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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ルドン展は入場断念

2025年06月05日 21時29分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昨日休館日であった「オディロン・ルドン 光の夢、影の輝き」展を開催している汐留美術館に行ってみた。14時過ぎに会場についたのだが、ロビーに人があふれていた。嫌な予感通りに、整理券を配っていた。そして渡されたのが16時過ぎの時刻が記された予約券であった。
 日をあらためても22日までの展覧会なので、今後は一層混雑すると思われた。また私の都合でも再訪する日程的なゆとりもないので、本日はぜひ入館したかった。しかし会場の中に入っても狭い会場で混雑するのは間違いない。
 以上の理由で入場することは断念。ミュージアムショップで図録を購入するにとどめた。
 美術館の外のフリースペースの椅子に腰かけてコーヒーを飲みながら、未練がましくチラシをじっくりと読んでから新橋駅に戻った。

 漆黒の世界から、印象的な青を中心とする色彩の奔出の移行期の作品をじっくりと見たいという思いが強かったのだが、あきらめた。
 2018年に開催された三菱一号館美術館での「ルドン 秘密の花園」展の図録と併せて、ルドンの世界に浸ることで満足することにした。

 このブログの移転先はこちら。「https://shysweeper.hatenablog.com/」(同じく「Fsの独り言・つぶやき」)。

 


ミロ展(東京都美術館)

2025年03月26日 20時46分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は薄手のジャンバーを着て外に出たが、失敗であった。あまりの暑さにジャンパーをリュックに詰め、そのまま上着なしで上野の東京都美術館に出向いて「ミロ展」を見てきた。

   

 上野駅の公園口は人でごった返していた。ほとんどの人は花見のために文化会館を左に曲がり桜並木の方面に行くが、それには目もくれずに東京都美術館に直行。動物園の手前でさらに人の流れから外れて美術館に向かう人はわずか。
 入場券売り場には人の列はなかった。展示室はそれなりの人出であったが、昼前ということもあり、ゆっくりと見て回ることが出来た。2時間ほどたっぷりと見学。
 懐かしい作品、図版でしか見たことのなかった初期の作品、そして1970年代後半以降のポスターなどの諸作品などははじめて目にした。またまとめてみたかった「星座シリーズ」の内3点を見ることが出来た。できれば「星座シリーズ」の23点はまとめて観たいものであるが、今回も適わなかった。
 ミロの諸作品は、描かれているものの解釈のためには、欧米の言語や文化的な背景を知らないとわからないことも確かだが、それがわからなくとも、色彩や描かれたさまざまなものの配置のリズムと形態だけでも充分に楽しい。たくさんの作品を見て回ると、その独特のリズムに気分や体内時計が同調してくるのがわかる。気分が軽くなったり、沈んだり、不思議な体験をする。それが楽しい。
 私の子どもがごく小さい頃、カンディンスキーとミロの絵画を見ながら、独り言を言い、物語りを紡いでいたのを思い出していた。
 作品の解説では、1940年、フランコ政権のスペインに戻ってからのミロについて、第3章では「逃避と詩情」と表現している。また「彼が取った選択は、現実からの完全な逃避だった。人物たちは身体的な質感を失い、再生の魔法を感じさせる要素を持った、想像力に訴えかけたる絵画へと変化」と記している。
 私はこの表現の「完全な逃避」が何をさし示すのかも理解できない。1940年以降の「星座シリーズ」や1970年以降のフランコ政権との対峙などの諸作品をあらためて復習したいと感じた。「逃避」とは言えない印象が私には強い。

 国立西洋美術館の前を帰りにも通り過ぎたが、「西洋絵画、どこから見るか?」展は疲れて見る気が失せてしまい、そのまま帰宅した。


「4つの即興曲」(シューベルト)

2025年03月20日 22時20分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日はシューベルトの「4つの即興曲」(D.899、D.935)を聴きたくなった。特に理由はないが、ピアノのソロのあまり激しくない曲が聴きたかった。演奏はラドゥ・ルプーのピアノ、1982年の録音。



