自己を含めてほとけ一元の荘厳(しょうごん)世界であることを意味する。前述の諸行無常がある程度わたしたちの経験にも一致して受け入れやすいのに対し、この諸法実相はなかなか納得できない。この矛盾に満ち、悲惨と悲哀が溢れている世界が、一体どうして真実絶対の世界、ほとけ一元の世界と言えるのか、またこの罪悪深重(しんじゅう)、煩悩熾盛(しじょう)の凡夫に過ぎない自分が、どうして真実絶対の存在と言えるのか、とわたくしたちは思う。しかしこうしたわたしたちの常識的理解を捨てて、諸法実相、即身是仏と仏法の真理を信ずるところに仏教がある。道元禅師が「聞くことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるベからず。まさに正法にあらんとき、世法を捨てて仏法を受持せん。」(正法眼蔵渓聲山色)と言われている通りである。そしてそれはこの矛盾に満ちた世界、この至らない自分を大きく肯定することであろう。世界および自己のこの絶対的肯定が大乗仏教の中心的立場と言えるであろう。
一方わたしたちのキリスト教は、前述の主なる神が決して気まぐれな暴君や、厳しい一方の冷酷無残な神ではなく、愛の神であると説く。それ故この世界は、その愛の神が愛をもって創造された世界と信じている。そうであるならばこの世界の一切は、神の愛と惠みに満ちたよき世界であるはずである。現に聖書はその巻頭の物語において、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)と述べているのである。そしてわたしたち人間は、その創造の冠、また中心として、神のかたちに造られたとして、その絶対的尊厳が主張されている(創世記1章26,27節)。それは現実のわたくしたちがいかに罪深く、欠陥だらけの存在であろうとも、それを越えてわたしたちはすでに神の救いの中に置かれており、神の愛に包まれていると主張するものである。そして前にも述べたように、さすが大乗仏教といえどもこのような立場を必ずしも徹底されない場合が多く、方便としての如来や菩薩を立てて、現実には礼拝や祈願がいたるところでなされている。しかしここに徹しておられる禅宗の師家は、「仏教には祈りというものはないな」と憚らず明言する。
祈りや礼拝のない宗教など考えられない、と思われる向きも多いであろう。またその他今まで述べてきたようなことから、徹底した大乗仏教は宗教ではなく、むしろ哲学とすべきではないか、と考える方々が多いであろう。しかし絶対的真理としての仏法の探求も決して知的な探求ではなく、自己および衆生の救いのための探求である。またその仏法の把握にしても、悟り、という言葉がしばしば用いられるものの、それは決して知的理解ではない。それはむしろ信の確立を意味するであろう。
と、小泉牧師はこのようにその著書で述べている。
この文章は、今のわたしの中に「ストン」と落ちるのである。