goo blog サービス終了のお知らせ 

Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

南西からの強い風

2017年01月27日 12時59分14秒 | 天気と自然災害
 横浜は強い風が朝から吹いている。気象庁のデータによると約12メートルの南西の風邪である。南側のベランダに吹き込むように生暖かい風が待っている。東西に胸が並んでいる団地なので、ほとんどの風は東西に吹く。それでも若干の向きの違いや、号棟の合間から北風や南風が吹いてきて、複雑に音を立てて舞うことがある。
 本日も欅の木の枝が、煽られて悲鳴を上げている。窓越しからは暖かい陽射しがさしており、音がなければ心地よい春の感じである。
 横浜では南西の風ですでに13℃を超えているらしいが、都内は北風で横浜よりは5℃も低いとのこと。わずか20キロしか離れていないところでこんなにも差があるのは不思議である。

 我が家のセキセイインコは朝籠を覆っている風呂敷を取り除くと、ベランダに堕してもらえると察するようで一番上の止まり木に止まって支度をする。喜んでいるように見える。しかし本日のように風が強い日や、曇った冬の寒い日は外には出さない。すると不満なのか、声を出して催促する。だが、硝子戸をあけて風が舞い込んだりするのを見せるとすぐにあきらめる。風が強いと不気味な雰囲気に思えるのであろう。本能なのであろうか。以後はおとなしくしている。

 風はさらに強くなってきた。正午前には13.4mとなり、今は風の音がさらに強くなっている。出かけるには勇気がいる。頭の防護のために少し厚めの記事の野球帽を探している。

 これから「関戸勇写真展『よみがえる大坊珈琲店』に赴く。

「ふりかけ」を作る

2017年01月27日 11時05分12秒 | 料理関連&お酒
 昔から「ふりかけ」というものはほとんど使わなかった。親が好みではないようで、私の子どもの頃にはそのようなものは食卓には上らなかった。妻もふりかけを家で常備したことはなかったらしい。
 学生時代に「のり玉」を購入したが、あまりの塩辛さにびっくりして一度だけで懲りてしまった。そのまま放置したら湿気たので廃棄した。
 勤め始めてしばらくしていわゆる「のり弁」が流行り出したころに、気になったのは御飯に何やら一振りかけていたことだ。よく見ると塩であった。塩で御飯に味をつけていたのだ。みんなが「御飯が美味しい」というのを聞いたが、その「美味しさの秘密」が塩であることを知り、それとなく高血圧の人には注意をしたことがある。
 こんな敬虔もあり、最近までふりかけにはほとんど使ったことがなかった。つい先日鰹節と胡麻と海苔のふりかけをたまたまもらい、塩は使用しておらず、鰹節と海苔の味が気に入ったので小さな一袋を使い切った。
 そのふりかけがなくなってから、塩味や人工の味がないのは意外に美味しいものだな、と思って自分でふりかけを作ってみることにした。

 思いついたのは単純。乾物で利用できそうなものをミキサーで粉砕して混ぜるとというもの。
 材料はお猪口に一杯ずつの鰹節、海苔、アオサ、炒った白胡麻、乾燥大根葉、乾燥ほうれん草、乾燥ひじき、緑茶、干し蝦、煮干し(小3本)。少々高めだったがスーパーではなく乾物屋で小さな袋入りのものをそれぞれ購入した。煮干しと緑茶、白ごま、海苔、鰹節、アオサは自宅の備え付けのものを利用。残った材料は他の料理でも使える。
 これをそれぞれにミキサーにかけて、100円ショップで購入したふりかけ用の容器に入れて混ぜるだけ。
 ところがミキサーというのはあっという間にあまりに細かくしてしまった。細かすぎるので歯触りがまったくなくなってしまったのは残念であった。ただし、干しエビと乾燥大根葉はあまり細かくならない。大粒のものが残った。
 もうひとつの反省点は、干し蝦が多すぎたこと。これだけは味が濃かったので三分の一くらいで充分であった。

 妻からはミキサーよりもフードプロセッサーの方がいいのではないか、とのことを言われたが、我が家にはそのようなものはない。そしてとても細かいのだが、白胡麻の油分のためだろうか、粉同士がくっついて粉体に粘りがある。そのために容器の穴をひろげないとうまく降りかけられない。この穴を広げないといけない。ミニペンチでは広がらないので焼け火箸で挑戦することにした。これから挑戦である。

 しかし味は悪くない。それほどカロリーが高いものでもない。人生65年、ふりかけを常備するとは思いもよらなかった。
 ということで、我が家の冷蔵庫に赤いキャップのふりかけが常備されることとなった。お茶漬けにも、みそ汁にも、お粥にもいい。

