Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春近し・春隣り

2021年01月31日 22時59分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 

 作成していた退職者会の記念誌、昨日までに出来上がった分を打ち出して、本日の作業は終了。明日は昼から組合の会館で会議。
 会議はそれほどの時間はかからないと思うので、終了後は自宅までウォーキングと考えている。天気は悪くないようだし、気温も温かいとの予報が出ている。

★春近し時計の下に眠るかな       細見綾子

 明日はもう2月。今年は節分が2月2日、立春が2月3日である。しかし本日の気温からは「春」は遠い。しかし明日は気温は上がるとのこと。春を感じることができるであろうか。
 この句、春が時計の下に眠っているという認識を詠んでいる。多分間違いがないであろう。昔、家には必ず古びた柱時計があった。ネジ巻きが日課だった子ども時代を思い出す方も多いであろう。あの木目の箱の下に、まだ目覚めていない春が寝ている。それは見えないが、確実に存在を予感できるのであろう。柱時計でなくても、例えば押し入れの襖の木の枠に、あるいは雨戸の戸袋の中に、春がたたずんているという認識を幼いころに持った経験はあるのではないか。
 その経験というのは、多分木の存在とは切り離せない。柱時計の磨かれた光沢のある木目、襖の周りの濃い茶色の木の枠の縞模様、戸袋のうす暗い隙間に光る細い日の光の輝きに温みを感じた時、そんなときに春を感じたものである。

 だが、私はこの句を読んで、いつも柱時計の下に布団を敷いて寝ていたことを思い出した。時計の下にいるのは、私自身ではないのか。そして明け方の時を打つ音とともに目が覚めて、寒さの中にふと春の気配などを感じたかもしれない幼いころの自分を想像してみた。布団からなかなか抜け出せない自分と、それでも目が覚めてじっとしていられない活力にあふれていた幼少のころの自分を見つめた作者を想像するのも悪くはない。 


「図書2月号」 その1

2021年01月31日 20時12分12秒 | 読書



 一昨日に岩波書店の広報誌「図書2月号」が届いていた。いつものように覚書としていくつか引用してみたい。

・[表紙]夢遊              司  修
「白鳥が、シベリアを目ざすのは、地軸が30度傾く前の、温暖緑地帯へなのだ、という詩人・吉田一穂の仮説に、夢を膨らませました。」
 地球史から見た当否はさておいて、どんな文章でどのような文脈なのか、興味がわいている。詩の作品としたら何という作品なのか、探してみたい。

・超えなくして人を呼ぶ         川端知嘉子
「くず箱の中から拾い集めた色糸をひたすらくっつけて、途方もない時間の果てに生み出された鮮烈で美しい衣。‥それは「余白の美」では片づけられない世界だ。美術教育からは生まれない、どこまでも自らの心にのみ忠実な世界に思わず見入ってしまう。‥教育、広告宣伝、流行、そうした情報は外へと向かう俤を掛けるが、一人で黙々と内へ内へ奥へ奥へと降りたところで生まれたものには時間を超えた不思議な力が宿っている。」
 「不思議な力が宿っている」ことはそのまま同意をするのだが、そして多くの過去の芸術作品もまたそのようなものに強く惹かれるのだが、果たしてそれだけが「普遍性」を獲得する力なのか、というところが私にはまだわからない。「内へ奥へ降りる」ことは、その実、もがいて ももがいても他者が見えてこない、他者との関係がますます希薄になっていく、そんな矛盾に今の時代の芸術はもがいているのではないだろうか。目立つことを目的として、これ見よがしに他者を押しのけろと言うのではない。
 意識の上で「世界を獲得する思惟」への指向が感じられないと、普遍性だとか、他者の獲得はできないのではないか、そのような思いが私にはある。

