Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

3月の観測史上最高気温

2024年03月31日 20時39分50秒 | 天気と自然災害

 昨日はかなりの歩数を歩いたこともあり、本日はあまり歩かないように調整。横浜駅まで歩かずにバスを利用。
 本日は久しぶりに横浜駅に近いいつもの喫茶店で読書タイム。あまりはかどらなかったものの、「都市空間の怪異」(宮田登)の第3章「都市と妖怪」を読み終えた。明日から第4章「近現代社会の妖怪」に入る。

 本日の横浜市域の最高気温は13時半頃の26.9℃、3月の気温としては観測史上の最高気温であったとのこと。最大瞬間風速で17mを越えた。20時を過ぎても外気温が21℃近くもある。
 団地の建物の躯体の温度はまだ上がり切らないので、室内は外よりも寒く感じる。昼間は南北の窓を開け放したかったのだが、黄砂が部屋に飛び込んでくる、とのことで残念ながら短時間しかそれができなかった。それでもベランダに出した洗濯物が2時間もしないうちにすっかり乾いた。空気は乾燥していた。
 あまり歩かなかったので、汗をかくほどの暑さは感じなかったものの、長袖の腕をまくり、メッシュのベストを着て外出。

 


「浮世絵にみる異国」展

2024年03月31日 12時14分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨日竹橋にある東京国立近代美術館から帰る途中、川崎駅で下車し、「川崎浮世絵ギャラリー」を訪れた。ギャラリーでは「浮世絵に見る異国」展を開催していた。
 東京駅から国立近代美術館までの往復を歩き、美術館の中でも1時間以上時間を掛けて巡ったので、かなり疲れていた。しかし夕食まで時間もあり、ふたりとも足がだるいのを我慢して、浮世絵、幕末から明治初期の錦絵・横浜絵を楽しんできた。
 「異国」を描いた作品も見ることが出来たが、来るたびに展示されていることの多い「唐土廿四考」の12作品が、妻も私も印象に残った。現代の私たちには到底信じられなく、そのあまりに惨い「孝行」なるものになかば呆れながら解説を読んだ。
 真冬に親の所望する筍を取りに行ったという「孟宗」に触発されて、ちょうど筍が出始めた時期でもあり、家の近くのスーパーで筍を購入してみた。
 しかしここまで規範として取り上げる「親孝行」とは何なのだろうか。逆に年老いた家族の面倒を見ることもできないきびしい中国という地域の当時の社会の現実が反映していたのではないか、などと想像したりもした。
 「狂画水滸伝豪傑一百八人十番続」は、武芸のパロディともいえ、「武士道」なるものへの茶化しともいえる強さを感じた。同時に「唐土廿四考」など笑い飛ばしかねないしたたかさも感じた。

 


「中平卓馬 火 氾濫」展

2024年03月30日 21時09分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日は東京国立近代美術館へ「中平卓馬 火 氾濫」展に行ってきた。あまり混雑はしていないと思っていたが、入場券売り場は20人ほど並んでいた。しかし会場は広く、じっくりと見ることが出来た。
 美術館のホームページには次のような解説がある。

《見どころ》
[これまで未公開の作品を多数展示]
近年その存在が確認された《街路あるいはテロルの痕跡》の1977 年のヴィンテージ・プリントを初展示。昏倒によって中平のキャリアが中断する前の、最後のまとまった作品発表となった雑誌掲載作13 点です。2021 年に東京国立近代美術館が本作を収蔵して以来、今回が初めての展示となります。また1976 年にマルセイユで発表されて以来、展示されることのなかった《デカラージュ》など、未公開の作品を多数展示します。
[カラー写真の重要作を一挙に展示]
1974 年に東京国立近代美術館で開催した「15 人の写真家」展の出品作《氾濫》をちょうど半世紀ぶりに同じ会場で再展示します。カラー写真48 点組で構成される幅約6 メートルの大作で、中平のキャリア転換期における重要作です。 
また、中平存命中最後の重要な個展「キリカエ」(2011 年)に展示されたカラーの大判プリント64 点を展示します。 
[雑誌から読み解く中平の試み]
『アサヒグラフ』や『朝日ジャーナル』など、キャリア前半の1960 年代から1970 年代前半にかけて発表された作品の掲載誌を多数展示。当時、雑誌は社会にイメージを流通させる手段として重要な役割を担っていました。写真がどのように流通するかについて常に意識的だった中平が、同時代の社会に対して、写真を用いて何を試みようとしていたのか、その実態を紹介します。
[展覧会構成・主な展示作品]
本展は初期から晩年にいたる中平卓馬の仕事を、5つの章でたどります。とくに2~4章では、1977 年に不慮の昏倒と記憶喪失により中断した中平の仕事が、どこへ向かおうとしていたのか、そこにいたる70 年代の展開を詳しくひもときます。

