ようやく「芸術原論」(赤瀬川原平、岩波現代文庫)を読み終えた。利休に言及した部分は、私の理解がまだまだ行き届かないので、保留してある。
「路上観察学は、都市の無意識、人類の無意識と深い関りがあると思うからである。シュールレアリズムという言葉はあまり聞かれなくなった。これは芸術表現のあるスタイルとしてすり変わり、ダリやキリコやエルンストの絵画スタイルの老化とともに消えていった。シュールレアリスムの探索物は、人体的な無意識であったと思う。・・・施主や管理者の意志の外側で出来てしまっている物件である。かつてのシュールレアリスムが人体的な無意識を見ていたのに対して、路上観察学は都市的意識を見ていると、強く思うのである。」(Ⅳ「路の感覚」から「植物的無意識の採集」)
「いまと昔とでは経済のあり方が違うのである。同じ予算で同じものを造ったとしても、いまは経済がすべてに張り付いているので、、計上された予算の数字を上回るものはビタ一文も付加されぬ。・・・むかしの職人の意志とかケジメとか、あるいは腕の見せどころといったものを金に換算したら大変なものになる。経済の陰に隠れて造作物にそそぎこまれているのだから、いま造るものとははるかに出来が違うのである。・・・どうもいまの経済社会は経済の本質がわかっていない。」(Ⅳ「路の感覚」から「「正解波」ととのすれ違い」)
「路上観察のいちばんの要点は、ここで得るおもしろさの価値が創造ではなく観察によるものだということである。下手人はいるが作者は見えず、観察者の力ではじめてその価値が生れ、作者の肩代わりをすることになる。この見えない作者は、在来の作者のように私人個体の域にとどまらずに、世の中、社会、人類、といった集団の類の網の目に支えられて、不定形にこの世に漂流している。従って作者の力のありかは、類の力=自然の力、ということになろうかと思われる。」(Ⅴ「芸術原論」から「芸術原論」)
久しぶりに家と喫茶店で「芸術原論」を読み進めた。もう少しで読み終わるところまでたどり着いた。
午後になって雨が上がり陽射しが戻ってきたので、フラワー緑道の横浜駅寄りにあるカワヅザクラとコブシ、ならびにヨコハマヒザクラを見て回った。
カワヅザクラは今が満開といったところか、散り始めている。コブシが開花していた。蕾がこの一週間で急激に大きくなっていた。ヨコハマヒザクラは花芽がかなり赤くなっていた。しかしスマホではピントが合わず、撮影は断念。
スマホでは小さな一点にピントを合わせるのは困難である。幾枚か撮影してたまたまピントのあったものを選ぶしかない。今回撮影したヨコハマヒザクラは5枚ともピントがズレていた。
本日は、組合の会館で所用を済ませたのち、桜木町駅で下車して、リニューアルした横浜美術館に寄ってみた。30分程度しか時間がなかったので、コレクション展を足早に三部屋ほど見て回っただけであったが、それなりに楽しく見ることが出来た。思ったよりも空いていた。
年間パスポート制度がなくなったのが残念であったが、年間4000円のパスポート券を販売していた。コレクション展は何回でも見ることが出来、企画展も年3回見ることができるという。これまでの年間パスポート制度は5000円でコレクション展と企画展は何回でも見ることが出来た。それに比べても特に遜色もないし、企画展を3回以上見ることはあまりなかったので、充分有効活用できると判断した。躊躇いなくこれを購入。
問題はどのような企画展がこれから用意されるか、である。
本日のコレクション展、まずはマグリットの「王様の美術館」ほか数点、森村泰昌扮するフリーダ・カーロ、奈良美智など見慣れてはいてもいつもその作品に吸いよせられる不思議な世界を久しぶりに垣間見た。
はじめて記憶に残った作品として吉澤美香の「は-9」と「は-10」という1990年の作品。これは面白く眺めていた。
中には認知症の母親を題材として作品など顔を背けたくなる作品もあったが、総じてもう一度見に行きたいと思う現代美術のコレクションは期待している。
今年の夏から年末にかけてはNHKのピタゴラスイッチを手がけている佐藤雅彦展、年末から年度末にかけては日韓現代美術展(仮称)が予定されていることをはじめて知った。年間パスポートを充分活用できる。
土曜日にかかりつけの内科に出向いた。感染性の胃腸炎で、月曜から二桁にのぼる患者が来院している、とのこと。すごい勢いで蔓延しているようだ、とのこと。
下痢を止めるだけならば強い薬はあるが、無理に止めることあまり良くない。充分な水分補給と、食欲がなくとも何とか消化のいいものを摂取するよういわれた。