 昼間に妻と昼食と買い物に出かけた。三つのスーパーで若干の食材の買い物をして、生鮮食品以外の重いものを私のリュックに詰めて、私は喫茶店に残り、読書。妻はもう一軒のスーパーに寄り帰宅。私は途中でカワヅザクラを昨日に続いてもう一度見てから帰宅。しかし感染性胃腸炎が治ってから、無性に眠い。だいぶ体力を消耗したためであろうか。
 


久しぶりに横浜美術館

2025年03月18日 21時53分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は、組合の会館で所用を済ませたのち、桜木町駅で下車して、リニューアルした横浜美術館に寄ってみた。30分程度しか時間がなかったので、コレクション展を足早に三部屋ほど見て回っただけであったが、それなりに楽しく見ることが出来た。思ったよりも空いていた。
 年間パスポート制度がなくなったのが残念であったが、年間4000円のパスポート券を販売していた。コレクション展は何回でも見ることが出来、企画展も年3回見ることができるという。これまでの年間パスポート制度は5000円でコレクション展と企画展は何回でも見ることが出来た。それに比べても特に遜色もないし、企画展を3回以上見ることはあまりなかったので、充分有効活用できると判断した。躊躇いなくこれを購入。
 問題はどのような企画展がこれから用意されるか、である。
 本日のコレクション展、まずはマグリットの「王様の美術館」ほか数点、森村泰昌扮するフリーダ・カーロ、奈良美智など見慣れてはいてもいつもその作品に吸いよせられる不思議な世界を久しぶりに垣間見た。



 はじめて記憶に残った作品として吉澤美香の「は-9」と「は-10」という1990年の作品。これは面白く眺めていた。
 中には認知症の母親を題材として作品など顔を背けたくなる作品もあったが、総じてもう一度見に行きたいと思う現代美術のコレクションは期待している。
 今年の夏から年末にかけてはNHKのピタゴラスイッチを手がけている佐藤雅彦展、年末から年度末にかけては日韓現代美術展(仮称)が予定されていることをはじめて知った。年間パスポートを充分活用できる。
 


ミュシャ展

2025年01月03日 20時58分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日初売りで大混雑の横浜そごうの6階にあるそごう美術館で「ミュシャ展 マルチ・アーティストの先駆者」を見てきた。会期は明後日の5日(日)まで。会期末と年初めということで混雑が心配であったが、それほどではなかった。ミュシャ展の割には人は少なかったのではないだろうか。
 国立新美術館で開催された「ミュシャ展 スラブ叙事詩全20作」は大変な混雑であった。あれからもう7年半以上経っている。

 スラブ叙事詩も見ごたえはあったが、今回はパリ時代の初期のポスターなどが中心の「チェコ在住 個人コレクターのズデニェク・チマル博士」のコレクション展という。

 7年前にも展示されていたミュシャのデビュー作ともいえるポスター「ジスモンダ」(1894)も展示されている。

      
《花》       《四季》       《一日》

 他の図録などを見るとミュシャの作品では連作パネルがなかなか気に入っている。今回は《花》(1894)、《四季》(1896)、《一日》(1899)、《星》(1902)が展示されていた。

 2017年の時に惹かれた《四つの花》(1897)は今回展示が無かったのは残念であった。
 しかし今回展示されている《花》は《四つの花》よりも色彩が鮮やかで、人間のポーズも動的、花の配置も効果的に見え、私は好感を持った。

 アール・ヌーヴォーという世界性のなかで芸術活動を花開かせたミュシャが、実在するかのように感じとってしまった「スラヴ」という幻想の共同体。芸術家は目に見えないものを浮かび上がらせる、と言われる。それが浮かび上がった時代は歴史的な必然ではあったと思うし、それを絵画に収めたミュシャという芸術家は優れた時代感覚を持っていた。しかし、残念ながら21世紀の現在、無残な形でその幻想は惨劇とともに解体されようとしている。
 単純に言い過ぎているが、「民族」という呪縛からの解放は残念ながら方途は見つからないことは確かだ。

 


モーツアルト「ピアノソナタ18番」

2025年01月02日 12時17分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 穏やかな日和の正月二日、モーツアルトのピアノソナタを聴きたくなり、内田光子演奏の「ピアノソナタ18番K545、15番K533」のCDを取り出してきた。
 クラシックファンの多くが聴いた記憶にあると思われる18番、15番。特に第18番の軽快な第1楽章は有名である。
 私は緩徐楽章である第2楽章を好んでいる。たっぷりと聴かせてくれる内田光子の演奏は特にお気に入りである。