 乾燥昆布や乾燥椎茸、陳皮も入れてみたかったが、量が増えすぎるので今回は断念。

「雪の暮鴫はもどつて居るような」(蕪村)

2017年01月26日 22時12分12秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は右の臀部の筋肉がことのほか痛い。午後に整形外科で右足の牽引を行ったが、家についてみるとやはり筋肉に張りがある。
 牽引だけでは治癒は難しいのかもしれない、と思えてきた。しかし他に改善の方法が思い浮かばない。夕方から湿布をしているが、痛みは薄らいでいない。
 牽引というものの治療効果は結構限定的になのだろう。

★雪の暮鴫はもどって居るような
 西行の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」を下敷きにしている。鴫立つ沢の固定的な風景だが、それを冬に情景にして、しかも「戻ってくる鴫」に仕立て上げた。
 日本では鴫は、渡りの途中の春と秋に見られるが、場所が転換して、北の土地で詠んだことになる。「居るような」という日常語が、和歌的な美の世界から俳句ならではの世界への橋渡しとなっている。

 少々早いが本日はこれにて閉店。明日は友人と「関戸勇写真展『よみがえる大坊珈琲店』」を夕方から見に行く予定。たぶんその後は軽く2~3人で飲み会。

「寒月や鋸岩のあからさま」(蕪村)

2017年01月26日 18時00分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★寒月や鋸岩のあからさま

《峨眉露頂図(蕪村)》
 

 ここで鋸(のこぎり)岩というのはどこを指すのかは不明らしい。鋸岩、鋸岳はいくつもあるようだが、多分山頂稜線に岩の露出が長く続いている山をいうのであろう。冬の煌々とした大気と月に照らされて天空高くくっきりと聳えているの情景を詠んだものと思っていた。キリッとしまった冷たい大気と、荘厳さを感じる。
 実は昔寒月は満月に近い月のようなイメージの解説を読んで、それを信じていた。しかし今私が読んでいる角川ソフィア文庫(訳注:玉城司)の解説では、蕪村には掲出のような「峨眉露頂図」という重要文化財に指定された作品を参考として記載してある。この絵画作品では寒月は細い三日月である。この「峨眉露頂図」とこの句がリンクしているとしたら、街中からこのような細い月の明かりで「鋸状の山」のいただきを見るのは無理がありそうだ。きって作者もそれなりに高い箇所から山をみていると思われる。花崗岩の白っぽい岩屑に覆われた稜線から手に取るような近場で、高く険しい山のいただきを見ている作者をわたしは想像してしまう。
 結句の「あからさま」という語が気に入っている。自分で使ってみたが納得した句は作れなかった。

ベートーベン「交響曲第4番」

2017年01月26日 11時27分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ベルナルト・ハイティンクの指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるベートーベンの交響曲全集から、本日は第4番(1806年)。たまたまだろうが、私の好きな第8番と同じCDに入っている。録音は1987年となっている。
 この禅宗の解説では「至上繊細さに満ちた第4番では、表面的にはモーツアルトやハイドンに戻っているように見えるが、へーとーぺんの優雅さとエネルギーを秘めた、古典的な作品構成の最高の例として見られるべき」と記してある。
 また諸井三郎氏の全音のスコア解説では、「内容は、明るく、かつ生々としている」となっている。



 この第4番は、私が敬遠している曲である。どうしても好きになれない。第1楽章の導入部緩やかであるが、主題提示部分以降の過剰な装飾音が続く。ここが私にはあまり好きになれないところだ。旋律がリズムに寸断されて聴こえる。リズムが旋律を凌駕してしまう。
 諸井三郎氏の解説では、第1楽章はソナタ形式で提示部が少しだけ長め、第2楽章は展開部を持たないソナタ形式、第3楽章はロンド形式をもとにしたスケルツォ、第4楽章は提示部、展開部、再現部に終始部を持った4部構成のソナタ形式、とされている。

   

 第2楽章はヴァイオリンの第1主題とクラリネットの第2主題は美しい。特に哀調あるクラリネットの響きは美しい。しかし第1主題を支える飛び跳ねるような律動が私の耳には馴染まない。
 第3楽章のスケルツォはベートーベンらしいスケルツォだと思う。切れ切れの律動性の強い旋律がやはり苦手だ。
 第4楽章も第3楽章に続いて慌ただしい。「この楽章は聴いていると元気が出る」とむかし友人が言っていた。そのとおりだと思うが、「陽気さ」とはちがう何かあまりに人工的なにおいが強い。