《中平卓馬プロフィール》
 1938年東京生まれ。1963年東京外国語大学スペイン科卒業、月刊誌『現代の眼』編集部に勤務。誌面の企画を通じて写真に関心を持ち、1965年に同誌を離れ写真家、批評家として活動を始める。
 1966年には森山大道と共同事務所を開設、1968年に多木浩二、高梨豊、岡田隆彦を同人として季刊誌『PROVOKE』を創刊(森山は2号より参加、3号で終刊)。「アレ・ブレ・ボケ」と評された、既成の写真美学を否定する過激な写真表現が注目され、精力的に展開された執筆活動とともに、実作と理論の両面において当時の写真界に特異な存在感を示した。
 1973年に上梓した評論集『なぜ、植物図鑑か』では、一転してそれまでの姿勢を自ら批判、「植物図鑑」というキーワードをかかげて、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」方法を目指すことを宣言。翌年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」展には48点のカラー写真からなる大作《氾濫》を発表するなど、新たな方向性を模索する。そのさなか、1977 年に急性アルコール中毒で倒れ、記憶の一部を失い活動を中断。療養の後、写真家として再起し、『新たなる凝視』(1983)、『Adieu à X』(1989)などの写真集を刊行。 2010年代始めまで活動を続けた。2015年逝去。
 1973年、自己批判を機に、それまでのプリントやネガの大半を焼却したとされていたが、2000 年代初頭、残されていたネガが発見され、それをきっかけとして2003年には横浜美術館で大規模な個展「中平卓馬:原点復帰-横浜」が開催された。

 中平卓馬の作品と人となり、主張は「犬の記憶」「犬の記憶終章」(森山大道)をとおして、また2003年横浜美術館での個展、さらに同時代性もあり、馴染みのある写真家である。同時に時々作品が見たくなることもある。そのたびに気に入った作品を見つけたり、再発見したりする。真似したい作品もある。
 「時代」と「反乱」ということを手放しては鑑賞できない。モノクロもカラーも惹かれる。しかし「ヴィンテージ・プリント」などという紹介が果たして中平卓馬にふさわしいとは思えないのだが・・・・。時代もずいぶん変わったものである。


中平卓馬展へ

2024年03月30日 10時25分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は急遽、竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「中平卓馬展」へふたりで行くことにした。4月7日までなのでまもなく終了してしまう。

 妻にとっては初めて目にする写真作品と思われる。

 出かける前に、一昨日・昨日のフラワー緑道の様子を少々。

      

 


嵐過ぎ去る

2024年03月29日 22時16分54秒 | 天気と自然災害

   

 14時を過ぎて、雨があがるとほぼ同時に太陽が顔を出し、風も急速に弱くなった。フラワー緑道を経由して横浜駅まで歩くつもりで家をでた。
 歩いているうちに、太陽に照らされ、しかも南風で暑くなり、まずは化繊の薄いセーターをリュックにしまい、最後に薄いウィンドブレーカーもリュックの中へ押し込んだ。フラワー緑道に着いた頃には、被っていた帽子も汗で色が変わっていたので、やはりリュックの中へ押し込んだ。
 本日の横浜の最高気温は15時過ぎに4月下旬並みの21.1℃にもなった。なお、最大瞬間風速は正午前に記録した28.2m、南南西の風であった。台風が通過したときのような風であった。



 フラワー緑道の近くにソメイヨシノが街路樹として植えられているが、間もなく咲き始めそうな蕾がいくつかあった。
 フラワー緑道のもっとも横浜駅寄りのあたりでボケなどの写真などを撮ったのち、有隣堂や家電量販店、百円ショップなどをブラブラ巡り、居酒屋へ。先ほど帰宅。