シューマンのチェロ協奏曲外

2024年12月04日 21時17分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨晩はシューマンの「チェロ協奏曲Op.129」、「幻想小曲集Op.73」、「民謡風の5つの小品Op.102」、「オッフェルトリウム(ミサ曲Op147より)」などがおさめられているCDを聴いた。演奏はチェロのスティーヴン・イッサーリス、ドイツ・カンマーフィルハーモニー、ピアノのクリストフ・エッシェンバッハなどの演奏である。録音は1996年から97年にかけて行われている。
 私はあまりシューマンの曲は知らない。聴くことも少ないが、この「チェロ協奏曲」と「幻想小曲集」は幾度か聴いている。気に入っている曲である。
 チェロ協奏曲では第1楽章の第1主題は耳に心地よく残る。第2楽章の伸びやかで語りかけるような主題も印象に残る。
 また幻想小曲集は3曲とも気に入っている。

 

 


追悼 谷川俊太郎

2024年11月24日 10時49分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 谷川俊太郎が亡くなったとの報道がされた。谷川俊太郎と聞くととても分かりやすい言葉による詩で親しまれている。
 まず私の頭にうかぶのは「死んだ男の残したものは」。
 「死んだ男の残したものは」という歌は知っていたが、恥ずかしながら作詞者である谷川俊太郎という名は知らなかった。この曲を初めて聞いたのは1970年にラジオで高石友也の歌ったもの。私が初めて谷川俊太郎という詩人を知ったのは、1980年代になってから。
 この歌はベトナム戦争に対する反戦歌として1965年、「ベトナム平和を願う市民の会」のためにつくられた。のちに林光によって混成合唱に編曲されている。
 平易な言葉ながら、リフレインの言葉ひとつひとつが微妙に変化し、味わい深い。「残したもの」「残さなかった」「残せなかった」「残っていない」。第4番までと第5番以降の対比も胸に響く。

死んだ男の残したものは
        作詞 谷川俊太郎 作曲 武満徹

死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった

死んだ女の残したものは/しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった/着もの一枚残さなかった

死んだ子どもの残したものは/ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった/思い出ひとつ残さなかった

死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは/生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない/他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは/輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない/他には何も残っていない

 多くの歌手が歌っている。1960年代末に高石友也も歌っているが、やはり今年の8月に亡くなった。

高石友也【https://www.youtube.com/watch?v=7xh8vkk4iBY
倍賞千恵子【https://www.youtube.com/watch?v=bcCqmzq0d60
大竹しのぶ・長谷川きよし【https://www.youtube.com/watch?v=eHZMqFPaJwk


「欧州美術紀行」3回目 外

2024年11月15日 13時59分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昨日は二週間ぶりに神奈川大学の美術鑑賞の対面講座。「欧州美術紀行」(講師:中村宏美)の3回目「ローマ」を受講。絵画作品よりも建築物について興味ある話を効けた。絵画作品では最後にカラヴァッジョが取り上げられた。ローマは遺跡も多く、取捨選択は難しい。講師のこだわりが伝わった。
 次回は二週間後、マドリードを取り上げることになっている。これも楽しみなのだが、残念ながら退職者会のイベントと重なり、受講できない。最終回に資料をもらってこれで楽しむことで満足するしかない。

 講座は正午を少し回って終了。みなとみらいから桜木町・野毛界隈をぐるっと回って地下鉄で横浜駅に戻り、コーヒータイム。
 天気予報では太陽も顔を出すはずであったが、終日厚い雲が空を覆い、気温の割には寒々しく感じた。

 本日は予定が取り消しになり、午前中は退職者会のブロックのニュースの作成やら資料づくりを少々。ニュースは日曜日までに仕上げて、100部近く印刷しないといけない。つくり始めるのが少し遅くなってしまった。

