「選択本願念仏集」(法然、岩波文庫)を読んだ。私は、信仰という地点からは程遠い人間だが、思想の書として覗いてみたくなった。鴨長明の発心集にも触発された。鴨長明の発心集はそのほとんどが阿弥陀経の称名念仏による発心譚、往生譚である。念仏信仰の中世的な祖師の法然の著述を読んでみたかった。
仏教的な思惟の書であり、念仏信仰の論理的擁護の書であるから素人の門外漢には中世の古文であることを差し引いても理解不能の箇所が圧倒的に多い。どれだけ理解したかはっきりいって心もとないが、思想の根拠、強さはほのかに感ずることはできたと思う。
中世の仏教のうち、法然に始まり親鸞、一遍へとたどった浄土信仰が、武士・民衆にその底辺を広げ教線をのばした背景には、
「もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多し。もし知恵高才をもつて本願とせば、愚鈍下智の者は定んて往生の望を絶たむ。しかも知恵の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多門多見をもつて本願とせば‥少聞のものは甚だ多し。もし持戒持律をもつて本願とせば‥破戒の者は甚だ多し」(選択本願念仏集(三))
があったことが理解できる。これは一般的に言われていることであるが、この文章がその根拠なのであろう。
しかし私には次の文章が頭から離れない。
「汝、何をもつてか、乃ち有縁にあらざる要行をもつて、我を障惑するや。しかも我が愛するところは、即ちこれ我が有縁の行なり。即ち汝が所求にあらず。汝が愛するところは、即ちこれ汝が有縁の行なり。また我が所求にあらず。」(選択本願念仏集(八))
私の理解では、「私は私の信ずるところを行う。私を批判する者は批判するよりも己の信ずることを行えばよいではないか」ということであろう。ここまで言い切れば、それは論理ではない。良い意味で開き直りである。思想の書といい、論理の書といっても、それはあとからのもの。初心と自分の信ずる行をひたすら進むのみ。お互いの論難など大きな意味を成さない。
ここの地点まで立てれば、これは強い。そしてここの部分に法然の力強い一声があるような気がする。それは親鸞の「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々」(歎異抄)へと続く「信」というところの究極の在りようであろう。
法然も親鸞も第一級の知識の人であった。しかし彼らの「信」は、知識故の論理的帰結としての「信」ではなく、究極の立脚点は直感的な「信」であったことがこの「本音」とも言える言及に察せられるのではないだろうか。
私は、江戸時代末期の「若疑シク覚候ハバ我等ノ所業終候処ヲ爾等眼ヲ開テ看ヨ」(大塩平八郎)をも思い出す。政治的な敗北必死の中の行動者の言と、国家と密接な関係の中にあった宗教の革新者の言とは、比較すること自体、意味はないかもしれないが、言葉の発するところは同じだ。「信」を「信念」と言い換えてみればうなずけるものがある。
仏教的な思惟の書であり、念仏信仰の論理的擁護の書であるから素人の門外漢には中世の古文であることを差し引いても理解不能の箇所が圧倒的に多い。どれだけ理解したかはっきりいって心もとないが、思想の根拠、強さはほのかに感ずることはできたと思う。
中世の仏教のうち、法然に始まり親鸞、一遍へとたどった浄土信仰が、武士・民衆にその底辺を広げ教線をのばした背景には、
「もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多し。もし知恵高才をもつて本願とせば、愚鈍下智の者は定んて往生の望を絶たむ。しかも知恵の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多門多見をもつて本願とせば‥少聞のものは甚だ多し。もし持戒持律をもつて本願とせば‥破戒の者は甚だ多し」(選択本願念仏集(三))
があったことが理解できる。これは一般的に言われていることであるが、この文章がその根拠なのであろう。
しかし私には次の文章が頭から離れない。
「汝、何をもつてか、乃ち有縁にあらざる要行をもつて、我を障惑するや。しかも我が愛するところは、即ちこれ我が有縁の行なり。即ち汝が所求にあらず。汝が愛するところは、即ちこれ汝が有縁の行なり。また我が所求にあらず。」(選択本願念仏集(八))
私の理解では、「私は私の信ずるところを行う。私を批判する者は批判するよりも己の信ずることを行えばよいではないか」ということであろう。ここまで言い切れば、それは論理ではない。良い意味で開き直りである。思想の書といい、論理の書といっても、それはあとからのもの。初心と自分の信ずる行をひたすら進むのみ。お互いの論難など大きな意味を成さない。
ここの地点まで立てれば、これは強い。そしてここの部分に法然の力強い一声があるような気がする。それは親鸞の「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々」(歎異抄)へと続く「信」というところの究極の在りようであろう。
法然も親鸞も第一級の知識の人であった。しかし彼らの「信」は、知識故の論理的帰結としての「信」ではなく、究極の立脚点は直感的な「信」であったことがこの「本音」とも言える言及に察せられるのではないだろうか。
私は、江戸時代末期の「若疑シク覚候ハバ我等ノ所業終候処ヲ爾等眼ヲ開テ看ヨ」(大塩平八郎)をも思い出す。政治的な敗北必死の中の行動者の言と、国家と密接な関係の中にあった宗教の革新者の言とは、比較すること自体、意味はないかもしれないが、言葉の発するところは同じだ。「信」を「信念」と言い換えてみればうなずけるものがある。