 明日は予定がない。


春の嵐

2024年03月29日 11時20分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日の午前中は、オンラインの美術講座「初めての日本美術史」(講師:中村宏美氏)の第3回目「鎌倉時代の美術」。昨晩遅くようやくプリント・アウトできた。いつもは一応事前に送信されたテキストに目をとおすのだが、目をとおすことができなかった。
 講座と昼食終了後、珍しく商業ビル内の喫茶店に入った。「都市空間の怪異」を読みながら、混雑している店内を眺めていた。目を休めながら周囲の客の様子をボーッと眺めていた。
 いつもの喫茶店よりも客数も多く、しかも若い層がほとんど。私の観察対象としては少々不向きであった。

 本日は昨晩から大雨・強風・雷・波浪注意報。今朝になって洪水注意報が加わった。南風の最大瞬間風速が20mを越えた。現在は雨はほとんど降っていないが、風はかえって強まっている。雨は時間換算で最大20ミリ程度の雨であった。風が強くなければ、特に心配はない程度の雨であった。
 この風で、団地内のケヤキの枝が芝生や道路にだいぶ散っている。ケヤキは風が強い時、枝を落として幹にかかる風圧をやわらげて身を守るのであろうか。春の嵐の域を越えている。

 本日は雨が上がっても風が弱まるまで外出は控えたい。

 


「都市空間の怪異」 その3

2024年03月28日 21時59分16秒 | 読書

   

 久しぶりに「都市空間の怪異」(宮田登)に目をとおした。第3章「都市と妖怪」の第1節「都市の怪異」まで読み進んだ。第2章からとても惹かれる記述が続いている。

戦乱の時期に「物の怪」がいろいろなメッセージを世に送り出すと人々は考えていた。「物の怪」が人間に対して警告を発する立場からものをいっている。災いをもたらすというよりも警告を発するという内容である。もともと「物の怪」は幸運をもたらすものであり、人間を庇護する役割を担った自然に属する精霊としての存在という見方があったことがうかがわれる。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)

日本のゴジラで重要なのは、水爆実験が生み出した存在であることと、海の向こうから出現してくることである。黒潮文化という日本文化の基層部分を校正した黒潮に沿って、海の彼方から怪獣がやってくるモチーフである。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)

一般論としては、妖怪伝承をたくさんもつ民俗は危険状況を乗り越えられると柳田國男はいっている。宗教が衰微してくると幽冥界の消息が不明確になってしまう。これは幽冥界に対する、あの世と霊魂に対する感覚を失いつつあることを示す。そうすると形骸化した宗教だけが残ってしまう。形骸化した宗教になると、精神世界そのものが末期的な症状になる。これが、終末というものを招く大きな原因になる。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)

柳田國男は幽霊と妖怪を区別する観点を示したが、これは幽霊の存在が共同幻覚の対象にならないという特徴にもとづくためである。特定の個人が、死者の生前の出来事に関わったため、その個人のみが死者と交流できるという霊魂観による。だから他者には幻視されない何かが映像化された。死者の霊魂をみる人が限定されているのに対して、妖怪は誰もが体験できるものと考えた。妖怪の属性として、出現する場所や時刻が限られててることをあげ、霊魂との関係からいえば、人間以外の霊が憑依したものと考えた。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)

南方熊楠が「実体なき幽霊」と「実体ありてかつて地上に生活し、もしくは現存する禽獣より訛り生ぜる妖怪」として幽霊と妖怪の相違を規定したところは面白い。実体がないとすれば、当然足跡は残らないのであるが、・・・生者とくらべるとどこかが不足してくる。頭がない幽霊も、へそのない幽霊もあり得る。だから生者に足があるならば、逆に幽霊に欠如するという考えは一つの道理ということになる。日本の幽霊は円山応挙の幽霊画に端を発し、そのイメージが普遍化した・・・。」(第2章「妖怪と幽霊」 第3節「幽霊の描かれ方」)

現代都市の生活空間に発生した怪異をテーマとするフォークロアを考えてきた。消えた乗客、学校の怪談、「リング」のモチーフなどは、共通して日本が近代化をおしすすめる20世紀に入ってから都市を中心に発生、展開した。その根にあたるモチーフは、女性の隠れた霊力に関する民俗信仰にもとづいている。女の霊力によるメッセージは、都市の病める精神の回復を促していることになり、それを発見する妖怪研究が今後も必要になってくる。」(第3章「都市と妖怪」 第1節「都市の妖怪」)


ヨコハマヒザクラ咲き始める

2024年03月28日 17時56分00秒 | 近くの自然

        