 午後は所用があり、これより出かける。


「田中一村展」から 3 完

2024年11月14日 21時35分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 田中一村は40歳代の1950年代は日展や院展に出品するも落選を繰り返す。その間に軍鶏の写生にのめり込んだり、カメラを始める一方、1955年に聖徳太子殿の天井画などに一定の成果を出す。
 天井画や襖絵などの植物画、そして障壁画の墨絵などにも迫力があり、惹かれるものがあった。
 その間に千葉を出て、九州・四国などの旅を経て、奄美に定住する。この1955年は画業の画期と思われる。
 画期と私が思うのは、写真から近景と遠景のひとつの処理の方法を得たと思われる。普通はボケ味で近景と遠景の差を出すのだが、ピントには頼らず、近景を大きく、遠景を覗くように近景から広がるように描いている。
 さらに私がこだわっていた「白」の処理が大きく変わった。前回「白い花」の改作で、白が際立つように描かれるようになったが、「ずしの花」でも「山村六月」「由布嶽朝靄」(1955年)でも花弁、雲、水田の「白」、葉の「緑」のグラデーションが際立っている。雲の白に埋没しない花の白が美しい。
 写真から学んだと思われるが、奄美での写真と比較するとよくわかる。

               

 1958年以降、奄美に移り住むが、ここでさまざまな工夫が一気に開花したように思える。
 まずかなり縦長の構図にこだわり、近景を思い切り大きく描き、遠景の広がりを強調するようになる。覗き見るような遠景はかえって広々と開放的な印象を与え、鑑賞者の意識をホッとさせる効果がある。これもまた人気のひとつではないだろうか。
 さらに「白」が近景に際立つように配置され、花弁の色とともに「光」を兼ねるようになる。花弁や蝶にスポットライトがあたっているような「白」はきわめて印象深く、人を惹きつける。
 また鳥に少し動きが出てくる。動かない剥製のような軍鶏の作品から脱却し、鋭く鳴く鳥、飛び立とうとして力を溜めているようなアカショウビンなど、動きを切り取っている。この鳥の動きが鑑賞者の目を画面に引き寄せる効果があるのではないか。
 異時同図のように花々の蕾から萎れるまでの姿を同じ画面に表現するなどの工夫も見られる。
 ここに掲げたのは私の印象に特に残った6点。

 《パパイヤとゴムの木》(1960)、《奄美の郷に褄紅蝶 》(1968)、《アダンの海辺》(1969)、《不喰芋と蘇鐵》(1973以前)。《榕樹に虎みみづく》(1973以前)、《檳榔樹の森》(1973以前)。

 4点目は遠景がないものの背景の灰色が遠景の代用かもしれない。花の様子から花が咲く直前から実をつけて項垂れるもでの異時同図と思われる。
 5点目は、頂点のみみづくには動きはないが、左下の鳥の鋭い眼と鋭い鳴き声が聞こえそうな動き、右下のスポットライトの当たったような白い花が印象的。遠景が小さいものの海の広さが充分に感じられる。
 6点目には遠景がないものの、下と左上の白い花で、森の奥深さを感じさる。
 奄美では若い頃のように魚やエビをクローズアップして画面いっぱいに詰め込んだ作品もあるようだが、これは作品としては成功していないように感じた。

 田中一村という画家、川端龍子のもとを去ったときはなかなか頑固で不遜であったかもしれないが、自己の克服すべき課題について客観的に自覚をしていたのではないだろうか。その克服に長い年月と、美術界からの遠い「距離」が必要だったと思える。その自分なりの回答が奄美移住とその直前でもたらされたと思えた。


