Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

紅梅など

2021年01月21日 22時13分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

      

 本日は家の北側の窓の前に植わっている紅梅が5つほど花をつけていた。毎年つぼみをたくさんつける。しかしもう何年も剪定をしておらず、伸び放題で、逆に樹勢が衰えていた。
 夏に団地の人と一緒にかなり枝を切り詰めたので、今年は花が咲くか、すこしばかり心配をしていた。さいわいつぼみは多数ついており、花もいつもの時期に咲き始めてホッとしている。

 さらに妻がベランダで年を越させたクリスマスローズにも芽が出ていた。

 北側の窓の外、南側のベランダ、日当たりの具合はまるで違うし、天候も平年とはかなり違うが、植物の体内時計はきちんと進行しているようである。

 これより若干の作業の続きをしてから就寝準備。
 できれば、1時までには就寝をしたいものである。最近少し睡眠時間が延びてきた。いいことなのか、判断ができない。

 

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「四つの幻想曲」(シューベルト)

2021年01月21日 21時02分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 本日はシューベルト(1797~1828)三昧ということで、最後にかけるCDは亡くなる直前のピアノ曲であるふたつの「4つの即興曲」。
 ピアノはラドゥ・ルプーで1982年の録音。ルプーというピアニスト、昼間に聴いていたヴァイオリンソナタのビアノを弾いていた。
 購入したのはいつ頃だったか。題名と曲の記憶が一致しなくなってしまっていた。しかしスピーカから流れ出た音を聴いてすぐに思い出した。ずいぶんと何回も聴いた記憶もよみがえってきた。
 記憶をたどると多分購入したのは1987年ころ。本日聴いたシューベルトのCDを続けて購入したことを思い出した。労働戦線の再編の動きの中で、この時期を境に組合活動が多忙を極め、音楽からはしばらくは離れてしまった。
 シューベルトをはじめとしてクラシックのほとんどから離れてしまったが、それでもブラームスの各曲とベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は聴き続けていた。聴く曲はそれらに限られてしまった。
 本日、シューベルトをまとめて聴いて、シューベルトという作曲家は私の誤解もあったようで、ずいぶんと小気味のいい旋律をうみだしたのだと感じた。ヴァイオリンのソナチネは20歳前のごく初期、この曲は最晩年の曲。短い生涯の間にずいぶんと大きな飛躍をしたように私には思われる。

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水星の東方最大離角前に

2021年01月21日 19時57分51秒 | 読書

 年賀状で当たった切手シートを近くの郵便局で受け取り、そのまま歩いて横浜駅の有隣堂へ出向いた。光文社新書の最新刊「洋画家の美術史」(ナカムラクニオ)を購入するか悩んでいた。税込み1232円もするので、神大の生協で注文する前に実物を見てみようと思い出かけた。
 4月は全店閉店していたから人出はなかったが、今回は開店しており、地下街を行きかう人は少ないものの、店内はそれなりの人出があった。目当ての本はすぐに見つかり、ざっと目を通してすぐに店を離れ、地上に戻った。
 購入するかしないかの決断はもう少し先とした。地下街から離れたオフィス街のはずれの喫茶店で読書タイム、と思ったが、ガラガラだった店内が次第に混んできたので、30分ほどで退散。おかげで団地の西の端に夕陽の沈んだ直後にたどり着いた。



 本日の水星、フェンスに固定したスマホでの撮影ではこれ以上鮮明なものは無理であった。三脚と一眼レフの出番が必要になる。まだ夕焼けで空が明るいので写ってはくれなかった。
 一眼レフも三脚も持ってはいるものの、省略。水星を頂点として、電柱の先端とテレビアンテナの先端で正三角形となっている。明日から24日(日)の東方最大離角の日まで関東地方の天気は良くないので、本日中に見ておきたかった。
 天頂付近には半月と火星がずいぶん近くに寄っていた。西の空に水星よりも低くわし座のアルタイルが見えるはずだったが、雲もあり見つけられなかった。

 もう少し暗くなると見やすくなると思ったが寒いので断念。

 

