私のパソコンには、広辞苑第4版をはじめ、英和・和英、漢和辞典、古語辞典、そして白川静の「字通」などをインストールしている。そしてパソコン台には、国語辞典、漢和辞典、古語辞典のほか、白川静の字統、字訓、歳時記が常備してある。すぐ傍の本棚には、ぼろぼろになった広辞苑の初版と角川書店の漢和中辞典と小学館の古語辞典のほか、英和・和英・独和・仏和辞典が並び、寝台の枕元には、国語・緩和・古語辞典のコンパクト版を置いている。
これだけの辞書、使い分けているほど使用してはいないが、しかし辞書というものは、てもとにあるとほっとするものである。また欲しいときに手元にないとじつに寂しいものである。
私は辞書をめくるのが好きだ。中学生になった時、学校で広辞苑の初版と角川の漢和中辞典、そして英和・和英辞書を購入した。
特に広辞苑と漢和辞典は宿題をしていて必要な語や漢字をひくと、関連語・字を次から次へと追いかけ、肝心の宿題から逸れていってなかなか宿題を終わらすことができなかった。このように辞書の森の中を散策するのが楽しみであった。反対語、同意語、関連語、隣に並んだ言葉、目的の語を探す途中で眼をひかれた言葉‥。言葉や字の森をあてどなくさまようように並んでいる木々をたずねて回った。
そして木々の幹の手触りを楽しむように、言葉や字の感触を楽しんだ。木々の枝葉を見上げるように、派生する言葉や字を探った。森の中を歩いていると意外なところに小さな獣道を見つけるように、思いがけずに知った言葉に出会ったり、間違って覚えていた言葉や字の意味を発見したりした。
散策で出会った言葉や字の数々、いちいちは覚えていないが、しかしこの散策は決して無駄ではなかったと思っている。いまでもこの広辞苑や漢和中辞典をひいていて、なぜか懐かしいような語句に出会うことがある。理由はわからない。45年も昔にきっともう忘れてしまった経路を経て、たまたまひいたりながめたりした語句かもしれない。
今はもう辞書の森の中を散策することはなくなったが、それでも辞書を引くことは多分多いほうだと思う。白川静の辞書三部作はきっとこのような散策を前提にして、迷い込むことの楽しみな辞書だと思う。本当はこの辞書の森、白川静の森に迷い込みたいのだが‥そんな若々しい感性がなつかしい。
その一方で英語をはじめ諸外国後はさっぱり身に付かなかった。そして中学・高校でつかった辞書はもう手元にない。辞書が手になじまなかったためにそれらが身に付かなかったのだろうか。英単語をなめるように覚えさせられたが、残念ながらそのようにしては単語の力は付かなかった。辞書をめくる楽しさの記憶があまりない。辞書を消耗品のように、単語帳のように扱った教育の報いだろうか。少なくとも他の生徒に比して私の英語力は良くはなかった。辞書の森に遊ぶゆとりが私にはなかった。そして今あるのは大学の時に使ったコンパクト版ばかりだし、めったにこれを紐解くこともない。