・シェイクスピアの史劇八作品連続上演を終えて   鵜山 仁
「歴史劇としては、絶対王政という国家統合システムの建設にあたって、古い制度、思弁、人間関係、地域性、これら雑菌繁殖の温床になるようなものをできる限り排除し、ノイズを除去する、その効率化のプロセスがえがかれているのだと考えてもいい。しかし例えばフォールスタッフのように、最後にはお払い箱となって抹殺されてしまうノイズの、なんと魅力的な事か。のわたりがわれわれ芸能の出番である。国家が不要不急と切り捨てたものを、劇場という汚水処理施設が引き受け、これを芳醇な飲料水として、もしくはワクチンとして社会に還元する。芸能やアートの役割というのは結局そんなものだろうという気がする。」
「「言葉」は目に見えるものの交換に役立つばかりではない。実に様々な現象、感情、観念等、目には見えないものをも取り込んで他者との、そして「宇宙」との交換、共生の道を開く貴重なツールだ。そこにできるだけ豊かな温度、色彩を吹き込み、「声」として、「表情」としてライブの時空に解き放つことこそが、アートの役割だろう。」

・分断を超えるハンセン病文学の言葉   木村哲也
「ここ数か月の新たな感染症の流行によって私たちは、新たな分断による境界が引かれる体験をした。いまもそのさなかにある。その分断を超えて人々が結び合うには、文学の言葉、詩の言葉が必要だ。大江満男とハンセン病療養所の詩人たちの交流の軌跡が私たちに教えてくれるのは、このように豊かな世界なのである。」

・サロンという登竜門          青柳いづみこ

・子どもらしさ             畑中章宏

・孤独なものたちの行き場        寺尾紗穂
「(『かあさんは魔女じゃない』という作品で)、「はっきりしないことば」でことわる。「それが魔女狩りの始まりさ」自分がそうしたいか、したくないか、あるいはなぜそうしたくないのか、という理由もはっきり言えないまま、漠然と人は集団の文化や常識の中で自他を比較し、バランスをとりながら生きている。集団が穏健なうちはそれでいいだろうが、その常識が偏向していったときには、ひはや手遅れであることが多い。」

 本日は、7編を読んだ。


バッハ「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全6曲」

2021年01月31日 16時59分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は、J.S.バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全6曲」。ヘンリック・シェリングのヴァイオリン、ヘルムート・ヴァルヒァのチェンバロ。1969年の録音。
 このCDはあまり聴くことがなく、購入した時期も不明。購入して数回は聴いたと思うが、曲そのものの印象もない。
 初めて聴くようなものである。ただし2番(BWV1015)は記憶していた。このCDでの記憶というよりも、演奏会かどこかで聴いた記憶かもしれない。

 印象は、かなり派手で歯切れがよく、明るい曲と思われる。ヴァイオリンの音は、曲そのものの作りのためなのか、演奏者シェリングの特徴なのか、弾いているヴァイオリンの特質なのか、高音がとても乾いた響きである。
 このバッハらしいと思える明るさが、私が数十年前から聴くのを避けてきた原因かもしれない。

 


ヘンデル「ヴァイオリンソナタ全6曲」

2021年01月30日 20時54分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 USBスピーカーを使って、私の好きな曲を連続して聴いている。本日はヘンデルのヴァイオリンソナタ、6曲。全6曲ともにすっかり頭の中に入ってしまった。もう50年も弾いていないので、弾くことはかなわないが、第1、第4、第5は左指と右手が自然に動いている。
 アルテュール・グリュミオーのヴァイオリンとラクロワのチェンバロで1966年の録音。私にとってはとても気に入っているCDである。
 同じ曲をもう一枚のCDでも聴いている。ヨゼフ・スークのヴァイオリンでルージチコヴァーのハープシコード(チェンバロ)で1975年の録音。
 グリュミオーとヨゼフ・スーク、前者はやはり名手であり録音も名盤といわれるが、後者は私の大好きなヴァイオリニストである。音量や演奏技術、音の厚みでは多分グリュミオーの評価のほうが高いのだと思う。確かにスークは線が細いと思われる。また抑揚も常に抑え気味である。派手さがない。しかし音の美しさと正確さという点ではスークは私の好みである。

