Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

「選択本願念仏集」を読む

2011年01月30日 13時27分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「選択本願念仏集」(法然、岩波文庫)を読んだ。私は、信仰という地点からは程遠い人間だが、思想の書として覗いてみたくなった。鴨長明の発心集にも触発された。鴨長明の発心集はそのほとんどが阿弥陀経の称名念仏による発心譚、往生譚である。念仏信仰の中世的な祖師の法然の著述を読んでみたかった。
 仏教的な思惟の書であり、念仏信仰の論理的擁護の書であるから素人の門外漢には中世の古文であることを差し引いても理解不能の箇所が圧倒的に多い。どれだけ理解したかはっきりいって心もとないが、思想の根拠、強さはほのかに感ずることはできたと思う。

 中世の仏教のうち、法然に始まり親鸞、一遍へとたどった浄土信仰が、武士・民衆にその底辺を広げ教線をのばした背景には、
「もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多し。もし知恵高才をもつて本願とせば、愚鈍下智の者は定んて往生の望を絶たむ。しかも知恵の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多門多見をもつて本願とせば‥少聞のものは甚だ多し。もし持戒持律をもつて本願とせば‥破戒の者は甚だ多し」(選択本願念仏集(三))  
があったことが理解できる。これは一般的に言われていることであるが、この文章がその根拠なのであろう。

 しかし私には次の文章が頭から離れない。
「汝、何をもつてか、乃ち有縁にあらざる要行をもつて、我を障惑するや。しかも我が愛するところは、即ちこれ我が有縁の行なり。即ち汝が所求にあらず。汝が愛するところは、即ちこれ汝が有縁の行なり。また我が所求にあらず。」(選択本願念仏集(八))
 私の理解では、「私は私の信ずるところを行う。私を批判する者は批判するよりも己の信ずることを行えばよいではないか」ということであろう。ここまで言い切れば、それは論理ではない。良い意味で開き直りである。思想の書といい、論理の書といっても、それはあとからのもの。初心と自分の信ずる行をひたすら進むのみ。お互いの論難など大きな意味を成さない。
 ここの地点まで立てれば、これは強い。そしてここの部分に法然の力強い一声があるような気がする。それは親鸞の「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々」(歎異抄)へと続く「信」というところの究極の在りようであろう。
 法然も親鸞も第一級の知識の人であった。しかし彼らの「信」は、知識故の論理的帰結としての「信」ではなく、究極の立脚点は直感的な「信」であったことがこの「本音」とも言える言及に察せられるのではないだろうか。

 私は、江戸時代末期の「若疑シク覚候ハバ我等ノ所業終候処ヲ爾等眼ヲ開テ看ヨ」(大塩平八郎)をも思い出す。政治的な敗北必死の中の行動者の言と、国家と密接な関係の中にあった宗教の革新者の言とは、比較すること自体、意味はないかもしれないが、言葉の発するところは同じだ。「信」を「信念」と言い換えてみればうなずけるものがある。
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本日の俳句(110128)

2011年01月28日 21時56分40秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★病棟の息はひそけし山眠る
★山眠るバイオリンの音の鋭き日
★山眠る太古の海のたゆたいに

 「山眠る貝の化石を抱きながら」(白濱一羊)という素敵な俳句がある。これをお手本に3句目をつくったが、やはりとても適わないと感じた。
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俳句誌投句

2011年01月22日 19時55分10秒 | 俳句・短歌・詩等関連
俳句誌投句

冬の雨静けさ寄り来るまま一夜
山茶花の花弁を散らし風抜ける
東京に木枯らし抜けて星の座へ
大年の湯を輝かせ身をしずむ
かしわ手の音のみ響き早三日
陽だまりに賀状を読みて過去の日へ
缶蹴りの音は空から寒の入り
靴の音も地を這う影も寒の入り
陽だまりに水仙しかと黄を誇る
石蕗の葉の丸く七日の日をかえす
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チェロ・アンサンブル