整腸剤等のこれまでの薬と、漢方薬の下痢止めを処方してくれた。妻はぐったりして通院できなかったが、私の判断で妻と同じ薬を服用している。残念ながら妻は私よりも重症気味。平熱よりもわずかに高い微熱がなかなか平熱に戻らない。ぐったりしている。食事もなかなか進まない。別途通院と診断が必要かもしれない。
私はだいぶ回復したようで、下痢やお腹のグルグルなる音は止まっている。熱も平熱が続いている。ただし用心をして、朝・昼兼用でお粥を茶碗半分、梅干しと具のない味噌汁、バナナを半分。
夜は二人で一人前のうどんを茹でた。茹でるというよりも、煮込むように充分時間をかけた。茄子とカボチャとシイタケの薄切りを具材として入れてみた。
実に久しぶりに3食続けて私の当番。つくるのも後片付けも。といっても料理ともいえないごく簡単なものばかり。
私の食事は数日かけて徐々に元に戻したい。肉類・油気のあるものは明日以降から。
夕方からは明日退職者会の役員会・幹事会に提出する文書を2枚を作成。多分明日の朝には組合の会館まで出かけることは出来るはずである。
夕食は夫婦でお粥と梅干しとブリの煮物、茄子の煮浸し。妻は肉じゃがをプラス。ところがつい先ほど妻が体調不良を訴えた。妻も同じような症状を呈している。腹痛は共通。今のところ吐き気がとても強いのが違うところ。私の感染性の胃腸炎がうつったとしか思えない。発熱は今のところない。
私も妻ほどではなかったが強い吐き気はあった。私の場合はさいわい吐かないうちに下痢症状がひどくなった。妻がこれからどうなるか、心配している。
私は薬の服用は本日で中止をしてみたので、私が処方された薬は数日分ある。吐き気止めと整腸剤なのでそれで様子を見ることにした。
私の場合も症状はそれなりに激しかった。
本日もまだ微熱。普段体温が36℃に満たない日もある私には37℃台前半でもそれなりの発熱である。明け方にはお腹が賑やかに鳴っていた。親の通院の付き添いは妻にお願いせざるを得なくなった。
ということで、胃腸もまだ本調子ではないようなので、朝食はバナナ1/3本と常温に戻した野菜ジュースコップに半分、そして紅茶で済ませた。
お昼は、お粥の予定であったが、妻が病院の付き添いの帰りにコンビニで柔らかいパンを購入して来てくれた。一枚を薄めのスポーツドリンクで食べた。
特に胃腸は反応を示していないようで、ホッとしている。熱はまだ少し高い。読書の気力は湧かない。
テレビでも見て時間を過ごそうと思うが、時計の針の動きが遅い。
組合の事務所から帰宅したのが12日(水)の夕刻。夕方バスを待っている間に背中に鈍痛があり、なんとなく違和感があった。その夜から激しい下痢でダウン。体が動かなくなった。所用を済ませてからのダウンであったのがせめてもの救い。
今朝になっていつもの内科よりも近くにある内科を受診。一人では行けそうもないので妻に付き添ってもらった。歩いて7分ほどのところだが、行きはタクシーに来てもらった。病院で検温したら37.7℃とまさかの発熱。診断結果はインフルエンザとも食中毒ともいわれず、整腸剤と吐き気を止める薬、ならびに熱を下げる薬を服用を進められた。アセトアミノフェンは大量にあるので処方はなし。
帰りは、妻を杖替わりにゆっくりと歩いて帰宅してみた。温かくて気持ちのいい陽射し。こんな日は外に出てウォーキング日和だが、致し方なし。
帰宅後熱は38.5℃まで上がったが、その後は37℃台でおさまっている。
ひと月前にはやり下痢でダウンしたものの、このときは発熱もなかった。今思えば、今回の方がかなり重症だったと思われる。
12日の夜から食欲はなく、何も食べていない。スポーツドリンクだけが栄養源。明日からはお粥から食事を再開したいものである。
午前中は団地のボランティア作業を30分ほど。ごく短時間で済ませた。午後からウォーキングを兼ねて、近くのターミナル駅へ。商業施設の中の喫茶店でコーヒーを喫しながら、14年前の3.11のことを思い出していた。
帰宅してみると往復9千歩ほど。夕方からは、先ほどアップしたブログを記事をまとめた。
夜のウォーキングに出かけようとしたら、小雨ながら雨が降り始めてしまい、断念。歩いた歩数としては少々物足りない。
明日は組合の事務所へ寄ってみることにしている。来週の月曜日の幹事会の準備作業である。
本日は東日本大震災から14年の日である。しかしこの3月に大船渡の山林火災という大きな災害に見舞われるという事態が起きている。何とも言葉もない。
毎年3月11日はその日に自分が何をしていたか、災害発生時やその直後のことをいろいろと思い出している。発生した2011年は、定年退職まであと13か月という時期。翌年3月31日の定年と同時に退職する意向は固めていたし、労働組合の役員もその前年の10月の支部大会で退任していた。