 音の厚みや華やかさからはグリュミオーであるが、この6曲で静かな夜をひとり孤独に過ごしたいならばスークの演奏のほうがいい。

 スークの演奏は生意気を言わせてもらえば、協奏曲よりは室内楽向きである。また独奏曲よりはアンサンブルがいい。だが、私はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を初めて聞いたとき、スーク、チェコフィル、フランツ・コンヴィチュニーの指揮による演奏であった。LPのジャケットの写真がボヘミア地方の麦畑の風景で、演奏とぴったりと一致しているようでとても気に入っていた。何といっても最初の4つの四分音符のティンパニーにしびれる。そして第2楽章の美しい演奏も気に入っている。今でもCDに買い替えて大事にしている。
 ヨゼフ・スークはそれ以来の付き合いである。


本日の夕焼け

2021年01月30日 19時47分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 買い物に付き合ったのち、もう一度30分ほどウォーキングに出かけた。合わせて1万歩は超えた程度。日が沈むととても寒く感じた。しかし日が沈んだ後の西空は大変美しかった。富士山の美しさは、雲によってずいぶんと差が出るものである。雲がなければあまり面白くない、という評も当たっていると思う。
 もう少し富士山が大きく見えるといいのだが。以前に横浜市の西の端に近いところに住んでいた時の富士山はもっと大きく見えて、気に入っていた。以前にそこを訪れて富士山を眺めた時はうれしかった。しかし家は谷あいにあったので、7分ほど歩かないと富士山も丹沢も見ることはできなかった。それに比べれば今は30秒も歩かずに眺めることはできる。贅沢といえば贅沢である。

 買い物では、荷物持ちを覚悟していたが、無料の配送を依頼。帰り際に喫茶店でコーヒー1杯の「ご褒美」。

 夕食後の休憩もおわり、これより明日のオンライン講座の資料の印刷、並びに「美術の物語」の第16章に目を通す予定。


作業はこれまで‥

2021年01月30日 13時33分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日に引き続きJ.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」を聴きながら、午前中の作業を行った。まだ予定したところまで少しだけ届かないが、肩も凝り、眼もしょぼしょぼしてきたので、本日の作業はこれにて終了。
 明日の午後に打ち出して明後日の会議に持参することにした。40ページのうち90パーセンチ近くまでは出来上がったと思われる。追加記事や推敲しなくてはいけない部分、訂正箇所もまだまだたくさん出てくるとは思うが、ほぼ形が出来上がった。

 これよりいつものとおり、午後の散歩・ウォーキング。土曜日でもあり、一人ではなく二人で出かけることになった。とはいっても勤めてはいないので、二人とも土曜も日曜も平日も関係はないのだが‥。

 明日のオンラインの講座「美術の物語を読む」の資料の打ち出しと、テキストの読み込みは夜の楽しみである。

 


一月の星

2021年01月29日 21時37分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日は少々遠くまで歩いてみた。しかし帰りは日も沈み、寒くなり、遅くなると夕食時に間に合わないとまずいので、バスにて帰宅。1万5千歩ほどになった。
 途中の喫茶店で一服、「眼の神殿」(北澤憲昭)を30ページほど読んだところで友人からメールの来信。そのままスマホでニュースを見ていたら、眼が疲れてつい寝てしまった。気が付いたら30分ほど寝ていたようだ。

★野歩きの果一月の星得たり       細見綾子

 本日は星が見える時間にはすでに帰宅していたけれども、日没が早いこの時期、外を歩いているとつい日没になってしまう。
 寒空で星を見上げると寒さが背中を震わせる。
 そんなときでも星を見上げるのが好きな人にとっては、ウキウキしてくるものである。そんな趣味のない人には理解できないと思われるが、冬は星が美しい。
 オリオン座の星々や、シリウス、プロキオン、ふたご座の星々を見つけると寒さも消えてしまう。そこまで暗くなくとも、夕陽が沈む一瞬の茜色が寒さを和らげてくれる。関東地方からの夕陽は富士山のそばに沈んでいく。冬空ならではの富士山は輪郭がくっきりしている。丹沢を従えて、堂々として、実に鮮明である。
 星の姿や輝き、そして入り日の情景も、雄大である。


バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」

2021年01月29日 20時02分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日朝の作業時間から聴いている曲はJ.S.バッハ(1685-1750)の無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータのそれぞれ第1~第3。演奏はアルテュール・グリュミオーの1960~61年にかけての演奏。古い演奏であるが、録音は鮮明でごく最近の録音の様に聴こえる。
 とても気に入っている演奏である。
 50年も前の学生のころ、先輩がバッハというドイツ人の音楽をフランス人のグリュミオーが弾いていてもいい演奏のはずがない、といったのを聞いてそんなものか、と思ったことがある。当時はLPの時代で、購入しようか迷っていた時に言われた。今となっては意見を求めた人を間違ったのだと思う。あの先輩はこの演奏を生涯聴くことがないのだろうかと思うと、残念な人なのだったと思う。まあともに若かったのだということにしておこう。
 ただしあの時、意見を求めずにLPを購入していたら今頃はこのCDを持っていなかったかもしれない。偶然とは不思議なものである。


冬の空

2021年01月29日 13時20分11秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 午前中の作業は終了。天気も回復したので、これより外出。散歩のようなウォーキングに出かける。コースはいつものように未定、途中でコーヒー&読書タイムとなるとうれしい。
  妻も所用があり、出かけるとのこと。夫婦別々の目的とコースと時間で外出。

★蓋のない冬空底のないバケツ      渡辺白泉
★天ぷらの海老の尾赤き冬の空      波多野爽波

 第1句、「蓋のない空」とは抜けるような透明の空を形容するのによく使われる。秋でも冬でも使われるがここでは冬と限定している。「底のないバケツ」は古くて用をなさないもののたとえにも使われる。遠景と近景の対比という解釈が普通だが、私は「蓋のない冬空」をじっと眺めていると、ふと底のないバケツをとおして冬空を眺めているような錯覚に陥った心境を詠んだのかもしれないと感じた。
 細い筒をとおして遠くのものを見ると鮮明に見えることがある。古いバケツの底を上にかざして空を見上げても、何もなくただ青く、無限に遠くまで空虚が続く。「空」も「底の抜けたバケツ」も人の役には立たないし、普段は意識の外にある。が、厳として存在している。そんな存在に気が付いた句と解釈しても悪くはないと思う。

 第2句、この句も室内の食卓に載ったてんぷらの海老の赤い尻尾と、室外の冬の空の対比と解釈するのが一般出来だろう。だが、冬の温かい日に外でお弁当を食べていても悪くない。容器からはみ出した海老の赤い尻尾と、青い冬の空の対比、さらに無用として食べかすとして容器ごと捨てられる海老の尻尾と、陽射しをもたらしてくれる太陽ばかりに気を取られて存在を忘れがちな青い空。人の意識の外、「無用」のものの対比である。
 ちなみに私は火を通した海老の尻尾は必ず食べる。好物である。バリバリと噛みしめると海老の味がほのかに残っている。そして冬の青い抜けるような空も好きである。こずえの細い枝越しに見ると若い芽が映えて、春を想像できる。


モーツアルト「弦楽五重奏曲第1番、第2番」

2021年01月28日 22時56分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 横浜では本格的な雪になる前に、霙が止んでくれた。しかしとても冷え込んでいる。明日の明け方には道路に水が溜まっているところは凍結は間違い。歩行者だけでなく、自転車も自動車も気を付けたいものである。



