中国に数日間行ってきた。往復の機内で読んだのは、杉山正明『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(講談社学術文庫、2010年、原著1995年)。つまり、当時世界最大の都市であった杭州に、意識せずして本書を持ちこんだというわけ。世界史全般の通史では、モンゴルの世界席巻についていまひとつ不可解であり、知りたかったところでもあった。
ここに書かれているのは、世界システムの姿を変えたモンゴル、帝国の姿を変えたモンゴルである。世界システム論を提唱した人物にイマニュエル・ウォーラーステインがいるが(私は舛添要一の授業でその名前を知った)、著者は、彼についてヨーロッパ偏重であり「モンゴルを知らない」とばっさりと批判する。それだけでなく、歴史というものが特定のイメージに支配され、偏向と限界とを孕んでいることを、歴史家として自ら吐露する。この覚悟には読みながら気圧される。
「・・・歴史家というものは、既存のイメージや文献の表面にまどわされることなく、なにがはたして「本当の事実」なのか、ぎりぎりまでつっこんで真相を見きわめようとすると、じつはたいてい無力である。」(!!)
モンゴルについての既存のイメージは、野蛮、残酷、草のにおいのする戦闘集団、チンギスとクビライ、元寇、マルコ・ポーロ、タタールのくびき、といったところ、本書はそれらのひとつひとつを(歴史学の限界を提示しながら)再検証している。そこから浮かび上がってくるモンゴル帝国の新奇性、斬新さには夢中になってしまう。
○モンゴルがロシアに破壊と殺戮を加えたという「タタールのくびき」は、根拠に乏しい。実態は、ロシア側がモンゴルの権力を利用する形で支配を受け、モンゴルの世界システムに取りこまれるものだった。
○権力の多重構造がモンゴル帝国の特徴のひとつであり、多極化は内部抗争とは似て非なるものだった。すなわち、現代の国家観を歴史の実態にあうようにとらえなおす必要がある。
○モンゴル帝国、イコール、中華王朝(元朝)ではない。これは文献の偏りに起因する既存イメージのひとつである。
○草原の軍事力、中華の経済力、ムスリムの商業力がモンゴル帝国の柱であった。自由な商業がグローバルな交流を生むこととなった。福岡をその交流圏の東端として捉えることもできる。これが華僑の東南アジアへの拡がり、インドネシアのムスリム化の要因ともなった。
○東アジア全域での道路システムの整備は、史上はじめてのことであった。それを草原とオアシスの世界を横断する駅伝ルートと連結して、ユーラシア全域をひとつの陸上交通体系でつなげたのは、人類史上はじめてのことだった(あるいはこのときだけ)。そして、モンゴル帝国は、中国からイラン・アラブ方面にいたる海域をも掌握した。上海はこのとき歴史上に姿を現した。
○南宋への攻撃において採用した、都市化による包囲は、「不殺の思想」であり、「戦争の産業化」であった。
○元寇、とくに第一回の文永の役は、南宋攻撃の一環として位置づけられる。「元寇」だけをクローズアップするのは、「巨大な外圧」というイメージが好まれた結果である。しかし、第三回がなされていたならば(モンゴル内部の政治情勢変動により実行されなかった)、日本はあやうかった。
○銀を共通の価値とする「銀世界」は、ユーラシア全体に拡がった。銀と、それにぶらさがる紙幣、自由な物流とそれによる国家収入、通商帝国というにふさわしいシステムであった。
○日中交流史上、近現代をのぞくと、もっともさかんであったのはモンゴル時代である。
○モンゴル帝国を揺るがしたのは、14世紀の「地球規模の災厄」であった。これをヨーロッパだけに限定して考えてはならない。
○モンゴルを否定し、漢族主義・中華主義を標榜した明朝は、明らかに、巨大敵国の方式をモンゴルから受け継いでいた。そのパターンを取りこんだ「巨大な中華」は、明、清、民国を経て現在に生き続けている。
○明が独裁専制の「内向き」帝国になり下がらなければ、「大航海時代」は、少なくともアジア・アフリカ方面に関しては、ヨーロッパ人のものであったかどうかわからない。(!!) 「モンゴル・システム」が生き続けていれば、東からの「大航海時代」がなかったとはいいきれない。少なくとも14世紀までは、技術力、産業力、それから海洋の利用において、「東方」が「西方」を凌駕していた。
歴史の「たら、れば」はともかく、「モンゴルの時代」の面白さについて、これでもかと示してくれる本である。
いやまったく。「三国志」愛読者の中国史マニアとか、司馬愛読者の幕末マニアとか、戦国時代マニアとかいますが、ドラマ的であり、話が広がらないつらさがあります。
> 岡田英弘の『世界史の誕生』
気になってはいたのですが未読です。そのうちに・・・。
モンゴルの視点あるいは交易・商業の視点から歴史を眺めると,従来の「中国史」「ヨーロッパ史」あるいは「日本史」といった枠組みがいかに窮屈なものであるかを痛感します。
こういうスケールの大きな本を読むと,私自身の関心も柄谷行人からジャレド・ダイアモンド,網野善彦等々までどんどん広がって行くのもまた楽しいです。