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本日はシューベルト三昧

2021年01月21日 13時29分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日のゆずジャム作りは明日に延期となった。明日に砂糖が安くなるというスーパーのチラシが入っていたとのこと。午前中は作業にいそしむことができた。



 持ち出してきたCDはシューベルトの「ヴァイオリンとピアノのための作品全集」。ソナチネ(作品137)第1番から第3番、ソナタ(作品162)、幻想曲(作品159)の5曲。
 シューベルトは交響曲は「未完成」と「ザ・グレート」は昔は好きでよく聞いていたが、今はすっかりご無沙汰。ブロムシュテット指揮、ドレスデン交響楽団の全集で聴いていた。リートは、それ自身聴くのが苦手(嫌いというのではない)、ピアノ曲ではルプーの演奏による二つの「4つの即興曲」。そしてシューベルトの室内楽はこの2枚組みCDしか持っていない。多分2~3度ほど聴いてそのままになっていた。
 本日あらためてこのヴァイオリンとビアノの作品5曲を聴いてみた。ヴァイオリンの音色は弱音部分で運弓が弱弱しすぎて音が震えてしまうのが気になる。が早いパッセージやフォルテになると生き生きとした音色になる。とくに第3番の出だしは切れがよく、小気味のいい演奏だと感じた。
 また幻想曲の最初のアンダンテ・モルトのヴァイオリンをたっぷりと聴かせる部分と、3曲目のアンダンティーノの前半は私にとってはいい曲である。アンダンティーノではピアノの高音のパッセージが美しい。
 他の演奏者ならどんな感じになるのだろうか。なじみのなかったシューベルト、本日はこれからは聴きなおしてみたいと感じさせてくれた。

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明日から作業に復帰したいが‥

2021年01月20日 21時28分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 ゆずジャムを3キロ作ったのち、残りのゆずを計ってみたらまだ2.5キロもあった。そのうち1.5キロを明日またジャムにするとのこと。40個近くもある。火にかけるまでの作業が大変である。砂糖が足りないので、購入しに行かなくてはいけない。しかも1.5キロのジャムを入れる瓶もなくなった。重さからすると100円ショップで販売している小ぶりの広口瓶が4つほど必要になる。
 これは私に買いに行け、という兆候であろうか。あるいは私に下準備をすべて任せて、妻は自転車で購入しにいくつものなのか。いづれにしろ、一人当たりの作業量は本日と大差がなくなることは必定。
 一方で、残り1.0キロのゆずはどのように処理をしようといているのやら。私には見当もつかない。
 明日から予定していた作業が先延ばしになるのは避けたいのだが‥。

 本日は大寒、寒さが極まる日であるらしい。そして本日見るのを忘れたが、夕方水星が見えるであろうか。朝・夕雲が多いとの予報である。

 

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切手シート6枚

2021年01月20日 20時40分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 私が出した年賀状で切手シートが当たったと、友人から連絡があった。律儀な友人であると思うとともに、温かみのある連絡に思えた。このような連絡は生まれて初めて。私も友人からの年賀状が当たっていたとは連絡をしたことがない。それとなくうれしさのお裾分けをもらったような気分である。きっとこの友人は今年はいいことが続くのではないか、と思っている。

 この連絡に刺激を受けて、年賀状の当選番号を調べてみた。例年は80枚から100枚のうち、2枚も当たれば良いほう。

 ところが、今年は妻と合わせて90枚ほどで6枚も切手シートが当たっていた。もとより1等、2等などは論外で当たることはない。しかし友人のお裾分けを確かにもらった気分になった。ただし妻に来た20枚のうち3枚も当たっていた。私のほうは70枚で3枚。確率がずいぶん違った。しかも不思議なのは6枚とも同じ番号での当たりであった。

 たかだか882円相当の切手で幸せになるということで、郵便ハガキの発行元の狙いに嵌まってしまうのは癪に触るが、素直に喜んでおこう。何しろチケットショップで安く購入した年賀ハガキである。
 1枚は配達先不明で戻って来たもの。古い住所で私が送ってしまった。2人の友人には、ハガキの天敵とされている電子メールを礼状の代わりに送信してみようと思う。

