Sightsong

自縄自縛日記

ヴィクトル・I・ストイキツァ『幻視絵画の詩学』、澁澤龍彦+巖谷國士『裸婦の中の裸婦』

2009-03-16 23:08:22 | ヨーロッパ

インターネット新聞JanJanに、ヴィクトル・I・ストイキツァ『幻視絵画の詩学』(三元社、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『幻視絵画の詩学』の感想

 本書は、主に16、17世紀のスペインにおけるキリスト教絵画を分析の対象としている。それも、ただの歴史や神話ではなく、<幻視>(見えるはずのないものが見えること)を題材にした作品のみを執拗に追っている点が独特だ。幻想絵画ではなく、幻視絵画である。

 <幻視絵画>とは、絵画の中で何者かが幻を視ている状態があることを意味する。すなわち、この絵画を見ることによって、視る者を視る、という奇妙な関係が結ばれることになるのだ。著者のストイキツァは、さらにその共犯関係を万遍なく視まわす。本書がつくりだしているのは、そのような複層的な視線と、背後に隠れる思惑とが織り成すドラマである。

 キリスト教の始まりから<幻視>があったわけでは勿論ない。後年、聖者のような特別な存在が、神からの恩寵なのか、イエスや聖母マリアを突然視てしまうのである。驚くべきことには、視るだけでなく、マリアの乳房から放たれる乳を授かったという聖ベルナルドゥスという人物さえもいる。その一方で、幻視の真実性が検証され、虚言だとされた者もいたようだ。

 現代に生きる私たちは、それが作られた物語であることを<知っている>かもしれない。しかし、その時代の人々にとっては、テキストや口承、そして何より絵画こそが、物語を発見し、再体験し、共有するための、かけがえのない媒体であったことは容易に想像できることだ。第三者的な評価は有り得ないのである。

 興味深いことに、特定の幻視テーマを扱う絵画の作成が<コード>に沿ったものと化していき(何と、驚愕や忘我などを表すための眼や手の描画パターン集が発行されていた!)、職人芸に取り込まれていく。そして教会は、幻視絵画を<権力>強化のためのツールとして用いた。幻視という個人内部の超常現象を外部に伝えるための絵画が、権威として確立されたものとなると、逆に内部の信心を高めるための装置へと反転するわけだ。

 こういったダイナミクスは本書で開陳される一部分に過ぎない。読者は、ストイキツァが次々に繰り出してくる語りに心地よく乗せられてしまう。快感に近い知的興奮が得られる書物だ。

◇ ◇ ◇

16、17世紀のスペインにおける<幻視絵画>に執拗に拘泥した分析である。いやもう、ストイキツァの語り(騙り?)の芸にやられてしまう。このひとの著書ははじめて読んだが、美術史における<影>の存在を追及した『影の歴史』なんてものも読んでみたいところだ。

ベラスケスも幻視絵画を手がけていたようであり、そういえばと思い出し、澁澤龍彦+巖谷國士『裸婦の中の裸婦』(文春文庫、1997年)を棚から探し出した。ここでは、澁澤は、ベラスケスの『鏡を見るウェヌス』をとりあげて与太話を繰り広げている。何でも唯一現存するベラスケスの裸婦像だそうだ。

それはそれとして、スペイン絵画が18世紀にいたるまで表現したヌード絵画は、この作品と、有名なゴヤ『裸のマハ』くらいで、それ以外にはせいぜいイエス、髭のはえた聖者、マグダラのマリアくらいだろうなと語っている(仮想の対話)。しかし、ストイキツァが見せてくれるのは、聖母マリアが空中に放った乳を受けるという幻視の絵画であり、碩学の澁澤といえど、この授乳の絵画パターンを認識していなかったのだろうか。少なくとも、私は宗教画に疎いこともあり、こんなものがあるのかと驚いた。


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