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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

寒の入り

2017年01月08日 22時32分19秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今年の寒の入りは1月5日であった。今日になって気が付いた。
 横浜では今の時間、時間雨量に換算して20ミリ未満の雨が絶え間なく続いている。雨の区域は東から西に流れている。最高気温は今のところ13時半過ぎに記録した6.7℃で平年よりも3.5℃も低いらしい。そして風が強くなってきた。窓に風と雨が当たるようになった。強風で東海道線に遅れも出ているとのことである。20時前に11.3mの風を記録している。
 昼過ぎにハガキを投函しただけで、外には出ていない。一階の我が家は底冷えがする。炬燵でも欲しいところであるが、炬燵を据えるともう外には出たくなくなる。ますます出不精になりそうなので炬燵はもう30数年使っていない。電気こたつはすでに廃棄してしまった。

★寒に入る親しきものに会ふごとく   石田勝彦
 キリッと身の引き締まるような寒さの中、親しきものとの交際こそ「親しき中にも礼儀あり」のことわざをあらためて思い出す。緊張感を保持した友人との関係にこそ、友情がある。

円山応挙展から「雨竹風竹図屏風」

2017年01月08日 18時03分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
[左隻]     [右隻] 

 「雨竹風竹図屏風」(圓光寺蔵)と「雪松図屏風」(三井記念美術館蔵)は前期展示だったので、後期にようやく根津美術館に出向くことのできた私は見ることが出来なかった。特に「雨竹風竹図屏風」はこれまで実際に見ていないので残念であった。
 まず「雨竹風竹」ということなのでどちらが雨でどちらが風を表現しているのだろうか。図録をじっと見ていてもよく分からなかった。
 風竹というのだから、風に靡いて幹が動いていると思われるのは右隻、そうすると雨竹というのだから、雨に打たれているのは左隻ということになる。しかし右隻の方が葉が下にうなだれており、雨の竹の様にふさわしい。すると左隻が風を受けている竹だろうか。
 図録の解説によれば、右隻の右端にある密集した竹に縦方向に淡い澄が描かれており、さらに右隻中央の竹は下向きの葉が長めに描かれ、雨が葉から滴るような描写になっていると記されている。左隻は右隻に比べ短めの葉が四方に広がっており、軽く乾いた風の存在が想定されると記してある。「左隻」は微かな風というのに驚いたが、なるほどと思わせる解説である。
 さらに解説では中国の牧谿、李唐、夏昶などの墨竹画の影響を指摘している。多分そウなのであろう。しかし私は一見して等伯の「松林図屏風」を思い浮かべた。等伯の松林図ほどの広い空間を描いたとはいいがたいが、松を竹に置き換え、奥行き感をぼかしや濃淡で表現し得ていると感じた。見方によっては等伯の作品よりも竹という素材ゆえに細部のこだわりが生かされているかもしれない。等伯の作品を目にした可能性はあるのだろうか。
 是非ともこの作品、実際に目にしたいものである。何かいい機会があるといいのだが‥。




冷たい雨が本降り

2017年01月08日 14時56分04秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 外はとても冷たい雨、そしていつの間にか本降りとなった。喪中のお知らせをいただいた方に、寒中見舞いを5枚ほど。亡くなった方と言葉を交わしたり、会ったことがある方の場合にお悔やみを添えて。

 いかにも冬らしい雨だが、本日は「成人式」でもある。横浜駅までコーヒーでも飲みに出かけようと思ったが、成人式帰りで地下鉄も駅構内も、地下街もごった返していると思われるので、本日は引きこもりを決め込んだ。
 コーヒーは自分でドリップ。

 テレビも朝9時からの日曜美術館を見ただけ。特に見たいものもない。

★辞書棚に戻し聴こえる冬の雨    堀  葦男
★山荘や冬を妊る雨の音       下村志津子

 辞書棚というからには図書館なのだろう。冬の雨の日の閑散とした図書館が目に浮かぶ。
 「冬を妊る」という感覚は男の私には具体的にイメージは出来ないだろうが、どこかでわかったように感じる。それが「山荘」との取り合わせの効果なのだと思う。

バッハ「オルガン独奏作品全集」から「初期作品群4」

2017年01月08日 11時35分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 バッハのオルガン独奏全集から4枚目のCD「初期の作品群4」。26曲をおさめる1995年の録音。オルガン演奏はベルナール・フォクルール。
 いつものとおり小品が並ぶ。前奏曲、フーガ、ファンタジア、パルティータ、あるいは聖書の文言が記されているが、特に形式や内容は分らない。ひたすらオルガンの音色に浸っている。

 荘厳、威厳、敬虔、信仰の純粋さなどと言う言葉をオルガンの音楽に対する形容として聞くが、私にはあまりピンとこない。ただ静かな心持ちになり、瞑想に誘われることは理解できる。天井の高い広い静かな空間で、固い木の椅子に座ってステンドグラスからの日の光を浴びている時間は自省を促す。そこには神や信仰や奇蹟などが入り込む隙間は私にはない。それが素直ではないといわれれば、そうですかと開き直るしかない。静かな自省の空間と時間があることについて、神に感謝を、と大昔にブラザーに云われたが、未だにピンと来ていない。
ブラザーに優れた尊敬できる教育者もいれば、ひとはた上げたいだけの山師もいたことだけは確かなことだ。ブラザーの集団も俗な集団と大差ないことが垣間見えた。そして日本人教師集団にも、ブラザーにひたすらこびへつらう人間と、人に靡くことのない優れた人格の教師と、我関せずの無関心教師が存在し、戦後日本社会の縮図でしかなかった。戦後日本社会への幻滅と、社会を下から見上げる視点に何となく引き寄せされたのが10代半ばの私の体験だったようだ。
 静かな内省の時間は、教会でなくとも、オルガンがなくても確保できるが、私にとって広い静寂が支配する空間がトリガーとなることは確かなようだ。
 そして俗な集団の中からこそ、内省的で人の心を引き寄せる音楽も芸術も生まれてくることもそれとなく知った。極端に話を飛躍させると、新古今集的美の世界は、政治の世界の権力闘争と生死をかけた争闘の中から咲いているあだ花のようである。その危ういからこそ人を惹きつける美の世界は危険でもある。そして私はそのような美に浸っているが、心の奥底ではこの「泥の中の蓮」という美の世界は、人間の本来の性であってほしくないと叫んでいる。