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ゆずジャムづくり

2021年01月20日 14時26分15秒 | 料理関連&お酒

 何もするつもりがなかったが、ゆずジャムを作るから手伝えとのご託宣が降りてきた。
 娘の借りている住まいの敷地にゆずが毎年たくさん実る。今年は摘んだものを5キロほども送ってきた。実はとても小さい。昨年は今年よりも大きめの実で2キロほどを作った。
 妻の計画では、今年はまずは3キロをゆずジャムにするとのこと。 3キロで60個以上もあった。半分に切り、搾って、果汁と種と薄皮と外側の皮を分離。外側の黄色い皮を2ミリ×4センチほどの大きさに切る。私が手伝ったのはここまでの作業。肩と腰が痛くなった。
 外側の皮を煮詰め、種や薄皮を加え、砂糖で味付けをするのは妻に任せた。

 明日からは退職者会の記念誌の作成作業を再開しないといけない。読書タイムも再開しないと、「眼の神殿」(北澤憲昭)のこれまで読んできた部分を忘れてしまう。
 

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弱った体によくない‥

2021年01月19日 22時53分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 テレビを見るでもなく、新聞を読むでもなく、天井を見ながらリビングルームの椅子に座っていたらいつの間にか22時半。こんな時間の過ごし方は何年ぶりだろうか。
 疲れて休養日、と宣言した日でもここまでぐうたらにはなっていなかった。

 医療崩壊とワクチンの接種について、テレビのニュースの大きな話題になっている。この間の医療に対する政府の対応などを見ていると十分に予想されたことが、一挙に噴き出てしまったとしか思えない。犠牲者は第一線の従事者であり、そして患者である。
 ワクチンのタイムスケジュールのドタバタを見ていても、昨年10月末から当然準備が始まっていなくてはいけないことが、今になってドタバタとしいる。あまりに遅すぎる対応である。
 市民生活に直結する行政の第一線に対する認識をもう一度基本に立ち返って考え直す必要がある。
 医療・福祉・教育・都市施設‥「人」は社会にとって一番大切な「財産」である。災害に直面した時にそれらを大切にしてこなかったことが露呈する。阪神淡路の震災、東日本大震災、いづれの災害にも日本という国は一番大切なことを学んでこなかったのではないか。それらの財産をないがしろにされてきた30年ではなかったか。そのツケが今、社会の危機・崩壊として表れていないか。
 地方自治体の第一線に従事した私にはこの危機・崩壊が起こるべくして起こっているとしか思えない。

 このようなイライラは疲労した体にはとても悪い。さっさと入浴、就寝とすることにした。

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疲労感たっぷり

2021年01月19日 21時08分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は疲労感たっぷり。読書も音楽も、気力がわかずにボーっとしている。やはり体内に異物を挿入したのだから、やむをえないことなのだろう。年齢とともに回復までの時間がかかってきていると思う。10年くらい前は、検体を取らなかったときは夕食時にワインなどを飲んでいたこともある。そんな元気は本日はない。
 妻は、「検査後にそもそもアルコールを摂取していたことがよくないこと」だという。私の言い分は、「これまで検査後に『検体を取ったのでアルコールはいけません』と言われるたが、今回は検体を取っていないから飲んでもいいんだ」という理屈であった。しかし今回はそんな議論も過去の話である。

 とは言え明日の晩には焼酎のお湯割りを飲みながら夕食、ということになるはずである。

 

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大腸内視鏡検査は異常なし

2021年01月18日 20時29分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 大腸内視鏡検査は無事終了。今回も内視鏡が直角に曲がるところで空気を入れて腸をたくらますことを繰り返すのがだいぶ痛かった。2度ほど呻いてしまった。内視鏡を抜きながら映像を記録していく。いつもながらその時は痛みなく、スムーズである。結果はポリープもなく、一昨年よりもきれいだったと言われた。培養検査に回す検体も取らなかった。
 しかし検査後、入れた空気がなかなか排出されず、おなかの張りが収まらなかった。30分ほど廊下の長いすで横になっていたが、半分は排出したと思われたころ、あきらめてバスで帰宅。先ほどまで寝ていた。
 だいぶ楽になって夕食を摂る元気が出てきた。夕食はお粥とサトイモの煮物。入っていたネギが形をとどめないほど火が通り、とてもおいしかった。
 検体を取らなかったので、アルコールの禁止は申し渡されなかったが、本日は自重。

