思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

同一システム内の縁起説

2005年01月09日 | 宗教
 昨年の暮れ、母親が我が子2名を殺す事件が発生した。人里はなれた山中で石を使い頭部を殴打し殺害した事件である。
 子を持つ親としては、信じられないことであるが、幼児虐待事件は、報道されなかった潜在的な事件が、マスコミの発達により顕在化しただけだという人もあるが、小生が知る限り多く発生しており、しかも身近で認知されるようになってきている。

 津波、地震台風そして戦争、テロと自然、人為による人の死亡、殺害は、今に始まったことではないが、平和な日常生活において何ゆえにこのような悲惨な出来事が起きるのであろうか。

 そもそも人間は自然の一部である。動植物も岩石も元は同じで、地球の生成と共に今日に至っている。
 したがって自然の起す悲劇も人間が起す悲劇もまったく区別なき同類の悲劇である。

 自然災害は、地殻の変動、気象変化など人為的(地球温暖化、オゾン破壊などの人為的作用は別として)なものではない。悲劇と判断するのは、人間にかかわる生命の危機、財産損害で、人間側からの判断である。

 人類が引き起こす諸々の悲劇は、個々人特有の火種による結果ではあるが、故意(人類の意思作用)なき自然災害と結果的には同じであり、総体的には区別なき人類一体の結果である。

 イラクにおけるイラク人による自爆テロで同国人が殺害されることもアメリカ軍(反対の国民が居ようが賛成の国民が居ようが総体的にはアメリカ国民総意)によるイラク侵攻で多数のイラク国人を殺害した行為も人類総体で惹起している出来事である。
 当然その人類総体には、関係のない小生も善良な平和主義者も生まれたばかりの子も含まれる。

 人類が進化する過程で生老病死を知覚し苦の窮地に陥るのは、意識が創り出す現象に過ぎず、そうなる縁起で現在の果がある。因果(大もと)は無から有に成ったと自覚したときからである。
 有の時から人間は、罪悪深重なのであり、自然の織り成す果であり、人間側からの解釈である。
 人類は自然の一部であり同じシステム内で共存している。したがって同一システム内では、「在るべきものは在り、起こるべきものは起こり、これがあればこれになり・・・」でこの世は無矛盾の世界なのである。

 個々が罪悪深重であればそれなりの悲劇が無矛盾なく発生する。「どうにか成らないことはどうにも成らない。」私という一人の人間が生きる時に幸せと感ずるのは瞬間のみである。
 思い出という過去、これから来るかもしれない未来に意識の志向性を持つと想像という産物が過去を歪曲し、未来を歪曲する。

 縁起を自覚した瞬間に熱心に生きるならばそれは幸いといえるかもしれない。