2011年01月20日 20時50分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日、東京メトロポリタン・シンフォニー・チェロ・アンサンブルの演奏会を聴いた。東京都交響楽団の10人のチェリストのアンサンブル。
ヴィラ・ロボスのブラジル風バッハ1番、バッハの無伴奏バイオリンのためのパルティータからシャコンヌなどが主な曲目。
 チェロの音色は好きなので、期待して聴きに行った。たしかに10人の音もそろい、息も合っているようでチェロの音は満喫はした。このようなアンサンブルは珍しく価値はあると思う。また演奏するほうもアンサンブルを十分楽しんでいるような感じがした。
 あえて言わせてもらえば、チェロの音はあつみがあり、好きだが10本そろったからといって音楽全体にあつみが出てくるわけではない。さまざまな室内楽のアンサンブルのバリエーションがあり、異なる楽器のもつ音色のあつみには残念ながら届かない。
 弦楽四重奏や、ピアノ四重奏、木管アンサンブル等々の方が、10人の単一の楽器のアンサンブルに比べれば、人数は少なくとも音色のあつみがある。このことを逆に再認識した次第。
 
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「ささやかな感動」の発信

2011年01月16日 17時26分35秒 | 読書
 「定年を迎えると人はせっかちになる」、と云われることがある。昔は何を言っているのかわからなかった。また切実にそのことを考えたこともなかった。人は歳を取るに従い短気になるのか、あるいは死に急ぐものなのか、と思った程度で、別に気にも留めなかった。
 定年を約一年後に控えて何となくこの言葉が気になり始めた。60歳以降も仕事を続ける人もいようがこれも大体65歳位までだろう。その後は趣味に生きるか、他の仕事を始めるか、その他も含めていろいろ選択肢はあろうが、いづれにしろ何かに打ち込みたいと思う。
 組織の中で続けてきた仕事は他にいろいろ煩わされながら遂行していたことを考えれば、何かをする場合これまでよりは集中して遂行できる。また何か集中してできることを模索もしていよう。おのずから他人から見れば、がむしゃらにも、あせっているようにも見えるのだろう。それが「せっかち」と他人には映るのかと最近思うようになった。
 私も60歳で仕事を辞めるという選択をしたとして、あるいは65歳で辞めて、果たしてその後何をしようかと思うと暗澹たる思いになる。何か集中してそこにのめりこむものが欲しいと切実に思うだろう。それが何になるかはわからない。しかしやる気になったり、処理して欲しいといわれたことに、気持ちは集中するのではないだろうか。それが他人にはせっかちに事を処理しているように映るのだろう。
 現役の間にやりたいという衝動があり、そのほとんどは仕事や雑事に追われてできてこなかった。何かを作り上げることを除けばたいていの場合は受身のことである。私で云えば読書・美術鑑賞・クラシック音楽の鑑賞等、すべて受身である。これではすぐに飽きというものが訪れるか、受身であることに物足りなさを感じるようになるのではないだろうか。鑑賞したもののささやかな感動を自分なりに表現する方法があれば別だが。
 そういった意味では、下手な俳句は少なくとも受身ではない。自分から発信するものである。
 ブログもその発信の一つの手段であるのだろう。しかしこれはなかなか読者が見えない。何か自分なりに納得する「ささやかな感動の表現方法」を見つけたいと思う。この模索・試行錯誤をこれから一年かけてみようと思う。
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本日の俳句(110113)

2011年01月13日 20時03分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★震えるや欅にかかる冬の月
★影は濃く三日月宿す冬木立

 都会で見る冬の月は研ぎ澄まされた光に包まれて孤独だ。星が放つ光も孤独だ。星が明るく月の傍に光っていても、その間を埋める星は見えない。月も星も、光が鋭いがゆえに孤立している。

 こんな月の感じを俳句にしてみたかった。しかし明らかに力量が不足しているようだ。
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本日の俳句(110112)

2011年01月12日 22時22分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

★缶蹴りの音は空から寒の入り
★靴の音も地を這う影も寒の入り
★尊徳の影も凍える寒の入り

 先週の寒の入りに作った句。寒さもひとしお、人の立てる音にも、人の影にも寒さを感じた。
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日本フィル演奏会

2011年01月11日 21時50分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 土曜日、日本フィルの横浜定期演奏会をみなみみらいホールにて聴いた。小林研一郎指揮でシューベルトの交響曲7番「未完成」、ムソルグスキー(ラヴェル編)の「展覧会の絵」、そして松田理奈のバイオリンでモーツアルトのバイオリン協奏曲5番「トルコ風」。
 「未完成」はこんなに強弱の差が大きくて、劇的でいいの?と思わせる演奏だった。私としてはシューベルトってこんなに激しかったかなと少し残念ではあった。
 ただし「展覧会の絵」は聴き応え十分。この曲ならばではのメリハリの利いた演奏。
 松田理奈のバイオリンは音色の良さで人を惹きこむ。オーケストラとの音のバランスも良かった。
 「未完成」と「展覧会の絵」を間にモーツアルトの「トルコ風」を挟んでのプログラムというも考えようによってはなかなか切り替えの難しい曲と思った。

