ツィッターを見ていたらこんな文章が載っていた。
まず学生だった時、私はどうであったろうか。教科書は買わざるを得なかったのでやむなく買ったが、キチンと読んだとはとても思えない。教養部の頃も学部の頃も。当時私が通っていた大学は私は理学部だったが、2年間は教養部という所に在籍して、専門分野以外の文系の科目も多数履修しなくてはいけなかった。その良し悪しは別として、どちらかというと参考文献の方をよく読んだ。もっとも理系の教科書についてはあまり理解できなかったので、文系の科目の教科書自体に乗っている参考文献(教授から直に示されたものではない)から読み始め、さらにそこに乗っている参考文献や引用文献へとどんどん脇へ逸れていくのがいつものパターンであった。
魯迅の詩を取り扱った授業は新書が教科書だったが、そこから魯迅選集へ、竹内好へ、武田泰淳へと移ったりしたのが、典型的な例。他にもある流れが埴谷雄高と吉本隆明で合致・合流した。この遍歴の醍醐味はとても忘れられない。そして就職先は自分で見つけてきて、卒業という名の事実上の大学との決別。清々した。すくなくとも私の認識の成長過程で大学のカリキュラムも授業もほとんど役割を果たしていなかったことは歴然としている。しかしながらたまたま当時岩波書店で新書版の「魯迅選集」が発売が開始されたことや、参考文献としてそのことが紹介されたことだけは覚えている。
今の大学生の指向や思いがどの辺にあるのか、私にはまるでわからない。だが、この発言をした大学の教員の方には申しわけないが、参考文献の方が、教科書というどちらかというと押し付けよりも、参考文献におおきな刺激を受けた学生の方が、大きな収穫を手にする場合も多い。無駄なのではなく、その営為が若い人に刺激を与えることを理解してもらいたいと思う。人は対話している人の思い通りの刺激を受けるわけではない。幅の広さを示すことが、教える人の人格の幅を広げるし、そのことをもって教えられる側の人におおきな影響をもたらすことが大きい。購入する金銭的ゆとりのない学生のために大学図書館はある。
あるいは参考文献を書いた著者の他の書物に影響を受けているかもしれない。「学ぶ」ということは教員が考えているよりも広いものなのではないだろうか。人生全般から見ると「学ぶ」ということはとても間口の広いものである。教員がそれを閉ざしてはいけない。