 本日聴いていた曲は、モーツアルトの弦楽五重奏曲第1番と第2番。第1番はまだ10代の時(1773)に作り始めたらしいが、決定稿は1778年。22歳のときという。聴くとすぐに若いころのモーツアルトらしい、と思うのだが私にはあまりなじめない。底抜けの明るさばかりが押し寄せてくる。
 これに反して晩年の1787年の作の第2番は第3番、第4番とひとくくりでフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世に検定される予定で果たせなかった曲集に含まれていたとのこと。第3番と第4番は曲想的に対であるが、これは1772年の時に作られた管楽八重奏のためのセレナーデを改変したとのことが解説に記されている。
 どうもこの曲はどこかで窮屈な響きを持っている。第1番よりは私の好みではあるが、第3番、第4番とは異質である。第2番は全曲をとおして高音の響きが抑えられている。これ以上具体的に言えないのがもどかしい。この「管楽」を「弦楽」に改編したことと関係があるのだろうか。
 しかしこの2曲を並べると、初期のモーツアルトと30代のモーツアルトの違いを体感する。そんなことを考えながら、本日の鑑賞は終了。

 できれば、明日には退職者会の記念誌の編集作業をほぼ終了したいと思っている。果たしてそこまでうまくいくであろうか。土曜・日曜は細かなところの修正作業にしたい。


冬籠り

2021年01月28日 16時54分11秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 寒いと思ったら、すでにみぞれになっていた。予報を見るとまもなく雪となり、21時までは降るらしい。
 雪が混じるのは、今年初めてだと思う。同時に午前中に病院に行ってよかった。

★鉄瓶に傾ぐくせあり冬ごもり      久保田万太郎
★背に触れて妻が通りぬ冬籠       石田波郷

 第1句。火鉢に据えられた五徳の上の鉄瓶のことだろうか。あるいは囲炉裏の自在鉤に吊るされた鉄瓶のことだろうか。いづれももはや若い人には死語であろう。かくいう私も、火鉢と五徳は我が家にあったので知っているが、自在鉤をいじったのは山小屋で2度ほどあるだけ。旅館で飾ってあるものや、民具を並べた小さな博物館のものを見ることはたびたびある。
 五徳でも鉄瓶の座りが悪くて傾いてしまうのが気になる。まして自在鉤の場合は自在鉤の動かし方だけでなく、鉄瓶のかけ方にもよってすぐに傾いてしまう。下手するとお湯がこぼれて大変なことになる。少量でも灰が小さな爆発のように舞い上がってしまう。
 冬ごもりをして、じっと鉄瓶を見つめ、その音を聴いている時間。外に出られないほどの雪か寒さを感じる。秋口ならば、体を動かしてここまで鉄瓶を意識することもないのである。鉄瓶にはつい水を入れすぎて、沸騰すると口からお湯がこぼれることもある。これもまた灰を台無しにし、部屋中を灰だらけにしてしまう。
 鉄瓶の微かな傾きと同時に湯気と、曇る眼鏡と、そして褞袍(どてら)の温い重さを感じる句である。

 第2句、夫婦の情愛が感じられる。病弱の波郷にとっては、妻の手が触れる一瞬というのはホッとしたなごみの一瞬だったと思われる。意識的に手で夫に触れるだけでなく、豊かとはいえない小さな家の狭い室内で、行き来する妻と体が触れてしまう一瞬の温みを感じる。


予報どおり雨

2021年01月28日 14時13分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は出かける予定にはなっていなかったが、昨晩になって血圧の薬を処方してもらわないといけないことに気が付いた。慌てて昨晩のうちに一か月の血圧測定値をエクセルに記入した。予定よりも30分ほど遅く就寝。
 しかし眼が冴えてしまって眠れなくなった。2時間ほど布団の中で悶悶としたのち、親が一昨年処方してもらったものの、服用しなかった眠剤を1/4錠を2時半頃に服用した。私の親は1回に2錠と指示されていたそうだが、私は1/4錠で十分眠れる。
 一昨年に初めて服用したときは1錠で確かめてみた。そのとき、6時間ほどして目が覚めると頭が重苦しかった。次に1錠の半分で試したが、変わらなかった。それからは、1/4錠で月に1~2度ほど厄介になっている。まだ48錠もある。多くて月に2回服用したとして2月で1錠。つまり8~16年分もある。そのころには薬も使用期限を過ぎている。