 市のがん検診の項目では検便による潜血反応による検査であるが、内視鏡検査のために7000円近い費用であった。

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明日は大腸内視鏡検査

2021年01月18日 20時29分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日のがん検診二日目の大腸内視鏡検査のために、21時から下剤。明日の朝8時から腸管洗浄剤2リットルの服用。

 大腸の内視鏡検査は50歳の時からすでに20回は受けている。最初は大腸の潰瘍で入院して受けた。この腸管洗浄剤を2時間かけて飲むのがつらい。そして内視鏡を入れるとき、ならびに直角に曲がる4回、これもまたつらい。
 2~3年に1回はポリープが見つかり、その場で切除して培養検査に回される。さいわいこれまでがんと言われたことはない。
 一昨年はがん検診としてではなく、門脈血栓を見つけるまでの検査の一環として受けた。昨年度は予約が取れず、いつの間にか年度末になり4月を超えて、緊急事態宣言でここまで遅れてしまった。
 何度受けてもいやな検査である。
 

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久しぶりに水星でも‥

2021年01月18日 19時59分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 水星を見ようと思った。水星の観測をしたのは中学1年だったと思う。56年も前の話である。何月だったか思い出せないが、学校のクラブで土曜日の15時まで部室でぐずぐず時間をつぶし、5~6人で港の見える丘公園まで早足で歩いて見に行った記憶がある。小さな双眼鏡を持っていたのは一人だけだった。順番に双眼鏡で覗いて、そのまま帰宅。
 熱心ではなかったクラブ活動。理解などとてもできない小難しい宇宙論の本をめくるほうが好きだった。文章よりも図版やグラフなどを見て、それで理解したつもりになって満足していた。    【https://t.co/U4PLUwTRqN?amp=1

 きちんと観測を地道に続けたり、小惑星などの軌道計算などのノウハウを身に着けるなどのことをするべきだったと今になって思うが、時すでに遅い。今は、眺めるだけで楽しいと思うようになった。「成長」したのかもしれない。

 1月24日に水星が太陽からもっとも離れる。観測の好機である。日の入り直後から、眺めているのも楽しい。1月24日の日の入りは東京で17時ちょうど。21日(木)から28日(木)の間ならば数日は晴れると思われる。一番離れる24日は残念ながら東京の天気予報は曇り。

 その他、月と火星の接近などの情報も含めて   ➡ https://t.co/etr315WKwg?amp=1

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災害の教訓 こんなこともあった

2021年01月18日 10時44分36秒 | 天気と自然災害

 あの1月17日の地震のあと、実はこんな交渉も行ったことを記憶している。隠すことではない。多少の記憶違いがあるかもしれないが、大筋は間違いないはずである。私どもの支部の交渉相手は横浜市道路局である。

 当時、横浜市長は高秀秀信市長であった。建設省からの天下りと言われたが、建設畑の技術職だっただけに、災害対応は早かったと思う。実は一年前の冬、雪が降った日に土木事務所の作業員が除雪作業をしている姿をたまたま見て、災害時の道路局と土木事務所の職員の役割の重要性について、理解を示していた、と当時の組合の委員長から話があったばかりであった。自治体の市民サービスの第一線をあらためて認識したのであろう。
 自覚的に自分の立場を見ようとする姿勢が自治体の首長には必要なことである。逆に私たちも、おもねるということとは違う意味で、人前で誇りをもって仕事に従事するということの大切さを認識した。それが人員確保や予算の確保、働き甲斐にもつながる。