「田中一村展」から 2

2024年11月11日 20時56分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 1947年、田中一村は川端龍子主催の青龍社展で《白い花》が入選する。このとき小下図の段階で、同社の時田直善氏が指導し、「細かく描き込まれた画面を整理」したとの指摘があったとのことが「もっと知りたい田中一村」(東京美術)に記されている。ここでも仮面にびっしり描き、空間の処理に戸惑っている田中一村の画風が短所として指摘されたようだ。
 展覧会場でもこの作品の前には人だかりがしていた。しかし私はどうしてもなじめなかった。原因は二つある。一つ目は白色の処理。二つ目は鳥の位置の問題。
 白が浮き上がってこない。葉の緑のほうが勝っており一見「白い花」は背景の空間かとすら思える。白の顔料の問題なのだろうか。
 また鳥も緑の葉に隠れており、位置も下側にあり、そのまわりの空間まで緑で埋まり、存在感が薄い。むろん実際の鳥はそうたやすく広い空間に身を曝すことは少ないかもしれないが、構図上のバランスはあまりに悪い。
 しかし、田中一村はこの入選は自身も記念碑的な作品と捉え、同じような作品をいくつか描いている。取り上げたのは8年後の1955年の作品であ。
 こちらのほうが一般的には「洗練された」ということなのであろうが、確かに白が浮き出て見える。花の緑は前作に比べ少しくすんでおり、白を際立たせている。白い花はヤマボウシ一種だったものが3種の白花になっている。
 また鳥が大きくなり、中央の上に移り、その周囲の空間が確保され、存在感が大きく増している。左半分の空間が空いて、左上から右下への対角線の流れが自然である。
 終戦直後からこの時期まで、30歳代末から40歳代後半のこの頃は、構図、彩色の点で大きな飛躍があったと感じた。一方で違和感もある。鳥の姿は動きを想像させない。残念ながら剥製の鳥のようである。



 翌年、一村は再び青龍社展に《波》(所在不明)、《秋晴》出品し、《波》が入選するも、自信のあった《秋晴》が落選。これに抗議し、入選を辞退し、川端龍子のもとを去る。
 図録では「川端龍子は日本画を床の間から展覧会場へと解放し、繊細巧緻な表現よりも「健剛の芸術」を目指し・・大画面に合法な筆致で、クローズアップの構図とする傾向が強くあった。《秋晴》では金屏風にシルエットで樹々が大胆に表現されたものの、枝葉の表現や軍鶏の姿などは緻密で、情景はもの悲しく、龍子の「健剛」とは相容れないものだった」と記している。
 また「もっと知りたい田中一村」の解説には「速水御舟の描く構成されたケヤキの細い線、龍子はそれを受け入れなかった」という指摘があった。御舟と龍子の間の確執や作風の違いに翻弄されたというのは、穿ち過ぎの見方であるように感じる。私はもっと別な違和感をこの作品に感じた。
 それはやはり「白」の処理であり、軍鶏の動きの無さであり、無理な大根の配置であり、遠近感を無視したような建物の配置である。。
 まず《白い花》での「白」の扱いは田中一村も不満足ではなかったのではないか。画面でとりわけ目立つ「白」の描き方に画家なりに自負があったのかもしれない。しかし私にはあまりに唐突で無理な白の強調に思えた。干している大根はこんなには白くはない。もっとくすんだ白である。
 しかもケヤキの細枝は折れやすい。こんな細い枝に大根を干すであろうか。しかも高さが高すぎる。人間の手では届かない位置に干している。現実感が喪失している。ケヤキはこんな下にこんな枝を伸ばすことは無い。そして軍鶏には動きがない。
 ケヤキの幹などは厚く顔料が重なり、質感に苦労している。樹木以外にはその質感へのこだわりが感じられなかった。
 総じて現実感を「喪失した」というよりも「喪失させた」画面構成に、仏画の流れからの一村の「浄土」のイメージを想定するのは飛躍であろうか。
 もう一つの所在不明の《波》がどのような作品なのか、わからないが、《秋晴》のような方向以外の方向を模索を始めたのだと理解したい。



 1953年の《花と軍鶏》の襖絵までに田中一村は軍鶏の写生を執拗に繰り返した。伊藤若冲のように写生に明け暮れたらしい。精緻な軍鶏である。しかし私の視点では、動きが感じられない。一村のように細密画のような描き方で動きを感じさせるというのは至難の業であるらしい。

 この時期には、空間を埋め尽くしてしまう、という点では余白を十分意識する描き方になって克服したように思われる。しかし引き続き一村は「対象物の動き」「色彩のバランス」「遠近」「余白などの空間処理」等々の課題に直面し、克服しようということにはかなり自覚的であったのではないか。この解決に向けて努力と模索が続けられたのではないか。
 50歳を過ぎて、一般的には完成の域に達するといわれた年齢を過ぎても、奄美に移り住み、一気に花開く直前まで努力が続いたと感じている。