発生した時間での職場での振る舞い、帰宅途中での体験、その翌日から数日のこと、労働組合役員経験者としての組合員の安否確認の補助や支援活動での体験など、何度も思い浮かべる。当然忘れたこともあるが、かなりは鮮明に覚えている。
地震発生日と原発事故の数日は、そのことに追われたが、翌週からは1995年1月17日の阪神淡路大震災時のことを思い浮かべながら、余計なこととは思ったが、引き継いだ役員へ経験上の体験などを電話で伝えたり、慌ただしかった。
災害対応というのは、共通課題が多い。そしていづれも風水害、地震、火災、八潮市での都市基盤での発災等々、いづれも日常業務の延長であることも多い。
労働組合はボランティアとして、あるいは業務としての支援活動への関与などだけではない。特に私などの労組の支部のように都市基盤整備の第一線に携わる部所では、労働安全衛生法を最大限活用し、日常の人員体制、日常使う機械器具類の整備、日常災害時の連絡体制、指示系統の整備・に生かすことが体制整備に必要である。これらの事項の交渉過程では常に「大きな災害にも連動させて日常体制を考える」ことが大切であるというのが、阪神淡路大震災での私たちの支部の大きな教訓であった。
ここが当局とのズレを埋めて職場体制を強化する視点であった。これを今でも労使交渉の大きな柱として生かしてほしいと心から願っている。
そんなことを考えながら、本日は過ごした。
午前中は自宅前の雑草刈りを1時間ほど。さらに団地の管理組合の諮問機関に関連する事務作業を少々。
午後は昨日都は違い晴れて、太陽が顔を出してくれた。薄手のジャンバーを着て、新横浜駅までの距離の約半分をウォーキング。地下鉄の新横浜駅の二つ手前の駅から新横浜駅のビルにある家電量販店まで。パソコンとその周辺機器の値段の調査(といっても購入する気はなし)と喫茶店での読書。
新横浜駅内は旅行客で混雑。喫茶店も満杯であった。かろうじてひとつだけ空いた席を見つけることが出来た。
読んだ本は「芸術原論」(赤瀬川原平)の第四編「路の感覚」の「『吾輩は猫である』の猫の子孫」と「植物的無意識の採集」。
路上観察学会の活動の紹介のような箇所。同時にその活動への著者のこだわりを楽しく読み進めた。
帰りは新横浜駅から地下鉄で二つ目までは乗車。その先は少し遠回りをして神奈川大学のキャンパスの周囲をめぐってから帰宅。往復で1万5千歩程のウォーキング。
太陽が出ている時は暖かであったが、日がかげると風が冷たかった。
夕方には娘夫婦が我が家に来て、ハワイ旅行の報告会。私の親と5人での食事を楽しんだ。
明日は一日出かける予定。
本日は代々木公園で開催された「3.11福島原発事故を忘れない さようなら原発3.8全国集会」に退職者会の仲間20余名とともに参加した。
12時前に横浜駅に集合し、13時過ぎに代々木公園に到着。時折り細かい雪が降ってきたが、途中で日も差す温かい時間もあった。公園入り口ではちょうど見頃の河津桜が美しかった。
外苑前駅でデモが終わって渋谷に戻ると、雨になっていてびっくり。代々木公園で集会があると必ず寄ることになっている道玄小路の沖縄料理の店に10名で入店。2時間、泡盛等で体を内側から温めて帰路についた。
横浜駅からはバスで帰宅。団地の最寄りのバス停で降りるとすでに歩道上は雪が1cmほど積もっていた。
前回の雪よりも少しばかり多めに積もっているように思われた。帰宅すると2万歩を大きく超えていた。
本日はいつものとおり横浜駅までウォーキング。金融機関をいくつかまわり、いつもの喫茶店に辿り着いた。7千歩あまり。
喫茶店では「芸術原論」(赤瀬川原平)を少々。第三篇「脱芸術的考察」の「脱芸術の科学-視線をとらえる視線」、第四編「路の感覚」の「アークヒルズのエントツ」を読み終えた。
「1960年のころ、絵画はなお絵画として世の中にあるが、マグリットの絵に蓋をされた絵具箱の中でのできごとである。芸術を絵画の中におさめようとするのは無理な話だ。収めようとして収めきれない芸術は、絵画の表面にぷつぷつと凸起物となってはみ出してきた。印象派が盛り上げた絵具の厚みのおさらいである。印象派の画家たちは、無意識のうちに絵具を物体としてあらわしたのだ。それがこんどははっきりと意識されて、絵画表面の絵具の中に異物を呼び込んでくる。・・キャンパスと絵具は次第に物体色を強めてオブジェが生れ、作品形態はオブジェからさらにハプニングへと移行した。そこで芸術は形態を失い、すべての物体から蒸発し、行方不明となったのである。私は芸術の抜け出た絵画を梱包した。絵を描く本能を持って生きている画家の筆先から芸術の逃げてしまったことの報告である。」(脱芸術の科学)