 地震から2日ほどして、神戸市に横葉浜市水道局の給水車を十数台派遣することになった。「ついてはその先導と後ろに市内18か所にある土木事務所の無線がついている道路パトロールカー2台を配置したい」との市長の意向が道路局に示された。
 当然私どもの組合員も運転手として派遣されるので、道路局より派遣の在り方について協議したいと話があった。翌々日の明け方に出発するということで、具体的な宿泊場所や、処遇、運転時間の制限や一台に配置する運転手の数、超勤時間の取り扱い、事故時の対応、無線機の台数、道路パトロールカーとしての現地での行政支援の内容、パトカーを派遣した土木事務所での道路パトロールのやり方、などを前日の夜までに整理した。
 ところが翌日の明け方に出発する夜に、交渉で当局も私の組合も、多数派の組合も触れていなかったことに気が付いて慌てた。
 それは当時の道路パトロールカーに搭載されている無線免許は、使用範囲が横浜市内だけに限られていることであった。高速道路を神戸まで先導するとして、渋滞に巻き込まれたり、先頭と最後尾の連絡、あるいは神戸市内での無線を使用すると電波法では違法になる。
 また道路パトロールカーは原則として横浜市内の道路管理のための車である。黄と赤の回転灯も道路管理業務のためのもので目的外には使えない。建設省は了解しても、警察はどう判断しているか不明であった。

 気が付いてすぐに支部の他の役員と相談の上、道路局に連絡、単組の本部にも連絡、道路局に警察や電波管理局と掛け合って、解決をするよう求めた。
 道路局も慌てたようだが、後者は警察も認めてくれるとの報告が数時間後にあった。しかし前者は、なかなか連絡が取れなかったらしい。日付が変わってからようやく特例の取り扱いとなったと、道路局から連絡が入った。出発の数時間前であった。添乗する管理職もやきもきしたであろう。交渉担当もだいぶ苦労したようであった。

 市の行う事業はたとえ災害時とはいえ、違法なことを無断ですることはできない。高速道路を走りながら、横浜市内でしか使ってはいけない周波数の無線通信を傍受されて、災害対応ではあっても指摘・摘発されてしまっては、応援にはならない。

 災害時、労使交渉なんてやっている暇などない、などというのは間違っている。いろいろな角度から検証して、より安全で有効な方法を模索するために、労使交渉というのは必要なものである。また、現場のことは組合の役員のほうがよく知っている。労働組合との交渉を避けてはいけないし、真剣にこなしたほうがいい方法が見つかるものである。
 一週間後に無事全員が戻った。報告会にも参加させてもらった。この派遣はその後の医療チームの派遣、新潟地震への災害派遣、そして東日本大震災での派遣にも生かされた内容であった。たった2日の交渉であったが、交渉担当もよく動いてくれたと思う。道路局も初めてのことであり、本腰を入れて交渉に臨んでいたと実感した2日間であった。

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災害の教訓の継承

2021年01月17日 23時08分01秒 | 天気と自然災害

 本日は1月17日、阪神淡路大震災から26年目である。あの日の朝のテレビの放送は今も忘れられない。その日、たまたま政令指定都市の建設関係職場の支部の会議があり、朝7時に横浜を出て、仙台に行き、午後には松島のホテルに入った。しかし神戸・大阪・京都からの参加予定者が到着しない。うすうす大きな地震で、こちらまでは来られないだろうとは思っていたが、あそこまでひどいとは想像ができなかった。
 4都市の方々には携帯電話で連絡を取ろうとしても取れずに、やきもきしている間に少しずつテレビ放送が惨状を伝え始めた。翌朝、名古屋以東の政令市の仲間での支援カンパの取り組みを決め、具体的な支援についてそれぞれの単組を通じて最大限取り組もうということを決めて、早々に解散した。