 私はこの執拗ともいえる模索と持続におおいに惹かれる。 


「田中一村展」から 1

2024年11月09日 11時10分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 田中一村という画家の生涯の作品を順に見て回って、最初の印象は、次のようなものであった。
1.この画家はどうしても画面全体に対象をびっしりと描き込んでしまう傾向から抜けられなかったのではないか。
 残念ながら初期作品はこの傾向から抜け出せないで苦闘していると思う。この傾向を否定しきるのではなく、生かす方向で格闘し続けたのではないか、と感じた。
2.細密な描写へのこだわりもきわめて強い。モノクロームの画面にしろ、彩色された作品にしろ、ここから抜け出すことは最晩年にいたるまでこだわっている。
3.遠近の処理、空間の処理にも苦闘しているが、写真作品を通して、近景と極端な遠景の併存によって独自の方法を確立したように見える。特に九州への旅行以降に結実したように見える。
4.色彩、特に白へのこだわり、強調が印象的であった。

 その確立のためにさまざまな技法を模索し、西洋画や富岡鉄斎や与謝蕪村の南画、浮世絵などの研究もしている。このことで、近景から遠景を覗くような構図によって広々とした遠景を想像させることに成功したのではないか。抜けるような海や空の処理が効を奏していることが、人気のひとつの要因と思える。

   

 2の傾向では、20代前半の頃の初期作品のいくつかある《鶏頭図》のこの作品に顕著に現れていると感じた。
 さらに、同じ時期の《椿図屏風》は1と2の傾向を如実に示している。椿の花弁のあまりに緻密なこだわりによって画面全体を埋め尽くしてしまい、構図や全体のバランスを失っていると感じた。葉も細密に描き込まれているが、その細密さが生きていない。花弁ばかりが浮き上がって見える。椿は艶やかながら暗い葉の中の明るい花の描き方が問われる。
 むろん目を惹く作品で、私の指摘は当てはまらないものもある。ポスターにもなっている《檳榔樹の森》などである。南の島の鬱蒼とした森の様が、びっしりと書き込まれて遠近を超越している。しかし4の色彩の工夫が生きて、白が近景として生きている。
 背後の白梅も存在感を失っている。
 左双が未完らしいので、結論は早すぎるかもしれないが、私なりにどのような左双を想定しても焦点の定まらない作品である。
 しかし鶏頭図や《菜花図》(1932)など単体を描いた作品には空白部が多く取られ、スッキリした構図も垣間見える。

 戦争の時代、病弱で兵役につかなかったという一村は極端にデフォルメされた羅漢図や、白を効果的に使った清楚な百済観音図を描いている。さらに鉄斎・蕪村などの山水画を倣ったりしているが、展開はしていない。戦争の時代とはおもむきの違う百済観音図に時代に背を向けたかのような静謐さを感じる。



 戦争の時代を潜り抜け、《菊花図》(1948)や障壁画、天井画などの植物画に細密画へのこだわりが再燃しているのを感じた。構図上の余白などのバランスも配慮され、画家のエネルギーの発露が窺えるのではないか。



 戦後まもなくの昭和20年代、田中一村の40代、千葉時代の風景画は平福百穂などの近代南画から学んでいるとの解説がある。この時期の風景画は、色彩の明るさと広々とした空間が魅力である。しかし1や2の傾向との格闘は見られない。寂しい風景が広が。どこか模倣感があり、自己主張が感じられない。風景の寂しさは画家の寂しさ、もどかしさの反映に思えた。
 