 確かにどの音楽も伝承や土俗や習俗に基づいた民謡の水準から世界性を獲得してヨーロッパという枠組みをさらに飛び越えて流布するには、「人工」的なことは免れない。だがその「人工」的であるがゆえに鑑賞する個々の人間には届かない場合があるのが当然である。それを前提として、この私の心にとどかないという違和感との付き合いもまた鑑賞の仕方でもある。私が求める音楽とはどこか異質なところがある、といつも心の中で自問自答しながらベートーベンの音楽を聴いている。この違和感がこの第4番がどうしても大きい。これ以上どうにもうまく表現できないのがもどかしい。

            

65歳までの働き方

2017年01月25日 22時07分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は現役時代の少しだけ後輩というよりも仲の良い友人だった方と実に6年ぶりくらいに挨拶を交わして、職場の近くの居酒屋で1時間ほど話をした。定年後3年ほど勤めたが「もう疲れた」ということで、完全リタイヤということを言っていた。
 最近はそのような方がかなりいる。60~65歳は体調を崩しやすい年齢なのかもしれない。また再任用という雇用形態が、定年の延長ではないので、職場での位置の取り方がなかなか難しいようだ。60歳定年までならば、若手の指導や、クレーム対策などの一定の役割を職場で果たすこともできるし、やりがいもある。しかし再雇用というとどこかお手伝い的な側面もあり、若手の始動もやりにくいし、クレーム対応も相手に対する重みを示すのが難しい。結局自分の位置が中途半端に思えて、働き続ける意欲が減退していく、という声をよく聴く。
 この友人からも同じようなことを言っている。

 私は再任用には応じなかったが、60歳から65歳の方の処遇、働き方についてはもっといろいろな議論を前向きに丁寧にこなしていかないと、さらなる雇用延長に繋がらないと感じた1時間であった。

 私が解決できることでもないが、また年度内に遭うことを約束して別れた。退職者会の加入の話はまだできなかった。

 しかし今日訪れた居酒屋、日本酒を2合ほどと2皿で3200円。少し高かったけれども美味しいお酒とつまみであった。結構凝っている。財布にゆとりのある時にはもう一度行ってみたい。


本日の読了「幻想の肖像」(澁澤龍彦)

2017年01月25日 20時39分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
    

 一昨日読んでいた「幻想の肖像」(河出文庫、澁澤龍彦)を本日の午後、友人との待ち合わせをしているうちに読み終わった。
 ピエロ・デ・コシモ、カルバッチオ、デューラー、クラナッハ、ボッティチェリ、ヒエロニムス・ボッス、ベラスケス、ゴヤ、クリムト、マックス・エルンスト、バーン・ジョーンズ、ルドン、ダリなどの普段気に留めている画家の作品の鑑賞の一助になると思う。
 じっくり読むとなかなか示唆に富む書物である。引き続き澁澤龍彦の著作に今後は注目しておこう。

久しぶりに図書館で予約

2017年01月25日 14時54分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
13時半から昼食、訪問した職場の傍の図書館で本2冊を予約。自宅からでも予約はできるが、今回は備え付けの端末を利用してみた。受け取りは自宅の最寄りの図書館。

1、西洋美術の流れ(岩波書店)
2、信仰の眼で読み解く絵画2ーブリューゲル、デューラー、クラーナッハー(いのちのことば社)

2の「信仰に・・」というのに興味が湧いた。私にはわからない世界からの視点、どんなものであろうか。

夕方までの時間は珈琲タイム。

与謝蕪村の句

2017年01月25日 09時24分51秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩寝る前に自分の部屋の本棚の前で、ふと立ち読み。角川ソフィア文庫の「蕪村俳句集」。蕪村の俳句は好きである。芭蕉の句は、解説もたくさんあるし、「奥の細道」「更科紀行」「野ざらし紀行」など有名な俳文もあり、目にする機会が多いので理解できる句もそれなりにある。しかしその他の江戸時代の俳人の作品は当時の風俗などをしらないと分かりにくい。
 蕪村といえども、平易だといわれる一茶でも、句集を開いただけでは理解できない。それでも惹かれる句がそれなりにある。この角川ソフィア文庫の「蕪村句集」は1000句の解説である。初心者には便利である。ただしいろいろと内容について議論はあるらしい。盲信せずに他の解釈があれば受け入れる気持ちを持って参考としたい、

 私は古典に材をとった句が好きである。学校で古文の時間になればすぐにでも教わる俳句の中に、
・鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
は必ず入っている。私も真っ先にこの句をおぼえた。むろん萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」も幾度も呼んで理解しようとしたが、古典に材を得た作品ほどには感銘しなかった。他にも次のような句が見つかる。

