
ベルナルト・ハイティンクの指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるベートーベンの交響曲全集から、本日は第4番(1806年)。たまたまだろうが、私の好きな第8番と同じCDに入っている。録音は1987年となっている。
この禅宗の解説では「至上繊細さに満ちた第4番では、表面的にはモーツアルトやハイドンに戻っているように見えるが、へーとーぺんの優雅さとエネルギーを秘めた、古典的な作品構成の最高の例として見られるべき」と記してある。
また諸井三郎氏の全音のスコア解説では、「内容は、明るく、かつ生々としている」となっている。

この第4番は、私が敬遠している曲である。どうしても好きになれない。第1楽章の導入部緩やかであるが、主題提示部分以降の過剰な装飾音が続く。ここが私にはあまり好きになれないところだ。旋律がリズムに寸断されて聴こえる。リズムが旋律を凌駕してしまう。
諸井三郎氏の解説では、第1楽章はソナタ形式で提示部が少しだけ長め、第2楽章は展開部を持たないソナタ形式、第3楽章はロンド形式をもとにしたスケルツォ、第4楽章は提示部、展開部、再現部に終始部を持った4部構成のソナタ形式、とされている。


第2楽章はヴァイオリンの第1主題とクラリネットの第2主題は美しい。特に哀調あるクラリネットの響きは美しい。しかし第1主題を支える飛び跳ねるような律動が私の耳には馴染まない。
第3楽章のスケルツォはベートーベンらしいスケルツォだと思う。切れ切れの律動性の強い旋律がやはり苦手だ。
第4楽章も第3楽章に続いて慌ただしい。「この楽章は聴いていると元気が出る」とむかし友人が言っていた。そのとおりだと思うが、「陽気さ」とはちがう何かあまりに人工的なにおいが強い。
確かにどの音楽も伝承や土俗や習俗に基づいた民謡の水準から世界性を獲得してヨーロッパという枠組みをさらに飛び越えて流布するには、「人工」的なことは免れない。だがその「人工」的であるがゆえに鑑賞する個々の人間には届かない場合があるのが当然である。それを前提として、この私の心にとどかないという違和感との付き合いもまた鑑賞の仕方でもある。私が求める音楽とはどこか異質なところがある、といつも心の中で自問自答しながらベートーベンの音楽を聴いている。この違和感がこの第4番がどうしても大きい。これ以上どうにもうまく表現できないのがもどかしい。