 午前中はいつもの内科におもむいて血圧の薬を処方してもらった。
 帰宅して一時間ほどして雨となった。天気予報どおりである。風は目が覚めた時には収まっており、静かな目覚めであった。しかし強風注意報は解除されていない。夜にはみぞれの予報もある。

 午前中の作業予定は、これから開始。


明日はみぞれの予報

2021年01月27日 21時34分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 21時ころから風が唸り始めた。

 明日は夜から雨、気温が午後から低くなり、霙になるとの予報になっている。
 気温の上下が激しいためか、日曜日にウォーキングの帰りに冷たい雨に当たったのがいけないのか、体調はあまりよくない。
 そういえば朝も肩が凝ってつらかった。背中もつらく、妻に背中を押してもらった。それでも背筋のだるさは解消されなかった。
 本日は早めに就寝とすることにした。
 
 明日は出かける予定はない。寒そうでもあり、家でぬくぬくとしていたい。


モーツアルト「弦楽五重奏曲第3番、第4番」

2021年01月27日 20時26分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昼食後も14時過近くまで作業を継続。目が疲れて本日は終了。雲が切れて明るくなってきたので、横浜駅の手前の喫茶店まで歩いてみた。帰りは地下鉄を利用。ホームがだいぶ混雑していた。
 眼の疲れが取れないので、1時間半ほど布団に潜り込んでいた。睡眠時間はわずかで、眼を閉じでおとなしくしていた。読書もほとんどせずに、この時間になってしまった。



 モーツアルトの弦楽五重奏曲の第3番と第4番を聴いている。本も読む気力がわかず、眼もあまり調子がよくない。モーツアルトには失礼とは思うが、こういう時はこのような曲を聴いて心を落ち着けるのがいい。6曲の弦楽五重奏曲のなかでも好まれる2曲といわれる。第3番と第4番は同じ1787年の作。ついになる作品である。

 第3番の第1楽章のチェロの刻みが心地よい。第3楽章のアンダンテは、室内楽の美しさを存分に味わえる。第4楽章のアレグロは軽快で、第1楽章と違いヴァイオリンの刻みのようなメロディが軽やかである。これに続くチェロの刻みが軽やかに聴こえる。モーツアルトならではの妙だと思う。

 第4番は第3番と対照的に明るさはなく、内向的な曲である。いかにもト短調という響きがする。刻みはヴァイオリンやチェロではなくヴィオラの比重が大きいと思う。この曲の曲想にも影響を与えている。第1楽章は口ずさめるほどに印象深い。小林秀雄が「疾走する悲しみ」と表現したのは有名。
 第3楽章は内向的というよりも沈鬱な気分。第4楽章でふたたびト短調にもどりアダージョ。重々しい足取りが続く。ヴァイオリンの高音のメロディーもヴィオラの伴奏が重々しいのに引きずられている。ようやくト長調のアレグロになり、明るさが見えるがところどころメロディーが浮かび上がらずにもどかしい雰囲気を醸し出している。


モーツアルト「弦楽五重奏曲第5番、第6番」

2021年01月27日 10時07分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 本日の午前中の作業のお供は、モーツアルトの弦楽五重奏曲第5番と第6番。モーツアルトの死の前年と死の年の作品である。
 印象に残っているのは、二つの曲の第一楽章の冒頭のが対照的なこと。第5番は少し内省的で心を静める曲。第6番は躍動的で心が軽やかになる曲。しかしフィナーレはともに明るく躍動的である。
 モーツアルトの自在な曲作りと豊かな楽想が発揮されていると思っている。1989年の録音でメロスカルテットに第二ヴィオラにピエロ・ファルルリを加えた編成、と記されている。

 本日の午前中の作業は引き続き退職者会の記念誌の編集の続きをしている。午後から雨は上がるらしいので、昼食後に何をするか検討。