1960年代の現代芸術の大雑把な流れをこのように渦中にいた赤瀬川は理解していたのかとあらためて認識した。私には思いつかなかった把握である。
「私の路上観察への入口は超芸術トマソン(ジャイアンツに在籍したゲーリー・トマソンの名にちなむ)だった。超芸術とは、無意味無用でありながらこの生産社会の一隅に存在を続けている物件である。階段を昇った先の入口をセメントで塞がれている無用の階段・・・。」(アークヒルズのトンネル)
これは有名な話なのだが、もう記憶の彼方であった。思い出すように記しておく。
妻が松田町へ河津桜を見に行き、菜の花を購入してきた。大半は茹でて胃袋へ。花が開いたものは花瓶に活けた。玄関の靴箱の上に花瓶をおいてみた。夜の玄関の弱い光に照らされた菜の花はなかなかいい具合であった。
午前中は昨日の病院の付き添い時に立ち寄れなかった薬局に出向いて、処方された薬を受け取ってから、団地の最寄りの駅の近くのスーパーへ。足りない食材は横浜駅まで出向いて購入。
途中でわかれて私はいつもの喫茶店で読書タイムを満喫する予定であったが、肝心な本を家に置き忘れていた。
残念ながらコーヒータイム=昼寝タイムとなった。
天候が悪く二日間ウォーキングらしいウォーキングをしていなかったので、本日は家に戻る前にウォーキングを終了、1万2千歩ほど。夜になって冷たい北風が強まってきた。これより雨が降るらしいので、夜のウォーキングは中止。
うっすらと積もっていた雪も夜中過ぎから雨混じりとなり、白いところがどんどんなくなっていった。7時過ぎに外を見ると雪は消えていた。雪掻きの必要がなくなり、二度寝。
本日は昨日に続いて親の通院の付き添い。昨日は眼科、本日は整形外科と内科。本日は定期的な通院だったが、昨日は突発的な通院。だんだんとこういう日が多くなってきている。
昨日から本日にかけては「芸術原論」(赤瀬川原平)の第三部「脱芸術的考察」の「価値をつくる」および「自壊した絵画の内側」を読んだ。。
「現代の芸術はすでにある価値の多少の価値の移動によって、その作家の手もとになにがしかの価値を生んでいる。経済的にも多少は儲かったりする。しかしそれ以上のことはない。もともとは絶対的な新しい価値をつくる担い手であった芸術が、いまは世の中のほかの担い手たちとおなじように、相対的な価値しかつくり出せなくなってきている。」(価値をつくる)
「芸術とは芸術家がつくるものだ。芸術作品にはその作者がいる。その作品の芸術的意味、芸術的価値は、それを作ろうとした作者によってつくられるほかはない。ところが超芸術作品には作者がいない。・・・では作者がいない超芸術作品は誰が作るのか。それはほとんど観るものによってつくられている。無意識の耕作者によってつくられたものが、その発見者の意識によって超芸術となる。芸術作品では意味と作業とを統一している作者一人の役割というものが、超芸術では工作者と鑑賞者の二人に見事に分担されている。分担というより、その価値のほとんどすべてがそれを鑑賞するものによってつくられている。それが発見されなければそこには何の価値もない・・・。」(同)
ここまでの引用部分には、私が理解した限りでは同感である。
「つくる、ということの原理をのぞくと、結局はエネルギーの変換に過ぎないということになる。・・・価値というのは人間だけが創り出したものではなく、生命のすべてが創り出している。価値というのは自分の力が創るというより、その価値を受けようとすることがその対象物に価値を創る。そういう芸術、超芸術の価値を代表して、エネルギー変換の剰余というものがさらに桜れていくだろう。芸術、超芸術の価値を代表として、エネルギー変換の剰余というものがさらに探られていくだろう。物質的エネルギー変換の剰余として生れた精神の、さらにその余りとしての霊的世界のことである。」(同)
結論部分のここについては、よく理解できていない。理解できるには時間がかかりそうである。文章がこなれているとは言えず、飛躍も多い。とりあえず保留しておこう。
「かつて平面に閉じられていた絵画が立体的に捻じれてふくらむ現場を目撃してきた私は、その芸術の価値がさら私の体内で捻じれながら現実空間へ蒸着していくのを感じていた。だけどそのときの私の頭の中には何の理論武装があるわけではなく、間もなくはじまった「千円札」の裁判で、芸術の不確定性についてのさらに重く苦しい勉強をすることになるのであった。」(自壊した絵画の内側)