・公達に狐化けたり宵の春
・易水にねぶか流るる寒さかな
・寒月や衆徒(しゆと)の群議の過ぎて後
・伏勢の錣(しころ)にとまる胡蝶かな

 古典の時代と蕪村の時代の今が、時空を超えて自在に行き来する世界に10代前半の私はワクワクした。古典の出所やその意味するところを正しく、詳しく理解できたわけでもないが、自由な想念の世界をたった17文字で表現してしまうことが、脅威であった。
 そんなことを思い出しながら、いくつかの句を書き留めてみた。

 風邪で寝込んでいるときには、この本をひっぱり出してくれば、良かったかもしれない。任意の個所から読める。1ページに2句だからそれほど頭のエネルギーを使わなくても済む。分からなければ飛ばしてわかるところだけ目をとおせばよかった。
 もう風邪などこじらせたくないが、もしもそのような時にはせっかく私のへやにあるのだから、この文庫本を手にすることにしよう。

膝の具合

2017年01月24日 21時27分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 痛めた左膝の具合はかなり良くなった。本日はゆっくりとした歩きで、結果的には1万歩を超えた。左膝に負担がかかったかと心配したが、今のところ痛くもなっていないし、膝の動きに違和感は生じていない。
 逆に帰宅寸前に右膝に軽い痛みと違和感が生じた。また朝から右のお尻の筋肉に痛みがある。左膝を庇っているためだと思われる。お尻の筋肉痛はそれほど心配はしていないが、膝のお皿の裏の軽い痛みは気をつけないとまずい。
 風呂で十分に温めてから早寝ということにしたい。

 明日も本日と同じくらい歩く可能性がある。本日よりもゆっくりと、早目に歩くのは切り上げたい。そして杖をリュックに入れて出かけることにした。
 整形外科での軽い牽引は一日おきに左右交互に行っている。右のお尻の筋肉痛については少しずつ改善しているようには思う。もう少し続けてみるつもりである。

 明日は横浜でも最低気温はマイナス1℃の予報になっている。風は本日ほどには強くないらしい。
 日本海側は大雪で被害も出ているようだ。これ以上の被害が出ないことを祈りたい。

珈琲は「マンデリン」

2017年01月24日 17時14分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いくつかの職場と組合の会館を巡ったのち、久しぶりにストレート珈琲を飲みたくなって、現役時代によく訪れた関内の喫茶店に行った。さいわいにもまだ営業しており、以前のように付近のサラリーマンなどが訪れていた。客の回転はむかしと変わらず悪くない。
 私はストレート珈琲を注文するときは、決まってマンデリンを注文する。酸味の強いモカなどは好きになれない。昔ある喫茶店のマスターに「酸味がほとんどなくて苦みがあり、味のいいのはマンデリンに限る」と教わってからマンデリンばかりを注文している。

 先ほどWikipediaで調べたら「インドネシアのスマトラ島で栽培されているという、マンデリンコーヒーは、酸味が少なく、苦味成分が強いことが特徴である。そのため、コクのある味と表現され、単一で飲まれるほか、ブレンドコーヒーにも適している。その他、濃厚な味のケーキなどとの取り合わせも好まれる」と記載してあった。
 マスターが教えてくれたことに間違いはないようだ。香りはあまり強くないようだが、鼻のあまり効かない私は特に気にならない。

 昔はマンデリンはストレート珈琲でも高めの値段であった。最近はブルーマウンテン以外はストレート珈琲では値段に差がなくなっている。
 本日の喫茶店は私が現役の頃から450円と値段が変わっていない。値段が高くないのが嬉しい。いつも200~300円の珈琲ばかりだが、450円で気分的に少しだけリッチな気分でノンビリできるのはありがたいと思う。

 本日も昨日と同じく2冊の本を交互に読んで1時間ばかりを過ごし、先ほど帰宅。
 明日は、3か所ほどの「営業活動」。職場が各区に1か所と関内の19か所ある。明日は組合員ではなかったものの好意的に接してくれた職員に会ってみることにした。多分名刺配りで終わってしまうと思われるが、現役時代のお礼を言ってにこやかに分かれるのもまた良きかな、という心境である。

引続き「営業活動」

2017年01月24日 12時02分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は引続き新規加入の呼びかけと加入者へのお礼で職場訪問。昨日増刷した名刺と資料と挨拶状を入れた封筒持参。退職しても、現役の頃と変わらない「営業活動」である。早いもので退職して4回目の年度末であるが、知っている顔がどんどん少なくなる。当然他の職場に異動してしまうし、新人も入っている。あと5年もしたら知っている人はほとんど見かけなくなるような気がしている。
 もっともその頃には現在現役の支部役員に「営業活動」を引き継いでいるはずだ。

