Sightsong

自縄自縛日記

平頂山事件とは何だったのか

2009-06-17 00:24:22 | 中国・台湾

沖縄平和ネット首都圏の会が旧「満州」連続学習会として開催した「平頂山事件とは何だったのか」を聴いてきた(2009/6/16、岩波セミナールーム)。講師は大江京子弁護士。

平頂山事件はあまり知られていないが、旧満州の撫順近くにある平頂山において、関東軍が中国の住民約3,000人(諸説あり)を虐殺した事件である。本多勝一『中国への旅』でもとりあげられているようだ(私はまだ読んでいない)。講師の大江弁護士は、生き残った方々―――これを幸存者と呼ぶ―――が日本を訴えた裁判の弁護団の一員として関わっている。

結果的には、2006年に最高裁が上告を棄却し、原告敗訴という形になっている。ただし、賠償について認められなかったということであって、関東軍の犯した虐殺という事実については、地裁・高裁ともに認定している

以下、講演の要旨。

1928年6月、張作霖爆殺。1931年9月、柳条湖事件。1932年3月、満州国建設。智謀として関東軍参謀となった石原莞爾は「満蒙領有論」者であった。すなわち、中国人よりは日本人のほうが「満蒙」を発展させることができ、それは現地の幸福にもつながるという、極めて偏った構想である。事件の起きた撫順炭坑は、東北地方随一の出炭量を誇っていたため、権益上重要だった。

1932年9月、抗日義勇軍(関東軍はこれを「匪賊」と称した)が撫順を攻撃し、炭坑は大きな被害を受けた。これは幼少時撫順に住んでいた李香蘭の自伝にもある。同年5月に関東軍参謀長の通達として出されたところによると、「匪賊」に対しては、厳重処分を独断専行で行うものとされた。これは武力を用いること、「処刑」と解された。

警戒態勢にありながら攻撃された関東軍は面子をつぶされ、「住民が抗日義勇軍に通じていて日本軍に通報しなかった」ものとして、3,000人ほどの住民を皆殺しにせよという決定を下した。「写真を撮る」などと騙して集め、機銃による一斉射撃を行った。さらに「生存者狩り」として、息のある者を次々に刺殺した。その後、証拠隠滅のため、全住居を燃やし、崖をダイナマイトで発破して土砂で死体を覆った。一連の作業に、炭坑夫までが手伝わされ、その手記が残されている。そして現場には、800体ほどの遺骨が発掘され残っている。

原告のひとり楊宝山さん(当時10歳)は、射撃されている間、母親に庇われた。母がまったく言葉を発しなくなり、「しょっぱく、熱いもの」が口の中に入った。母の血だった。そのことを話すとき、楊さんはいまだに涙が溢れ言葉に詰まってしまう。

原告のひとり方素栄さん(当時4歳)は、一旦は弟とともに生き残った。死んだ振りをしていたが、軍人が血だまりを踏んで「ぐしゅっぐしゅっ」という音をさせながら近づいてくると、弟が母を呼ぶ声をあげてしまった。弟は軍人に刺され、投げ捨てられた。

この虐殺は外国特派員などの目にとまり、隠しおおせなくなった。日本ではまったく報道されず、中国での日本紙でもそうだった。李香蘭も近くに住んでいたがこのことを後年まで知らなかった。

1994年、長野法務大臣(当時)が、南京大虐殺は無かったという旨の発言をし、大きな反発があった。そのとき、別件で中国に居た日本の弁護士たちは急遽記者会見を開き、その発言が史実に反し問題であるとの表明をした。その流れから、「たまたま」本件の弁護団になってしまった。ただ当時、七三一部隊や南京大虐殺と違い、日本に平頂山事件の専門家がいなかったため、非情に苦労した。

裁判の第一の目的は、事実を司法により認定させることだった。それに基づき賠償を請求することができるという目論見であった。そして東京地裁、東京高裁では、虐殺の事実を詳細に認定した。しかし賠償は認められなかった。理由は、戦前に行った行為について責任を問われないという「国家無答責の法理」であった。実際には、戦争行為と直接的に関係しない報復・見せしめの殺戮行為であり、筋の通らない判決であった。2006年、最高裁は上告を棄却した。

裁判を開始した頃、弁護士であっても、日本人だということで原告側の不信感は大きいものだった。原告のひとり莫徳勝さん(故人、当時7歳)は、1997年はじめて来日する際、「生きて帰れない」という覚悟だった。ところが、話を聴いて涙を流す人やいること、平和を愛する人がいることに衝撃を受けた。帰郷して撫順でその話をしても誰も信用してくれなかったという。また、裁判費用も日本の市民カンパなどでまかなわれていることがわかってきて、交流を通じて信頼感が生まれてきた。賠償という点で裁判には負けたが、オカネなどは大きな問題ではない、国境を越えて信頼関係が築かれたことが成果だとの発言もあった。市民レベルでのこうした交流がなければ、国交も空疎なものとなろう。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2009-06-17 21:50:40
よい講演会に参加なさいましたね。
その日は別件とかち合っていて、残念なことをしました。
 
平頂山事件は日中戦争の比較的初期の事件であったせいか、日本では知らない人の方が多いですね。
北坦村の毒ガス事件と並んで、中国の人々が三光作戦と呼ぶ虐殺事件の中では象徴的な事件ですね。
たしかに、参考資料が少なくて調べにくいですね。いささか古いのですが、青木書店から出ている『平頂山事件??消えた中国の村』が全貌を知るにはいいです。

ちなみに、張作霖爆殺までの関東軍参謀は河本大作で、この男は事件の責任を取らされた形で降格し、石原莞爾はそのあとを引き継いだ形だと思います。そして彼が満蒙領有論者であったのはその初期のうちだけで、すぐに五族共和、王道楽土の満州独立論者に変わっています。策士と言うか狡猾と言うか。
 
魑魅魍魎が暗躍する満州国は、非常に研究のしがいがあります。
 
日中戦争のことになるとつい語ってしまいます。
長くなってすみません。
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Unknown (Sightsong)
2009-06-17 22:50:11
ひまわり博士さん
文献のご紹介ありがとうございます。この大江さんの高文研の本を含めあたってみたいところです。
そうですね、智謀石原、実行板垣のコンビですね。石原の世界最終戦争、殲滅戦の思想は、最近でも小林英夫『日中戦争』で厳しく批判されていたのが印象的です。なるほど、その後さらに怪しく変貌するのですね。これはこれで確かに興味があります。
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