MA社会研究所情報

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東大安田講堂落城。全共闘のその後。医師、国会議員、塾教師、整備場、農業。不況でまたデモ、ストか。

2009-01-17 12:41:46 | Weblog
テレビで「安田講堂落城から40年ー学生たちのその後」の番組を見た。
1969年1月18-19日、全学共闘会議の学生運動家が占拠した東大安田講堂が機動隊の攻撃を受けて落城した。40年後の活動家の状況を放送していた。
1968年ごろからアメリカのベトナム戦争に反対する学生、市民のデモやストの政治運動が激化していった。
東大では医学部のインターンがただ働きでは困ると異議をとなえて安田講堂を占拠した。すぐ機動隊が導入され排除されたが、学生は大学の自治、学問の自由を守る神聖な大学に機動隊が入ったと反発し、再度、安田講堂が占拠された。直接民主主義が良いといって、何度も数千人の学生と大学当局側との大衆団交が行われた。
日大では不正経理問題に学生が怒り、日大講堂で大衆団交が行われ、大学側が謝罪したが、三日後に撤回した。大学は占拠され、右翼が襲撃したり戦場のようになった。
東大安田講堂に機動隊が攻撃を開始し、学生は火炎瓶を投げて抵抗した、神田地区の大学から学生が出撃し解放区を作った。翌日、機動隊は安田講堂に突入し学生を逮捕した。
(これにより、大衆的な全共闘の学生運動は退潮し、一部が過激化して連合赤軍を作り武装革命をめざしたが、浅間山荘銃撃戦で逮捕された。多くの人々が全共闘運動から離れていき、普通に会社に就職してよく働き、重役になった人も多い。)

東大全共闘の安田講堂防衛隊長だった人は、医者になり長野の病院を改革し、地域医療に努力した。国会議員になり活動した。東大全共闘議長は塾の教師になった。
東大助手をしていた人は昇進せず助手のまま東大を定年になった。障害児を育てるのが生きがいになった。成田空港問題で、三里塚の農民の闘争を支援して結婚して、農民になった人もいる。
日大全共闘議長は職業を転々としてから、故郷に帰り自動車修理工場を経営していた。
利益追求の資本主義、侵略的な日本帝国主義のなかで、それに加担する自分を自己否定し、自己批判して戦った人々は東大安田講堂落城後さまざまな人生を送った。
1989年のソ連分解後、共産主義は力を失ない、新自由主義の資本主義、市場競争主義が世界を支配したが、最近のアメリカの大不況は世界不況になり、大企業、中小企業が倒産し、資本主義の危機が感じられる。
日本でも最近は、労働者文学の蟹工船が読まれ、マルクスの共産主義が復活している。60年代のようなストやデモの政治活動が盛んになるかもしれない。