 翌々日からさまざまな情報を集めながら、生まれたての小さな労働組合の支部であっても、全力で取り組む算段をあれこれを考えたことを思い出す。

 私の立ち上げた支部は、道路管理・下水道管理の職場ということで、大雨・大雪・強風・地震など常に災害配備と背中合わせの職場であった。通常業務と災害時の業務は不即不離の関係であったが、あのような大災害を想定まではしていなかった。
 政令指定都市の職員としてどのような支援ができるのか、行政支援と労働組合としての支援の区分け、実際の組合員の派遣に付随する問題などをひとつひとつ限られた時間の中で精力的に交渉で解決したことは忘れられない。
 同時にその経験を日常業務にどのように生かすか、あの災害対応から何を教訓化して、実際の日常業務にどのように生かすか、真剣に喧々諤々と当局と交渉を続けてきた。その経験は東日本大震災などにも生かすことができた。
 しかしそれが若い組合員や、私が定年退職した以降に、きちんと伝わったかというと自信はない。
 災害というのは、「対策や経験を継承した」とその時は思っても、実際に起きてみるとあたふたするものである。災害時の教訓を日業業務のこなし方に繰り込んでいくことも大切なことなのだが、「なぜこうしたか」が伝わらないといつの間にか忘却してしまう。若い人々が意識的にいつも「災害」を念頭に仕事をこなす「癖」を継続してもらいたいと思う。
 それは私どものような日常的に災害と背中合わせの職場でなくとても、いろいろな職場・地域で必要なことだと思う。

 あの阪神淡路の震災で犠牲になられた方のご冥福をあらためて祈念するとともに、あの災害によって、多くの体験と経験を積むことができたことは私の組合活動の大きな転換点であったことをあらためてここに記載して、記憶の一端としたい。

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災害の教訓の継承

2021年01月17日 23時04分42秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は1月17日、阪神淡路大震災から26年目である。あの日の朝のテレビの放送は今も忘れられない。その日、たまたま政令指定都市の建設関係職場の支部の会議があり、朝7時に横浜を出て、仙台に行き、午後には松島のホテルに入った。しかし神戸・大阪・京都からの参加予定者が到着しない。うすうす大きな地震で、こちらまでは来られないだろうとは思っていたが、あそこまでひどいとは想像ができなかった。
 4都市の方々には携帯電話で連絡を取ろうとしても取れずに、やきもきしている間に少しずつテレビ放送が惨状を伝え始めた。翌朝、名古屋以東の政令市の仲間での支援カンパの取り組みを決め、具体的な支援についてそれぞれの単組を通じて最大限取り組もうということを決めて、早々に解散した。

 翌々日からさまざまな情報を集めながら、生まれたての小さな労働組合の支部であっても、全力で取り組む算段をあれこれを考えたことを思い出す。

 私の立ち上げた支部は、道路管理・下水道管理の職場ということで、大雨・大雪・強風・地震など常に災害配備と背中合わせの職場であった。通常業務と災害時の業務は不即不離の関係であったが、あのような大災害を想定まではしていなかった。
 政令指定都市の職員としてどのような支援ができるのか、行政支援と労働組合としての支援の区分け、実際の組合員の派遣に付随する問題などをひとつひとつ限られた時間の中で精力的に交渉で解決したことは忘れられない。
 同時にその経験を日常業務にどのように生かすか、あの災害対応から何を教訓化して、実際の日常業務にどのように生かすか、真剣に喧々諤々と当局と交渉を続けてきた。その経験は東日本大震災などにも生かすことができた。
 しかしそれが若い組合員や、私が定年退職した以降に、きちんと伝わったかというと自信はない。
 災害というのは、「対策や経験を継承した」とその時は思っても、実際に起きてみるとあたふたするものである。災害時の教訓を日業業務のこなし方に繰り込んでいくことも大切なことなのだが、「なぜこうしたか」が伝わらないといつの間にか忘却してしまう。若い人々が意識的にいつも「災害」を念頭に仕事をこなす「癖」を継続してもらいたいと思う。
 それは私どものような日常的に災害と背中合わせの職場でなくとても、いろいろな職場・地域で必要なことだと思う。

 あの阪神淡路の震災で犠牲になられた方のご冥福をあらためて祈念するとともに、あの災害によって、多くの体験と経験を積むことができたことは私の組合活動の大きな転換点であったことをあらためてここに記載して、記憶の一端としたい。

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