4月からNKH教育テレビ「こころの時代 宗教・人生」で「道元のことば『正法眼蔵随聞記』にきく」が始まる。駒澤大学教授で我が長野県の伊那市常圓寺の角田泰隆住職が担当される。
そのことを知ってから、書店に出向くもテキストがまだ着ておらずようやく昨日購入することが出来た。
時代に生きた道元禅師をの姿を知るには、禅師の著作である「正法眼蔵(しょうぽうげんぞう)」、中国留学記の「宝慶記(ほうきょうき)、弟子たちの編纂した語録の「永平寺広録」、そして禅師に長年にわたり随身した懐奘(えじょう)禅師の手による「正法眼蔵随聞記(しょうぽうげんぞうずいもんき)」などが参考になるということで、手元をみると鎌田茂雄氏、水野弥穂子氏そして和辻哲郎校訂の岩波文庫がある。
随聞記に関しては、NHKラジオ第二放送で20年程前に鈴木格禅さんが講師を担当され放送されていたことを思い出した。
「知るを楽しむ」ということは、人生の楽しみにおいて欠くことのできないことである。しかし、知ることもほどほどということもある。
メディアが発達し知りたくも無いことが、心の中に入り込んでくる時代。喧騒の世を去り出奔したくなる。特に嫌悪を感ずるのはニュース報道である。連日の殺人事件の報道。さらに政治家二世をはじめとする人身を離れた人々の世界。本来やまと言葉では「人」は森羅万物の中で「秀でるもの」という意味がある。
チベット問題も悲しいものがある。生まれ変わりの素晴らしき聖者が居ようと中国政府政権下の国家の中では、聖者も悪魔的存在しかない。精神的に不安定な者なものによる殺人と同様な行為がこの世の中では、正当性の中で行われる。善悪は最終的には個人の分別に依存する。だから釈尊も最後に「自灯明」を説かれた。
日本文理大学の広田君という球児が居る。野球の好きな彼は、野球で障害を負い普通では野球をあきらめるところ、現在も野球に情熱を燃やしている。二世政治家に知ってもらいたい姿だ。
広田君は、彼の周りに居られる両親をはじめとする人たちが素晴らしいこともあるが、本人の決意を発動する心もちが凄い。
仏像に他力感をもつのを否定はしないが、拝む秀でるものが拝まれる仏像であってほしい。
和辻哲郎先生が正法眼蔵随聞記を校訂しているが、「もの」「こと」論を思うに、「こと」的感覚を離れ「もの」的感覚の中で生きることが自灯明に通じると思う。
そのことを知ってから、書店に出向くもテキストがまだ着ておらずようやく昨日購入することが出来た。
時代に生きた道元禅師をの姿を知るには、禅師の著作である「正法眼蔵(しょうぽうげんぞう)」、中国留学記の「宝慶記(ほうきょうき)、弟子たちの編纂した語録の「永平寺広録」、そして禅師に長年にわたり随身した懐奘(えじょう)禅師の手による「正法眼蔵随聞記(しょうぽうげんぞうずいもんき)」などが参考になるということで、手元をみると鎌田茂雄氏、水野弥穂子氏そして和辻哲郎校訂の岩波文庫がある。
随聞記に関しては、NHKラジオ第二放送で20年程前に鈴木格禅さんが講師を担当され放送されていたことを思い出した。
「知るを楽しむ」ということは、人生の楽しみにおいて欠くことのできないことである。しかし、知ることもほどほどということもある。
メディアが発達し知りたくも無いことが、心の中に入り込んでくる時代。喧騒の世を去り出奔したくなる。特に嫌悪を感ずるのはニュース報道である。連日の殺人事件の報道。さらに政治家二世をはじめとする人身を離れた人々の世界。本来やまと言葉では「人」は森羅万物の中で「秀でるもの」という意味がある。
チベット問題も悲しいものがある。生まれ変わりの素晴らしき聖者が居ようと中国政府政権下の国家の中では、聖者も悪魔的存在しかない。精神的に不安定な者なものによる殺人と同様な行為がこの世の中では、正当性の中で行われる。善悪は最終的には個人の分別に依存する。だから釈尊も最後に「自灯明」を説かれた。
日本文理大学の広田君という球児が居る。野球の好きな彼は、野球で障害を負い普通では野球をあきらめるところ、現在も野球に情熱を燃やしている。二世政治家に知ってもらいたい姿だ。
広田君は、彼の周りに居られる両親をはじめとする人たちが素晴らしいこともあるが、本人の決意を発動する心もちが凄い。
仏像に他力感をもつのを否定はしないが、拝む秀でるものが拝まれる仏像であってほしい。
和辻哲郎先生が正法眼蔵随聞記を校訂しているが、「もの」「こと」論を思うに、「こと」的感覚を離れ「もの」的感覚の中で生きることが自灯明に通じると思う。