 昨日と同様、リュックの中には「幻想の肖像」と「地球の歴史(上)」を入れている。昨日は喫茶店といってもセルフサービスのチェーン店のアイスティーであったが、本日は出来れば薫り高いドリップコーヒーの店に入りたい。贅沢といわれても時々は無性に入りたくなる。

「幻想の肖像」(澁澤龍彦)から

2017年01月23日 22時25分07秒 | 読書
   

 この書には36人の36作品の論考が納められている。いづれも5頁ほどの短いものである。
このうち、「ユディット」(クラナッハ)、「春」(ボッティチェリ)、「死せる恋人」(グリュネワルト)、「悦楽の園」(ヒエロニムス・ボッス)、「鏡の前のウェヌス」(ベラスケス)、「スザンナと老人たち」(グイド・レーニ)、「女友達」(クリムト)、「花嫁の衣装」(エルンスト)、「黄金の階段」(バーン・ジョーンズ)、「一つ眼巨人」(オリドン・ルドン)、「みずからの純潔性に姦淫された若い処女」(ダリ)、「トルコ風呂」(アングル)の12編を読んだ。
 1970年1月から1972年12月まで36カ月間「婦人公論」の巻頭に書かれた解説である。澁澤龍彦の文章は1970年初めに幾度か挑戦したが、よくわからなかった。読解力が追い付かなかった。また西洋の絵画についての知識もほとんどなかった。
 最近はようやく分かるようになってきた。
 「ユディット」(クラナッハ)に描かれたホロフェルネスの生々しく切断された頭部が男根の消長であるとの指摘から読み解く鍵は与えられたが、回答は読者に委ねられている。
 特にルドン、ダリ、エルンスト、ヒエロニムス・ボッスについて興味深く読んだ。
 これから展覧会で見る作品を読み解き鍵として、利用してみる。すべてを読み解く鍵ではないが‥。残りはまたボチボチと読んでいく予定。

ようやく読書再開

2017年01月23日 18時34分30秒 | 読書
 昔の職場に今年度末の退職予定の組合員が在籍しているので、退職者会への加入のお願いの文書一式を届けに関内まで。残念ながら仕事で本日は一日出ずっぱりとのこと。封筒を渡してもらうように同僚にお願いして戻ってきた。
 遅い昼食を摂った後、横浜駅に戻り喫茶店で読書。久しぶりに眼をとおしたのは、
1.「地球の歴史(上)」(鎌田浩毅、中公文庫)
2.「幻想の肖像」(澁澤龍彦、河出文庫)
 1.は上・中・下3巻構成だが、ようやく上の半ばまで。ようやく著者の専門領域に近くなってきた。
 2.は36人の36作品についての論考だが、いくつかを拾い読み。


データのバックアップ作業

2017年01月23日 11時48分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩はここ2~3カ月に作成した諸データを二つの外付けハードディスクに移した。一応内臓ハードディスクを2分割してデータ保管用に確保した領域とあわせて3つの保管である。
 外付けハードディスクは10年近く前に購入した300ギガと3年ほど前に購入した3テラバイトのハードディスクである。問題は古い300ギガのものへの書き込み速度が遅いこと。とはいっても購入した当時はとても早く感じた。新しい3テラバイトの書き込み速度が格段に速いので余計にその遅さが気になる。
 何も三段階もの用心を重ねる必要がないとは思うが、以前にパソコンの内部ハードが壊れたことがあった。そのためなくなってしまって困る組合用のデータは、持ち運び用USBメモリーと内部ハードに同時に保管していた。時を置かずそのUSBメモリーがカバンの中で破損してしまったことがあった。
 またヤフーのメールシステムの不具合で一時アドレス帳が壊れたかも知れないという事態に遭遇し、自分のデータの安全な保管により慎重を期す必要性を感じた。またハードディスクの駆動装置への信頼感も過大ではいけないと感じている。

 写真や絵画の画像とそのデータ量がどんどん増えており、300ギガの方はあと2年くらいで満杯になりそうである。

 外付けハードディスクは常時電源は入れていない。データを2~3カ月ごとに書き込む時だけコンセントを差し込んで、電源を入れる。これは雷等の電源異常への対策。

 こんなにしてまでバックアップをしなくてもよさそうなもの、と思いつついつの間にかこれが日常になっている。