 旧東横線跡地のフラワー緑道に植えられたヨコハマヒザクラがようやく咲き始めた。例年のように濃い緋色の花が見事である。蕾もたわわである。
 明日の午後には気温も上がるとのこと。開花する花はさらに多くなると思われる。
 カワヅザクラが満開の頃は多くの人が足を止めていた一角。しばらくは通り過ぎる人ばかりであったが、本日は再び足を止める人が多くなっていた。

   

 カワヅザクラはすでに小さな実を無数につけ、結実しなかった蕊は生気を失い項垂れている。この小さな実ももう少し大きくなると、やがて鳥に食べられて数が一挙に減ってしまう。黒く熟するのはわずかである。
 一方で葉柄の赤が美しい。今がこの瑞々しい赤の見頃である。
 


天気と元気の回復

2024年03月27日 09時26分49秒 | 天気と自然災害

 昨日は21時ころにら風と雨が強くなった。風がおさまるとほぼ同時に雨も止んだ。雷は14時過ぎに一度大きな雷鳴があり、後は遠くでの雷鳴が幾度かした程度で終わった。パソコンの電源は落とさずにそのままにしていた。

 雨の止んだのが23時を過ぎていたので、とうとう昨日は外を歩くことはなかった。一日閉じこもっていたので、気分はすぐれないまま。
 読書をする気力もわかず、ブラマンクの図録を時々眺める程度で、あとはボーッとしているうちに一日が暮れてしまった。晴耕雨読というが、どうも私には苦手である。
 外に出向かないと読書もままならない。天気が回復すると、気分も晴れてくる気配がする。不思議であるが、天気の回復と元気の回復のきっかけは、昔から言われる通り関係があるようだ。

 本日は天気は回復したが、所用があり、読書ができるゆとりはなさそう。残念。

 


ヴラマンクの風景画

2024年03月26日 20時11分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 ヴラマンクの三越で開催されていた「没後30年・フランス野獣派の旗手 ブラマンク展」の図録を見ていたら、この作品《林檎の木と燕麦の畑》(1943年)という風景画が目に付いた。
 確かに見た記憶がある。1943年というのはヴラマンクが47歳頃の作品である。展覧会で見た当時の印象も思い出した。中央の嵐がやってくる前の不安な雲か、嵐の過ぎ去った後の雲間から差す陽射しを受けた雲か、どちらなのか不明であるが印象に残った。
 しかし題名を見ると、雲の下の燕麦と手前の木に作者は着目していたことになる。
 構図的に見ると、木の横に延びた幹の葉、雲、燕麦、手前の土に映る斜めの太陽光線の束、この強い横の線に対して右端の林檎の木の垂直な太い幹、実に単純である。しかし太陽光線の輝きと暗部が交互に重なって複雑である。またこの林檎の木の曲がり具合が実にいい。
 今回は畑の麦の細い垂直な線の連続もまた見どころに思えた。広々とした空間を演出している。もうひとつ雲は実にさまざまな形態をしているのも目に付いた。低い群雲、黒い雨雲、高層の雲等嵐に搔き乱された大気の様相を表している。
 念入りな構想力を感じた。

 


大雨・強風・雷・波浪注意報

2024年03月26日 14時54分19秒 | 天気と自然災害

 朝から雨が止むことがない。大雨・強風・雷・波浪注意報が出ている。
 14時の段階で9.9℃と未だ10℃に達していない。そしてつい先ほど雷が鳴った。まだ雷鳴だけなので、パソコンの電源は落としていない。
 親が昨晩より腰痛で具合が悪い。本日整形外科にいく予定であったが、雨が強いので明日以降に延期した。雨が階段室まで吹きこんでくるので、階段で転倒してはまずい。さいわい昨晩から服用した痛み止めが効いているのであろう、起き上がっている。

 レインアイよこはまを見ているが、雨の区域はまだまだ続いている。予報では日付が変わるころまで雨が続くらしい。
 本日もヴラマンクの図録を開いただけで、読書の気力はまだ湧いてこない。雨脚の強弱を聞きながらボーッとしている。