「欧州美術紀行」 2回目

2024年10月31日 22時20分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 午前中はみなとみらい地区の神奈川大学の校舎での対面講座、「欧州美術紀行」(講師:中村宏美)の2回目「ヴェネツィア」。取り上げた画家は、ジョヴァンニ・ベッリーニ、アンドレア・マンテーニャ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ・ヴェチェリオ、ティントレット、パオロ・ヴェロネーゼの6名。
 以前に訪れたヴェネツィアの教会や美術館で見た作品を思い出しながら楽しく拝聴。サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会で見たティントレットの《最後の晩餐》は、印象深い。居酒屋の室内のような暗い場面に窓から差し込む強い光線が、カラバッジョを思い浮かべてしまう。あるいは劇的な動きがバロック的なのかもしれない。暗い教会の中で見るといっそう印象的である。
 取り上げた作品の中では、マンテーニャの《死せるキリスト》は異様な迫力で、私は初めて見た時から忘れられない作品である。ちょっと際物めいた作品なので、評価は分かれると思っている。しかし戒律の厳しいキリスト教の規制を搔い潜って、キリストの足の甲の釘のあとに着目し、鑑賞者の眼前に突き出す大胆さ、新しい視点獲得の貪欲さには脱帽である。
 次回はローマを取り上げるとのこと。おおいに期待。

 夕方には組合の会館に出向いて、打合せ。みなとみらい地区の神奈川大学のキャンパスから寿町まで歩いた。空気が乾燥しており、気持ちよくウォーキングが出来た。膝と腰の痛みは出なかったのがありがたかった。
 帰りは関内駅まで歩き、コーヒータイムののち、地下鉄・バスにて帰宅。夕食後は団地の管理組合のアンケートなどを記入していたら、読書タイムは確保できなかった。

 明日の金曜の夜から土曜・日曜の明け方まで荒れた天気になるらしい。台風21号からの変化した低気圧の影響とのこと。被害がないといいのだが。


田中一村展

2024年10月29日 21時09分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は小雨の中、昼前に家を出て、上野の東京都美術館で開催している「不屈の情熱の軌跡 田中一村展 奄美の光 魂の絵画」を二人で見てきた。
 雨にも関わらず、上野駅を降りると国立西洋美術館前まで「モネ 睡蓮のとき展」の入口まで人混みがあった。西洋美術館はとても混雑しているようであった。
 「田中一村展」も混雑はしていたが、モネ展ほどではなかったのはありがたかった。

 田中一村の回顧展ということで311点という実に多くの作品や資料が並んでいた。すべてをじっくりと見て回るエネルギーは湧いてこなかった。じっくり見て回ったのは、先週の「日曜美術館」で紹介された諸作品と、一目見て気になった作品にかぎり、残りは3500円で購入した図録に頼ることにした。特に日曜美術館で紹介された作品は他の方の頭越しにしか見ることがかなわなかった。

 構図、余白、色彩、写真、この4点を軸に見て回った。まだ頭の整理が出来ていない。

 16時過ぎに横浜まで戻り、久しぶりの沖縄料理店で泡盛を2杯。モズクや島豆腐などをつまみにした。横浜では本降りの雨になってしまった。


講座「欧州美術紀行」(アントワープ)

2024年10月17日 22時25分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日の午前中は神奈川大学の市民向けの対面講座「欧州美術紀行」(講師:中村宏美氏)の第1回目「アントワープ」。ヤン・ファン・エイク、ヤン・マサイス、ピーテル・ブリューゲル、アルブレヒト・デューラー、ペーテル・パウル・ルーベンス、アンソニー・ヴァン・ダイク、ジャック・ヨルダーンス、そして近代のフィンセント・ファン・ゴッホが取り上げられた。
 マサイスというルネサンス期の画家は初めて目にする画家である。紹介されたのは《フローラ》(1559)は構図も色彩もなかなか気に入った。
 また、ゴッホは《ジャガイモを食べる人々》(1855)を描いたのち、アントワープに向かう。《アントワープの港》(1885)、《アントワープの町並み》(1885)とともに初めて目にしたが、特に後者に惹かれた。しかしアントワープには美術学校での挫折で3か月ほどしかおらず、パリのテオの家に転がり込む。
 わずかな滞在であるが、パリ時代を予見するような作品に見えた。

 午後は、みなとみらいの神奈川大学のキャンパスから新横浜に移動。写真編集ソフトを家電量販店で購入。喫茶店でひと休みしてから横浜駅にもどり、書店を一回りしてから帰宅。
 これより購入したソフトを新しいノートパソコンと、デスクトップパソコンにインストールする作業。

 喫茶店では「日本霊異記の世界」(三浦祐之)の第8講「行基の奇行」を読み終わり、第9講「語られる女たち」を少々。