 クラシックの演奏会は久しぶり。演奏会の緊張感は客席においても心地良い。今年はできるだけ聞きにいこうと思う。
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本日の俳句(110110)

2011年01月10日 07時36分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★日だまりに水仙しかと黄を誇る
★石蕗の葉の丸く七日の日をかえす

 あまりに大勢でがやがやというのも嫌だが、一人での俳句作り・吟行というのも淋しいものがある。
 先日近くの寺を一人で散策していると、奥の院の細い道沿いに植えられた水仙の花と石蕗の葉が目についた。水仙の二色の黄色の花は下向きだが、日だまりの中で落ち着いた風情で咲いていた。石蕗の葉も正月の穏やかな日を反射して美しかった。
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麻生三郎の絵

2011年01月09日 08時12分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 年末に友人と国立近代美術館にて麻生三郎展を見た。回顧展とも云うべく全生涯をたどった展示で、その絵の迫力に圧倒された。戦前戦中そして1950年代までの具象的な絵は私の好みである。靉光の「眼のある風景」を髣髴とさせるような絵もあった。
 私は皿をなめながらこちらを覗くような目の男を描いた「男」に惹かれた。尋常ではない異様ともいえる、眼つきと皿をなめるようなポーズだけでなく、モデル(あるいは自画像)の血を思わせるジャケットの赤。この赤は生涯を通して画家のモチーフのような色ではないだろうか。
 戦前戦中を通して人物が大きな主題であったものが、戦後になって人物と等価の赤い廃墟のような都市の背景も重要なにって来るようだ。「この空の層のあつみのなかにはわれわれをおしつぶす力がひそんでいる」という作者の言葉がある。戦後の社会の中での孤立感というか、社会への違和感が強力に作者をおそったといえる。同時に人物像がくすんで画面では次第にわかりづらくなっていく。
 戦前戦中は家族の絵、人物の絵を描くこと自体が社会との緊張を強いるものであったのだろう。そして戦後は「自由」の空気にもかかわらず、社会との緊張、社会への違和を継続せざるを得なかった体験が背景にあるのだろう。どのような違和であったかは、作者が近代文学のグループへ接近したことでうかがうことができる。自己の解体、個人をおしつぶす社会の暗喩のように感じた。
 1960年代以降ますます人物も背景もわかりづらくなり微かに人物と言われれば人物の分解された姿態が浮かんでくるような絵になる。私としてはこの時期あたりからもはや言葉を失う。ただ絵の圧倒的な存在感にたじろぐばかりで、最晩年の絵までたどり着いたときは、気息奄々という具合だったことは記憶している。
 友人が行っていた通り、戦前から最晩年まで一貫した流れを感じる。感じると同時に作者の感じた社会への違和感がどのようなものだったか、作者自身の文章で追ってみたくなった。残念ながらカタログを丹念に読み込みながら引用されている作者の文章から類推するしかないが。
 これ以上残念ながら語るべき力量が私にはない。しばらく時間をかけて醸成されるまでまったが、力がないことがわかった。とりあえず感想としてアップすることにした。
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正月の俳句

2011年01月08日 11時28分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
正月の俳句
★賑わいも運河に映る初詣
★猿の歯の白々として初詣
★柏手の音のみ響き早や三日
★陽だまりに賀状を読みて過去の日へ

 例年の通り親族と初詣に出向いた。「信ずること」から縁遠い私はいつものとおり柏手をうって参拝することもなく、仏を拝むこともなく、参拝する人々を眺めたり、由緒書きをじっくり読んだりしている。
 初詣の雰囲気自体は嫌いではない。活気があってにぎやかな寺社、人では多くても静かなたたずまいの寺社、それぞれに趣がある。
 そして3日ともなればかなり静かな風情を楽しむことができる。
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風邪気味