 ブラマンク 1940年 《嵐の風景》


ヴラマンクの花と花瓶 その2

2024年03月26日 12時57分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 昨日に続いてヴラマンクの花と花瓶の作品。本日は2回目。1922年の「花瓶の芍薬」と1946年の「花束」。制作した年を見ると長い年月に亘って花と花瓶の作品を描いていることがわかる。
 1922年の作品では対象の復元性は強いが、次第に形態の復元性は希薄になる。
 1946年の作品では筆致は粗くなる。しかも花瓶の置かれている空間への執着も希薄になっている。しかしあふれるような生命感は強くなるように感じる。同時に、花の醸し出す光の躍動が周囲の空間に与える影響がより強調されている、と感じた。


ヴラマンクの花と花瓶

2024年03月25日 22時00分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 読書の気力があまり湧いてこないので、本棚から2冊のモーリス・ド・ヴラマンク(1876-1958)の図録を2冊引っ張り出してきた。ひとつは1989年に日本橋三越で開催された「没後30年・フランス野獣派の旗手 ブラマンク展」と、1997年にBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「生誕120年記念 ヴラマンク展」の図録である。
 「花瓶の花」(1939-40年)は前者に展示され、「花」(1940年)は後者に展示されていた。
 激しい嵐の風景画を描くブラマンクが、静物画、しかも花瓶の花を描くのかと驚いたものだが、激しいタッチの花々が花瓶からあふれ出るように描かれている。大変印象的な作品を両展覧会で堪能した。
 特に黄色の細い花弁とつややかな黒い花瓶が印象的な「花」を私は気に入っている。白い花弁に呼応するように多分室内の光の乱反射を描いたと思われる白い光線の短い煌めきも線香花火のように忘れられない。
 この外の花瓶と花を描いた作品が多数展示されていた。硬質で陶器の表面のつややかな花瓶をねっとりとした質感に描き、対称的にそれまでの画家が柔らかく描こうとした花を勢いのある強い筆致で描いた転換が私の目に新鮮に映った。粗い勢いのある筆致と言ったが、決してぞんざいではなく、花の形や色彩は良く計算された描き方でもある。
 しかしこの激しい生の横溢に圧倒されるような花と花瓶は、狭く密閉された日本の家屋には合わない。少なくとも我が家の壁に掛けたら、圧倒されて居住者である私は縮こまってしまいかねない。

 2冊の図録はだいぶぼろぼろになってきた。

 


腰痛とは長いお付き合い

2024年03月25日 17時59分43秒 | 病い

 天気予報通りに夕方からは雨は上がった。しかし今にも降り出しそうな雲行きであることに変わりはない。予報では日付の変わるころから再び雨になるらしい。そして明日は本降り。かなり強い雨になるとの予報になっている。

 本日所用があり、横浜駅近くまで出かけたものの、すぐに帰宅。フラワー緑道のヨコハマヒザクラの開花状況を見たかったが、諦めてバスの車窓から眺めた。一斉開花、という状態ではなかったが、開いている蕾がかなりあった。
  3月に入ってからの寒さで、開花はずいぶんと遅くなっている。

 帰宅してみると昨日と同じ、5000歩ほど。いつもの日の5000歩とは違って実にのんびり歩いている。姿勢は相変わらずあまり良くない。なかなかお薦めの「正しい」ウォーキングの姿勢にはならない。姿勢をよくすることについては、ほぼ諦めている。
 心配した腰痛はなんとか発症していない。明日もう一日おとなしくしていたい。30代になりたての頃からだから、腰痛とは40年を越える実に長いお付き合いになっている。お付き合いしたくないのだが、向こうから寄ってくる。

 今夜から少しずつ読書の時間を元に戻したい。気分転換にちょっと違うものを読んでみるのもいいかもしれない。


腰に負担がかからないように・・・

2024年03月24日 22時43分16秒 | 病い

 火曜日の天候は雨の時間が長いようなので、火曜日の予定を繰り上げて明日所用を済ませることにした。しかし明日も15時頃まではごく弱い雨が降るようだ。
 できるだけ外は歩かないように所用を済ませてしまいたい。ただし早歩きや、長い距離の歩行は避けたい。5千歩を目途に帰宅したいものである。本日のように痛み止めの薬も財布に入れ、用心したい。
 どうしても足を引きづってしまうので、左右のバランスも悪く、右側の腰に負担がかかってしまう。それを避けるには人通りが少ないところをゆっくりと歩く必要がある。それを心掛けたいもの。傘を差しながら歩くのもあまり良くないようだ。

 あまり悩んでもしようがないので、雨が降らないことを願って、風呂にゆったりと浸かり、湿布薬をたっぷりと摺り込んで寝てしまうことにした。