山際康之『兵隊になった沢村栄治―戦時下職業野球連盟の偽装工作』(ちくま新書、2016年)を読む。
戦前の大エース・沢村栄治は、1934年の日米野球において、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグを擁するアメリカチームを、ゲーリッグのホームラン1点に抑えた。この快投はいまや何度も語られた伝説であり、それに対してアメリカチームが逆光でボールが見えにくかったと反論したことも、おそらく言い訳に過ぎないのだろう。現在と違って、逆立ちしても勝てないほどの実力差があった時代のことである。
しかし、軍に召集されるたびに、沢村の身体は野球人のそれから兵士のそれに変貌してゆき、戻ってきても良い数字を残すことができなくなっていった。身体だけではない。手榴弾投げを率先して行うなど、精神的にも軍に順応せざるを得なくなったことが、本書を読むと痛いほど伝わってくる。そして3度目の召集で、沢村は戦死した。
よく知られていることだが、戦時中には、野球用語は日本風のものに変更させられた(ストライクを「ヨシ」、アウトを「引ケ」とするなど)。それは野球という活動を軍に潰されないための苦渋の選択でもあった。そのことは念頭に置くべきだとしても、スタルヒンを「須田博」と改名させるなど人権侵害以外のなにものでもなかった。「須田」は、日露戦争の軍神・廣瀬武夫の銅像があった須田町から、「博」は「廣瀬」の「廣」としようとしたが、俳優・藤原釜足が藤原鎌足をもじって国民的尊厳を軽視しているとして藤原鶏太に改名させられたことを鑑みて、読みだけ同じにしたのだという。
チーム名も変えることになった(タイガースを阪神軍に、イーグルスを黒鷲軍に)。怖ろしいことに、それは上からの圧力とばかりは言えなかった(もっとも、すべてが自発的な判断としてなされるよう仕向けられたとしても)。名古屋軍の「名」のマークはナチスの鉤十字に似せられた。また、セネタースの東京翼軍は一般公募ではあるが、その「翼」とは、大政翼賛会から思いついたものであったという。いまでもあちこちで見られる、権力と風潮への行き過ぎた同調である。
軍は、勝負が決したあとの9回裏を行わないことや、「引き分け」を、精神的によくないものとして、やめさせようとした。実にばかげたことではあるが、高校野球に残る精神主義はこの名残なのかもしれない。
職業野球連盟は野球人たちを戦地に行かせぬよう、大学に入れたり、別の形で軍に協力するなど、本書でいうところの「偽装工作」に努めた。しかし、それは何にもならなかった。