2011年01月06日 17時06分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 元旦ごろから水っ洟がよく出る。一昨日はくしゃみを続けて何回もした。昨日の朝は両肩と両膝が多少痛かった。発熱はなかったようだ。
 風邪だとすれば長くとも1週間とすると昨日が症状のピークだったと思われる。と勝手に判断をした。
 幸い最近はインフルエンザにはかからないですんでいるが、これまでの経験では年に5回から6回は風邪気味となる。ひと月おきにかかる割合だ。かかりやすい体質なのだろうか。花粉症ではないが、梅雨時に押入れに顔を入れたり、布団の上げ下ろしをするとくしゃみが止まらなくなるがそれ以外のアレルギー症状はない。
 今の時点ではすっかり症状が抜けたようだ。
 10代、20代では年に5回か6回の風邪気味のうち2回位は発熱を伴いダウンした記憶がある。30代、40代では体力的に無理したかなと思うと2~3日後には風邪の症状が出た。
 ある医師から「根を詰めて長時間の作業に没頭すると、本人が思っている以上に体力を消耗し、風邪にかかりやすくなるから自分をコントロールできなくてはいけない」と注意をされたが、これが意外とむずかしい。性格なのだろうと思ってあきらめているが。あきらめの悪い性格を直すことをあきらめているといえば、笑えるが‥。
 最近はその様なことがないように極力根を詰めたことはしないようにしているものの、やはり風邪をひく。もっとも軽くすんでいると思えば用心している甲斐があるといえるのだが。
 さていつも思うことだが、風邪気味で医者にかかるとすると必ずといっていいほど聴診器を当てられる。風邪でなくとも当てられるが、果たしてあれは何のためだろう。深呼吸をさせられるから気管支などの症状を見ていると思われるが、私の感じではどうもおまじないに近いと思うのだが、本当のところを知りたいと思う。私の場合最低血圧が高いので二週間に一度診察を受けるが、そのたびに聴診器を当てられる。患者も聴診器を当てられると医師に診断してもらったような気がするおまじないといっては的外れかもしれないが‥。
 今度友人の医師に聞いてみよう。
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手帳

2011年01月05日 18時10分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昔から手帳は1月1日から12月31日までの1年物を使っている。仕事の都合から云えば、4月1日切り替えの方が便利なはずだ。ということにようやく気づいて今から10年ほど前に切り替えようとした。1月1日からの15ヶ月手帳を買った。
 ところが年末に無意識のうちに1月からの手帳を買ってしまった。2~3日して気づいたがもったいないのでその新しいのを使った。その手帳が終わる頃また15ヶ月物を購入したが、結局同じ過ちを1年後にして、そのままずるずると1月から12月までのものを使い続けている。
 手帳に限らず、仕事でも年初めの「気分を新たに」という掛け声が、年度始めにも繰り返される。
 これが定年なりで、仕事をリタイヤすれば1月からの真新しい手帳を見て「気分を新たに」という感慨が1回になるのだろうか。と考えてみた。しかしどうもそうではないのではないかとも思う。
 冬がおわり、春になり桜が咲けば、それはそれで気分的に大きな節目になりそうだ。ということは1年の節目が暦の上の節目と季節の節目が二つある状況は、職業上現役か否かとは関係なさそうだということだ。夏の初め、秋の初め、冬の初めは節目ではあるが春のはじめほどの感慨はなさそうだ。8月の盆の休みの頃も1年の節目としては正月や春の初めとは気分も感慨も違うようだ。
 やはり手帳は1月1日に変えるのが無難なようだ。これを続けることになりそうだ。
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年末の読書

2011年01月03日 17時57分14秒 | 読書
・「風流 江戸の蕎麦」(鈴木健一 中公新書)
 蕎麦好きとして触手をそそられた。軽い気持ちで購入したが、なかなか読み応えがある。黄草紙、芭蕉など俳諧、漢詩、歌舞伎、落語、浮世絵に現れる江戸時代の蕎麦の世界、うどんとの関係などなど。なかなか刺激的な内容であった。

・「方丈記」(鴨長明、新潮日本古典集成)
 高校時代以来、何回読んだことだろう。この簡潔で力のあるわずか25頁の文章だが、何回も読み返したくなる。

・「発心集」(第4) (鴨長明、新潮日本古典集成)
 このうちの10篇の話のうち、最後の3篇は力のこもっている文章・内容だと感じた。直接見聞きしたドキュメント風の3編のようだ。
  
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謹賀新年

2011年01月02日 14時58分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 関東地方は穏やかな新年を迎えましたが、予想を上回る大雪等の情報もあり、被害も出ているとのこと。これも異常気象の一端でしょうか。 このブログを訪れた方々のご健勝を祈念いたします。
 今年も昨年同様不定期ではあるものの細く長く、続ける予定です。お付き合いをお願いいたします。
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